渋江抽斎 森鴎外 その一  三十七年如一瞬(さんじゅうしちねんいっしゅんのごとし)。学医伝業薄才伸(いをまなびぎょうをつたえてはくさいのぶ)。栄枯窮達任天命(えいこきゅ うたつはてんめいにまかす)。安楽換銭不患貧(あんらくぜににかえひんをうれえず)。これは渋江抽斎(しぶえちゅうさい)の述志の詩である。想(おも) うに天保(てんぽう)十二年の暮に作ったものであろう。弘前(ひろさき)の城主津軽順承(つがるゆきつぐ)の定府(じょうふ)の医官で、当時近習詰(き んじゅづめ)になっていた。しかし隠居附(づき)にせられて、主(おも)に柳島(やなぎしま)にあった信順(のぶゆき)の館(やかた)へ出仕することに なっていた。父允成(ただしげ)が致仕(ちし)して、家督相続をしてから十九年、母岩田氏(いわたうじ)縫(ぬい)を喪(うしな)ってから十二年、父を 失ってから四年になっている。三度目の妻岡西氏(おかにしうじ)徳(とく)と長男恒善(つねよし)、長女純(いと)、二男優善(やすよし)とが家族で、 五人暮しである。主人が三十七、妻が三十二、長男が十六、長女が十一、二男が七つである。邸(やしき)は神田(かんだ)弁慶橋(べんけいばし)にあった 。知行(ちぎょう)は三百石である。しかし抽斎は心を潜めて古代の医書を読むことが好(すき)で、技(わざ)を售(う)ろうという念がないから、知行よ り外(ほか)の収入は殆(ほとん)どなかっただろう。ただ津軽家の秘方(ひほう)一粒金丹(いちりゅうきんたん)というものを製して売ることを許されて いたので、若干(そこばく)の利益はあった。  抽斎は自(みずか)ら奉ずること極めて薄い人であった。酒は全く飲まなかったが、四年前に先代の藩主信順に扈随(こずい)して弘前に往(い)って、翌 年まで寒国にいたので、晩酌をするようになった。煙草(タバコ)は終生喫(の)まなかった。遊山(ゆさん)などもしない。時々採薬に小旅行をする位に過 ぎない。ただ好劇家で劇場にはしばしば出入(でいり)したが、それも同好の人々と一しょに平土間(ひらどま)を買って行くことに極(き)めていた。この 連中を周茂叔連(しゅうもしゅくれん)と称(とな)えたのは、廉を愛するという意味であったそうである。  抽斎は金を何に費やしたか。恐らくは書を購(あがな)うと客(かく)を養うとの二つの外に出(い)でなかっただろう。渋江家は代々学医であったから、 父祖の手沢(しゅたく)を存じている書籍が少(すくな)くなかっただろうが、現に『経籍訪古志(けいせきほうこし)』に載っている書目を見ても抽斎が書 を買うために貲(し)を惜(おし)まなかったことは想い遣(や)られる。  抽斎の家には食客(しょっかく)が絶えなかった。少いときは二、三人、多いときは十余人だったそうである。大抵諸生の中で、志(こころざし)があり才 があって自ら給せざるものを選んで、寄食を許していたのだろう。  抽斎は詩に貧を説いている。その貧がどんな程度のものであったかということは、ほぼ以上の事実から推測することが出来る。この詩を瞥見(べっけん)す れば、抽斎はその貧に安んじて、自家(じか)の材能(さいのう)を父祖伝来の医業の上に施していたかとも思われよう。しかし私は抽斎の不平が二十八字の 底に隠されてあるのを見ずにはいられない。試みに看(み)るが好(よ)い。一瞬の如くに過ぎ去った四十年足らずの月日を顧みた第一の句は、第二の薄才伸 (のぶ)を以(もっ)て妥(おだやか)に承(う)けられるはずがない。伸(のぶ)るというのは反語でなくてはならない。老驥(ろうき)櫪(れき)に伏( ふく)すれども、志千里にありという意がこの中(うち)に蔵せられている。第三もまた同じ事である。作者は天命に任せるとはいっているが、意を栄達に絶 っているのではなさそうである。さて第四に至って、作者はその貧を患(うれ)えずに、安楽を得ているといっている。これも反語であろうか。いや。そうで はない。久しく修養を積んで、内に恃(たの)む所のある作者は、身を困苦の中(うち)に屈していて、志はいまだ伸びないでもそこに安楽を得ていたのであ ろう。 その二  抽斎はこの詩を作ってから三年の後(のち)、弘化(こうか)元年に躋寿館(せいじゅかん)の講師になった。躋寿館は明和(めいわ)二年に多紀玉池(た きぎょくち)が佐久間町(さくまちょう)の天文台址(あと)に立てた医学校で、寛政(かんせい)三年に幕府の管轄(かんかつ)に移されたものである。抽 斎が講師になった時には、もう玉池が死に、子藍渓(らんけい)、孫桂山(けいざん)、曾孫柳 ※(「さんずい+片」、第3水準1-86-57) (りゅうはん)が死に、玄孫暁湖(ぎょうこ)の代になっていた。抽斎と親しかった桂山の二男 ※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13) 庭(さいてい)は、分家して館に勤めていたのである。今の制度に較(くら)べて見れば、抽斎は帝国大学医科大学の教職に任ぜられたようなものである。こ れと同時に抽斎は式日(しきじつ)に登城(とじょう)することになり、次いで嘉永(かえい)二年に将軍家慶(いえよし)に謁見して、いわゆる目見(めみ え)以上の身分になった。これは抽斎の四十五歳の時で、その才が伸びたということは、この時に至って始(はじめ)て言うことが出来たであろう。しかし貧 窮は旧に依(よ)っていたらしい。幕府からは嘉永三年以後十五人扶持(ふち)出ることになり、安政(あんせい)元年にまた職務俸の如き性質の五人扶持が 給せられ、年末ごとに賞銀五両が渡されたが、新しい身分のために生ずる費用は、これを以(もっ)て償うことは出来なかった。謁見の年には、当時の抽斎の 妻(さい)山内氏(やまのうちうじ)五百(いお)が、衣類や装飾品を売って費用に充(み)てたそうである。五百は徳が亡くなった後(のち)に抽斎の納( い)れた四人目の妻(さい)である。  抽斎の述志の詩は、今わたくしが中村不折(なかむらふせつ)さんに書いてもらって、居間に懸けている。わたくしはこの頃抽斎を敬慕する余りに、この幅 (ふく)を作らせたのである。  抽斎は現に広く世間に知られている人物ではない。偶(たまたま)少数の人が知っているのは、それは『経籍訪古志』の著者の一人(いちにん)として知っ ているのである。多方面であった抽斎には、本業の医学に関するものを始(はじめ)として、哲学に関するもの、芸術に関するもの等、許多(あまた)の著述 がある。しかし安政五年に抽斎が五十四歳で亡くなるまでに、脱稿しなかったものもある。また既に成った書も、当時は書籍を刊行するということが容易でな かったので、世に公(おおやけ)にせられなかった。  抽斎の著(あらわ)した書で、存命中に印行(いんこう)せられたのは、ただ『護痘要法(ごとうようほう)』一部のみである。これは種痘術のまだ広く行 われなかった当時、医中の先覚者がこの恐るべき伝染病のために作った数種の書の一つで、抽斎は術を池田京水(いけだけいすい)に受けて記述したのである 。これを除いては、ここに数え挙げるのも可笑(おか)しいほどの『四(よ)つの海』という長唄(ながうた)の本があるに過ぎない。但(ただ)しこれは当 時作者が自家の体面(ていめん)をいたわって、贔屓(ひいき)にしている富士田千蔵(ふじたせんぞう)の名で公にしたのだが、今は憚(はばか)るには及 ぶまい。『四つの海』は今なお杵屋(きねや)の一派では用いている謡物(うたいもの)の一つで、これも抽斎が多方面であったということを証するに足る作 である。  然(しか)らば世に多少知られている『経籍訪古志』はどうであるか。これは抽斎の考証学の方面を代表すべき著述で、森枳園(もりきえん)と分担して書 いたものであるが、これを上梓(じょうし)することは出来なかった。そのうち支那公使館にいた楊守敬(ようしゅけい)がその写本を手に入れ、それを姚子 梁(ようしりょう)が公使徐承祖(じょしょうそ)に見せたので、徐承祖が序文を書いて刊行させることになった。その時幸(さいわい)に森がまだ生存して いて、校正したのである。  世間に多少抽斎を知っている人のあるのは、この支那人の手で刊行せられた『経籍訪古志』があるからである。しかしわたくしはこれに依って抽斎を知った のではない。  わたくしは少(わか)い時から多読の癖があって、随分多く書を買う。わたくしの俸銭の大部分は内地の書肆(しょし)と、ベルリン、パリイの書估(しょ こ)との手に入(い)ってしまう。しかしわたくしはかつて珍本を求めたことがない。或(あ)る時ドイツのバルテルスの『文学史』の序を読むと、バルテル スが多く書を読もうとして、廉価の本を渉猟(しょうりょう)し、『文学史』に引用した諸家の書も、大抵レクラム版の書に過ぎないといってあった。わたく しはこれを読んで私(ひそ)かに殊域同嗜(しゅいきどうし)の人を獲(え)たと思った。それゆえわたくしは漢籍においても宋槧本(そうざんほん)とか元 槧本(げんざんほん)とかいうものを顧みない。『経籍訪古志』は余りわたくしの用に立たない。わたくしはその著者が渋江と森とであったことをも忘れてい たのである。 その三  わたくしの抽斎を知ったのは奇縁である。わたくしは医者になって大学を出た。そして官吏になった。然(しか)るに少(わか)い時から文を作ることを好 んでいたので、いつの間にやら文士の列に加えられることになった。その文章の題材を、種々の周囲の状況のために、過去に求めるようになってから、わたく しは徳川時代の事蹟を捜(さぐ)った。そこに「武鑑(ぶかん)」を検する必要が生じた。 「武鑑」は、わたくしの見る所によれば、徳川史を窮(きわ)むるに闕(か)くべからざる史料である。然るに公開せられている図書館では、年を逐(お)っ て発行せられた「武鑑」を集めていない。これは「武鑑」、殊(こと)に寛文(かんぶん)頃より古い類書は、諸侯の事を記(き)するに誤謬(ごびゅう)が 多くて、信じがたいので、措(お)いて顧みないのかも知れない。しかし「武鑑」の成立(なりたち)を考えて見れば、この誤謬の多いのは当然で、それはま た他書によって正(ただ)すことが容易である。さて誤謬は誤謬として、記載の全体を観察すれば、徳川時代の某年某月の現在人物等を断面的に知るには、こ れに優(まさ)る史料はない。そこでわたくしは自ら「武鑑」を蒐集(しゅうしゅう)することに着手した。  この蒐集の間に、わたくしは「弘前医官渋江氏(うじ)蔵書記」という朱印のある本に度々(たびたび)出逢(であ)って、中には買い入れたのもある。わ たくしはこれによって弘前の官医で渋江という人が、多く「武鑑」を蔵していたということを、先(ま)ず知った。  そのうち「武鑑」というものは、いつから始まって、最も古いもので現存しているのはいつの本かという問題が生じた。それを決するには、どれだけの種類 の書を「武鑑」の中(うち)に数えるかという、「武鑑」のデフィニションを極(き)めて掛からなくてはならない。  それにはわたくしは『足利(あしかが)武鑑』、『織田(おだ)武鑑』、『豊臣(とよとみ)武鑑』というような、後の人のレコンストリュクションによっ て作られた書を最初に除く。次に『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』にあるような分限帳(ぶんげんちょう)の類を除く。そうすると跡に、時代の古いもの では、「御馬印揃(おんうまじるしぞろえ)」、「御紋尽(ごもんづくし)」、「御屋敷附(おんやしきづけ)」の類が残って、それがやや形を整えた「江戸 鑑(えどかがみ)」となり、「江戸鑑」は直ちに後のいわゆる「武鑑」に接続するのである。  わたくしは現に蒐集中であるから、わたくしの「武鑑」に対する知識は日々(にちにち)変って行く。しかし今知っている限(かぎり)を言えば、馬印揃や 紋尽は寛永(かんえい)中からあったが、当時のものは今存(そん)じていない。その存じているのは後に改板(かいはん)したものである。ただ一つここに 姑(しばら)く問題外として置きたいものがある。それは沼田頼輔(ぬまたらいすけ)さんが最古の「武鑑」として報告した、鎌田氏(かまだうじ)の『治代 普顕記(ちたいふけんき)』中の記載である。沼田さんは西洋で特殊な史料として研究せられているエラルヂックを、我国に興そうとしているものと見えて、 紋章を研究している。そしてこの目的を以て「武鑑」をあさるうちに、土佐の鎌田氏が寛永十一年の一万石以上の諸侯を記載したのを発見した。即(すなわ) ち『治代普顕記』の一節である。沼田さんは幸にわたくしに謄写(とうしゃ)を許したから、わたくしは近いうちにこの記載を精検しようと思っている。  そんなら今に ※(「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53) (いた)るまでに、わたくしの見た最古の「武鑑」乃至(ないし)その類書は何かというと、それは正保(しょうほう)二年に作った江戸の「屋敷附」である 。これは殆(ほとん)ど完全に保存せられた板本(はんぽん)で、末(すえ)に正保四年と刻してある。ただ題号を刻した紙が失われたので、恣(ほしいまま )に命じた名が表紙に書いてある。この本が正保四年と刻してあっても、実は正保二年に作ったものだという証拠は、巻中に数カ条あるが、試みにその一つを 言えば、正保二年十二月二日に歿(ぼっ)した細川三斎(ほそかわさんさい)が三斎老として挙げてあって、またその第(やしき)を諸邸宅のオリアンタショ ンのために引合(ひきあい)に出してある事である。この本は東京帝国大学図書館にある。 その四  わたくしはこの正保二年に出来て、四年に上梓(じょうし)せられた「屋敷附」より古い「武鑑」の類書を見たことがない。降(くだ)って慶安(けいあん )中の「紋尽(もんづくし)」になると、現に上野の帝国図書館にも一冊ある。しかし可笑(おか)しい事には、外題(げだい)に慶安としてあるものは、後 に寛文(かんぶん)中に作ったもので、真に慶安中に作ったものは、内容を改めずに、後の年号を附して印行(いんこう)したものである。それから明暦(め いれき)中の本になると、世間にちらほら残っている。大学にある「紋尽」には、伴信友(ばんのぶとも)の自筆の序がある。伴は文政(ぶんせい)三年にこ の本を獲(え)て、最古の「武鑑」として蔵していたのだそうである。それから寛文中の「江戸鑑(えどかがみ)」になると、世間にやや多い。  これはわたくしが数年間「武鑑」を捜索して得た断案である。然(しか)るにわたくしに先んじて、夙(はや)く同じ断案を得た人がある。それは上野の図 書館にある『江戸鑑図目録(えどかんずもくろく)』という写本を見て知ることが出来る。この書は古い「武鑑」類と江戸図との目録で、著者は自己の寓目( ぐうもく)した本と、買い得て蔵していた本とを挙げている。この書に正保二年の「屋敷附」を以て当時存じていた最古の「武鑑」類書だとして、巻首に載せ ていて、二年の二の字の傍(かたわら)に四と註(ちゅう)している。著者は四年と刻してあるこの書の内容が二年の事実だということにも心附いていたもの と見える。著者はわたくしと同じような蒐集をして、同じ断案を得ていたと見える。ついでだから言うが、わたくしは古い江戸図をも集めている。  然るにこの目録には著者の名が署してない。ただ文中に所々(しょしょ)考証を記(しる)すに当って抽斎云(いわく)としてあるだけである。そしてわた くしの度々見た「弘前医官渋江氏(うじ)蔵書記」の朱印がこの写本にもある。  わたくしはこれを見て、ふと渋江氏と抽斎とが同人ではないかと思った。そしてどうにかしてそれを確(たしか)めようと思い立った。  わたくしは友人、就中(なかんずく)東北地方から出た友人に逢(あ)うごとに、渋江を知らぬか、抽斎を知らぬかと問うた。それから弘前の知人にも書状 を遣(や)って問い合せた。  或る日長井金風(ながいきんぷう)さんに会って問うと、長井さんがいった。「弘前の渋江なら蔵書家で『経籍訪古志』を書いた人だ」といった。しかし抽 斎と号していたかどうだかは長井さんも知らなかった。『経籍訪古志』には抽斎の号は載せてないからである。  そのうち弘前に勤めている同僚の書状が数通(すつう)届いた。わたくしはそれによってこれだけの事を知った。渋江氏は元禄(げんろく)の頃に津軽家に 召し抱えられた医者の家で、代々勤めていた。しかし定府(じょうふ)であったので、弘前には深く交(まじわ)った人が少く、また渋江氏の墓所もなければ 子孫もない。今東京(とうけい)にいる人で、渋江氏と交ったかと思われるのは、飯田巽(いいだたつみ)という人である。また郷土史家として渋江氏の事蹟 を知っていようかと思われるのは、外崎覚(とのさきかく)という人であるという事である。中にも外崎氏の名を指した人は、郷土の事に精(くわ)しい佐藤 弥六(さとうやろく)さんという老人で、当時大正(たいしょう)四年に七十四歳になるといってあった。  わたくしは直接に渋江氏と交ったらしいという飯田巽さんを、先ず訪ねようと思って、唐突(とうとつ)ではあったが、飯田さんの西江戸川町(にしえどが わちょう)の邸(やしき)へ往(い)った。飯田さんは素(も)と宮内省の官吏で、今某会社の監査役をしているのだそうである。西江戸川町の大きい邸はす ぐに知れた。わたくしは誰(たれ)の紹介をも求めずに往ったのに、飯田さんは快(こころよ)く引見(いんけん)して、わたくしの問に答えた。飯田さんは 渋江道純(どうじゅん)を識(し)っていた。それは飯田さんの親戚(しんせき)に医者があって、その人が何か医学上にむずかしい事があると、渋江に問い に往(ゆ)くことになっていたからである。道純は本所(ほんじょ)御台所町(おだいどころちょう)に住んでいた。しかし子孫はどうなったか知らぬという のである。 その五  わたくしは飯田さんの口から始めて道純という名を聞いた。これは『経籍訪古志』の序に署してある名である。しかし道純が抽斎と号したかどうだか飯田さ んは知らなかった。  切角(せっかく)道純を識(し)っていた人に会ったのに、子孫のいるかいないかもわからず、墓所を問うたつきをも得ぬのを遺憾に思って、わたくしは暇 乞(いとまごい)をしようとした。その時飯田さんが、「ちょいとお待(まち)下さい、念のために妻(さい)にきいて見ますから」といった。  細君(さいくん)が席に呼び入れられた。そしてもし渋江道純の跡がどうなっているか知らぬかと問われて答えた。「道純さんの娘さんが本所松井町(まつ いちょう)の杵屋勝久(きねやかつひさ)さんでございます。」 『経籍訪古志』の著者渋江道純の子が現存しているということを、わたくしはこの時始めて知った。しかし杵屋といえば長唄のお師匠さんであろう。それを本 所に訪ねて、「お父(と)うさんに抽斎という別号がありましたか」とか、「お父うさんは「武鑑」を集めてお出(いで)でしたか」とかいうのは、余りに唐 突ではあるまいかと、わたくしは懸念した。  わたくしは杵屋さんに男の親戚がありはせぬか、問い合わせてもらうことを飯田さんに頼んだ。飯田さんはそれをも快く諾した。わたくしは探索の一歩を進 めたのを喜んで、西江戸川町の邸を辞した。  二、三日立って飯田さんの手紙が来た。杵屋さんには渋江終吉(しゅうきち)という甥(おい)があって、下渋谷(しもしぶや)に住んでいるというのであ る。杵屋さんの甥といえば、道純から見れば、孫でなくてはならない。そうして見れば、道純には娘があり孫があって現存しているのである。  わたくしは直(すぐ)に終吉さんに手紙を出して、何時(いつ)何処(どこ)へ往ったら逢(あ)われようかと問うた。返事は直に来た。今風邪(ふうじゃ )で寝ているが、なおったらこっちから往っても好(い)いというのである。手跡(しゅせき)はまだ少(わか)い人らしい。  わたくしは曠(むな)しく終吉さんの病(やまい)の癒(い)えるのを待たなくてはならぬことになった。探索はここに一頓挫(いちとんざ)を来(きた) さなくてはならない。わたくしはそれを遺憾に思って、この隙(ひま)に弘前から、歴史家として道純の事を知っていそうだと知らせて来た外崎覚(とのさき かく)という人を訪ねることにした。  外崎さんは官吏で、籍が諸陵寮(しょりょうりょう)にある。わたくしは宮内省へ往った。そして諸陵寮が宮城を離れた霞(かすみ)が関(せき)の三年坂 上(さんねんざかうえ)にあることを教えられた。常に宮内省には往来(ゆきき)しても、諸陵寮がどこにあるということは知らなかったのである。  諸陵寮の小さい応接所(おうせつじょ)で、わたくしは初めて外崎さんに会った。飯田さんの先輩であったとは違って、この人はわたくしと齢(よわい)も 相若(あいし)くという位で、しかも史学を以て仕えている人である。わたくしは傾蓋(けいがい)故(ふる)きが如き念(おもい)をした。  初対面の挨拶(あいさつ)が済んで、わたくしは来意を陳(の)べた。「武鑑」を蒐集している事、「古(こ)武鑑」に精通していた無名の人の著述が写本 で伝わっている事、その無名の人は自ら抽斎と称している事、その写本に弘前の渋江という人の印がある事、抽斎と渋江とがもしや同人ではあるまいかと思っ ている事、これだけの事をわたくしは簡単に話して、外崎さんに解決を求めた。 その六  外崎(とのさき)さんの答は極めて明快であった。「抽斎というのは『経籍訪古志』を書いた渋江道純の号ですよ。」  わたくしは釈然とした。  抽斎渋江道純は経史子集(けいしししゅう)や医籍を渉猟して考証の書を著(あらわ)したばかりでなく、「古武鑑」や古江戸図をも蒐集して、その考証の 迹(あと)を手記して置いたのである。上野の図書館にある『江戸鑑図目録』は即(すなわ)ち「古武鑑」古江戸図の訪古志である。惟(ただ)経史子集は世 の重要視する所であるから、『経籍訪古志』は一の徐承祖(じょしょうそ)を得て公刊せられ、「古武鑑」や古江戸図は、わたくしどもの如き微力な好事家( こうずか)が偶(たまたま)一顧するに過ぎないから、その目録は僅(わずか)に存して人が識(し)らずにいるのである。わたくしどもはそれが帝国図書館 の保護(ほうご)を受けているのを、せめてもの僥倖(ぎょうこう)としなくてはならない。  わたくしはまたこういう事を思った。抽斎は医者であった。そして官吏であった。そして経書(けいしょ)や諸子のような哲学方面の書をも読み、歴史をも 読み、詩文集のような文芸方面の書をも読んだ。その迹が頗(すこぶ)るわたくしと相似ている。ただその相殊(あいこと)なる所は、古今時(とき)を異( こと)にして、生の相及ばざるのみである。いや。そうではない。今一つ大きい差別(しゃべつ)がある。それは抽斎が哲学文芸において、考証家として樹立 することを得るだけの地位に達していたのに、わたくしは雑駁(ざっぱく)なるヂレッタンチスムの境界(きょうがい)を脱することが出来ない。わたくしは 抽斎に視(み)て忸怩(じくじ)たらざることを得ない。  抽斎はかつてわたくしと同じ道を歩いた人である。しかしその健脚はわたくしの比(たぐい)ではなかった。迥(はるか)にわたくしに優(まさ)った済勝 (せいしょう)の具を有していた。抽斎はわたくしのためには畏敬(いけい)すべき人である。  然(しか)るに奇とすべきは、その人が康衢(こうく)通逵(つうき)をばかり歩いていずに、往々径(こみち)に由(よ)って行くことをもしたという事 である。抽斎は宋槧(そうざん)の経子を討(もと)めたばかりでなく、古い「武鑑」や江戸図をも翫(もてあそ)んだ。もし抽斎がわたくしのコンタンポラ ンであったなら、二人の袖(そで)は横町(よこちょう)の溝板(どぶいた)の上で摩(す)れ合ったはずである。ここにこの人とわたくしとの間に ※(「日+匿」、第4水準2-14-16) (なじ)みが生ずる。わたくしは抽斎を親愛することが出来るのである。  わたくしはこう思う心の喜ばしさを外崎さんに告げた。そしてこれまで抽斎の何人(なんひと)なるかを知らずに、漫然抽斎のマニュスクリイの蔵※者(ぞ うきょしゃ)[#「去/廾」、U+5F06、24-15]たる渋江氏の事蹟を訪ね、そこに先ず『経籍訪古志』を著(あらわ)した渋江道純の名を知り、そ の道純を識っていた人に由って、道純の子孫の現存していることを聞き、ようよう今日(こんにち)道純と抽斎とが同人であることを知ったという道行(みち ゆき)を語った。  外崎さんも事の奇なるに驚いていった。「抽斎の子なら、わたくしは識っています。」 「そうですか。長唄のお師匠さんだそうですね。」 「いいえ。それは知りません。わたくしの知っているのは抽斎の跡を継いだ子で、保(たもつ)という人です。」 「はあ。それでは渋江保という人が、抽斎の嗣子(しし)であったのですか。今保さんは何処(どこ)に住んでいますか。」 「さあ。大(だい)ぶ久しく逢いませんから、ちょっと住所がわかりかねます。しかし同郷人の中には知っているものがありましょうから、近日聞き合せて上 げましょう。」 その七  わたくしは直(すぐ)に保さんの住所を討(たず)ねることを外崎さんに頼んだ。保という名は、わたくしは始めて聞いたのではない。これより先、弘前か ら来た書状の中(うち)に、こういうことを報じて来たのがあった。津軽家に仕えた渋江氏の当主は渋江保である。保は広島の師範学校の教員になっていると いうのであった。わたくしは職員録を検した。しかし渋江保の名は見えない。それから広島高等師範学校長幣原坦(しではらたん)さんに書を遣(や)って問 うた。しかし学校にはこの名の人はいない。またかつていたこともなかったらしい。わたくしは多くの人に渋江保の名を挙げて問うて見た。中には博文館(は くぶんかん)の発行した書籍に、この名の著者があったという人が二、三あった。しかし広島に踪跡(そうせき)がなかったので、わたくしはこの報道を疑っ て追跡を中絶していたのである。  此(ここ)に至ってわたくしは抽斎の子が二人(ふたり)と、孫が一人(ひとり)と現存していることを知った。子の一人は女子で、本所にいる勝久さんで ある。今一人は住所の知れぬ保さんである。孫は下渋谷にいる終吉さんである。しかし保さんを識っている外崎さんは、勝久さんをも終吉さんをも識らなかっ た。  わたくしはなお外崎さんについて、抽斎の事蹟を詳(つまびらか)にしようとした。外崎さんは記憶している二、三の事を語った。渋江氏の祖先は津軽信政 (のぶまさ)に召し抱えられた。抽斎はその数世(すせい)の孫(そん)で、文化(ぶんか)中に生れ、安政(あんせい)中に歿(ぼっ)した。その徳川家慶 (いえよし)に謁したのは嘉永(かえい)中の事である。墓誌銘は友人海保漁村(かいほぎょそん)が撰(えら)んだ。外崎さんはおおよそこれだけの事を語 って、追って手近(てぢか)にある書籍の中から抽斎に関する記事を抄出して贈ろうと約した。わたくしは保さんの所在(ありか)を捜すことと、この抜萃( ばっすい)を作ることとを外崎さんに頼んで置いて、諸陵寮の応接所を出た。  外崎さんの書状は間もなく来た。それに『前田文正(まえだぶんせい)筆記』、『津軽日記』、『喫茗雑話(きつめいざつわ)』の三書から、抽斎に関する 事蹟を抄出して添えてあった。中にも『喫茗雑話』から抄したものは、漁村の撰んだ抽斎の墓誌の略で、わたくしはその中(うち)に「道純諱(いみな)全善 、号抽斎、道純其(その)字(あざな)也(なり)」という文のあるのを見出した。後に聞けば全善はかねよしと訓(よ)ませたのだそうである。  これと殆(ほとん)ど同時に、終吉さんのやや長い書状が来た。終吉さんは風邪(ふうじゃ)が急に癒(い)えぬので、わたくしと会見するに先(さきだ) って、渋江氏に関する数件を書いて送るといって、祖父の墓の所在、現存している親戚交互の関係、家督相続をした叔父(おじ)の住所等を報じてくれた。墓 は谷中(やなか)斎場の向いの横町を西へ入(い)って、北側の感応寺(かんのうじ)にある。そこへ往(い)けば漁村の撰んだ墓誌銘の全文が見られるわけ である。血族関係は杵屋勝久さんが姉で、保さんが弟である。この二人の同胞(はらから)の間に脩(おさむ)という人があって、亡くなって、その子が終吉 さんである。然るに勝久さんは長唄の師匠、保さんは著述家、終吉さんは図案を作ることを業とする画家であって、三軒の家は頗(すこぶ)る生計の方向を殊 (こと)にしている。そこで早く怙(こ)を失った終吉さんは伯母(おば)をたよって往来(ゆきき)をしていても、勝久さんと保さんとはいつとなく疎遠に なって、勝久さんは久しく弟の住所をだに知らずにいたそうである。そのうち丁度わたくしが渋江氏の子孫を捜しはじめた頃、保さんの女(むすめ)冬子(ふ ゆこ)さんが病死した。それを保さんが姉に報じたので、勝久さんは弟の所在(ありか)を知った。終吉さんが住所を告げてくれた叔父というのが即ち保さん である。是(ここ)においてわたくしは、外崎さんの捜索を煩(わずらわ)すまでもなく、保さんの今の牛込(うしごめ)船河原町(ふながわらちょう)の住 所を知って、直(すぐ)にそれを外崎さんに告げた。 その八  わたくしは谷中の感応寺に往って、抽斎の墓を訪ねた。墓は容易(たやす)く見附けられた。南向の本堂の西側に、西に面して立っている。「抽斎渋江君墓 碣銘(ぼけつめい)」という篆額(てんがく)も墓誌銘も、皆小島成斎(こじませいさい)の書である。漁村の文は頗る長い。後に保さんに聞けば、これでも 碑が余り大きくなるのを恐れて、割愛して刪除(さんじょ)したものだそうである。『喫茗雑話(きつめいざつわ)』の載する所は三分の一にも足りない。わ たくしはまた後に五弓雪窓(ごきゅうせっそう)がこの文を『事実文編(じじつぶんぺん)』巻(けん)の七十二に収めているのを知った。国書刊行会本を閲 (けみ)するに、誤脱はないようである。ただ「撰経籍訪古志」に訓点を施して、経籍を撰び、古志を訪(と)うと訓(よ)ませてあるのに慊(あきたら)な かった。『経籍訪古志』の書名であることは論ずるまでもなく、あれは多紀 ※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13) 庭(たきさいてい)の命じた名だということが、抽斎と森枳園(もりきえん)との作った序に見えており、訪古の字面(じめん)は、『宋史(そうし)』鄭樵 (ていしょう)の伝に、名山(めいざん)大川(たいせん)に游(あそ)び、奇を捜し古(いにしえ)を訪い、書を蔵する家に遇(あ)えば、必ず借留(しゃ くりゅう)し、読み尽して乃(すなわ)ち去るとあるのに出たということが、枳園の書後に見えておる。  墓誌に三子ありとして、恒善、優善、成善の名が挙げてあり、また「一女平野氏(ひらのうじ)出(しゅつ)」としてある。恒善はつねよし、優善はやすよ し、成善はしげよしで、成善が保さんの事だそうである。また平野氏(うじ)の生んだ女(むすめ)というのは、比良野文蔵(ひらのぶんぞう)の女(むすめ )威能(いの)が、抽斎の二人(ににん)目の妻(さい)になって生んだ純(いと)である。勝久さんや終吉さんの亡父脩(おさむ)はこの文に載せてないの である。  抽斎の碑の西に渋江氏の墓が四基ある。その一には「性如院宗是日体信士、庚申(こうしん)元文(げんぶん)五年閏七月十七日」と、向って右の傍(かた わら)に彫(え)ってある。抽斎の高祖父輔之(ほし)である。中央に「得寿院量遠日妙信士、天保八酉年十月廿六日」と彫ってある。抽斎の父允成(ただし げ)である。その間と左とに高祖父と父との配偶、夭折(ようせつ)した允成の女(むすめ)二人(ふたり)の法諡(ほうし)が彫ってある。「松峰院妙実日 相信女、己丑(きちゅう)明和六年四月廿三日」とあるのは、輔之の妻、「源静院妙境信女、庚戌(こうじゅつ)寛政二年四月十三日」とあるのは、允成(た だしげ)の初(はじめ)の妻田中氏(うじ)、「寿松院妙遠日量信女、文政十二己丑(きちゅう)六月十四日」とあるのは、抽斎の生母岩田氏(いわたうじ) 縫(ぬい)、「妙稟童女、父名允成、母川崎氏、寛政六年甲寅(こういん)三月七日、三歳而夭、俗名逸」とあるのも、「曇華(どんげ)水子(すいし)、文 化八年辛未(しんび)閏(じゅん)二月十四日」とあるのも、並(ならび)に皆允成の女(むすめ)である。その二には「至善院格誠日在、寛保二年壬戌(じ んじゅつ)七月二日」と一行に彫り、それと並べて「終事院菊晩日栄、嘉永七年甲寅(こういん)三月十日」と彫ってある。至善院は抽斎の曾祖父為隣(いり ん)で、終事院は抽斎が五十歳の時父に先(さきだ)って死んだ長男恒善(つねよし)である。その三には五人の法諡が並べて刻してある。「医妙院道意日深 信士、天明(てんめい)四甲辰(こうしん)二月二十九日」としてあるのは、抽斎の祖父本皓(ほんこう)である。「智照院妙道日修信女、寛政四壬子(じん し)八月二十八日」としてあるのは、本皓の妻登勢(とせ)である。「性蓮院妙相日縁信女、父本皓、母渋江氏、安永(あんえい)六年丁酉(ていゆう)五月 三日死(しす)、享年十九、俗名千代、作臨終歌曰(りんじゅううたをつくりていわく)」云々(うんぬん)としてあるのは、登勢の生んだ本皓の女(むすめ )である。抽斎の高祖父輔之は男子がなくて歿したので、十歳になる女(むすめ)登勢に壻(むこ)を取ったのが為隣である。為隣は登勢の人と成らぬうちに 歿した。そこへ本皓が養子に来て、登勢の配偶になって、千代を生ませたのである。千代が十九歳で歿したので、渋江氏の血統は一たび絶えた。抽斎の父允成 は本皓の養子である。次に某々孩子(ぼうぼうがいし)と二行に刻してあるのは、並に皆保さんの子だそうである。その四には「渋江脩之墓」と刻してあって 、これは石が新しい。終吉さんの父である。  後に聞けば墓は今一基あって、それには抽斎の六世(せい)の祖辰勝(しんしょう)が「寂而院宗貞日岸居士」とし、その妻が「繋縁院妙念日潮大姉」とし 、五世の祖辰盛(しんせい)が「寂照院道陸玄沢日行居士」とし、その妻が「寂光院妙照日修大姉」とし、抽斎の妻比良野氏(ひらのうじ)が「 ※(「彳+編のつくり」の「戸」に代えて「戸の旧字」、第3水準1-84-34) 照院妙浄日法大姉」とし、同(おなじく)岡西(おかにし)氏が「法心院妙樹日昌大姉」としてあったが、その石の折れてしまった迹(あと)に、今の終吉さ んの父の墓が建てられたのだそうである。  わたくしは自己の敬愛している抽斎と、その尊卑二属とに、香華(こうげ)を手向(たむ)けて置いて感応寺を出た。  尋(つ)いでわたくしは保さんを訪(と)おうと思っていると、偶(たまたま)女(むすめ)杏奴(あんぬ)が病気になった。日々(にちにち)官衙(かん が)には通(かよ)ったが、公退の時には家路を急いだ。それゆえ人を訪問することが出来ぬので、保、終吉の両渋江と外崎との三家へ、度々書状を遣った。  三家からはそれぞれ返信があって、中にも保さんの書状には、抽斎を知るために闕(か)くべからざる資料があった。それのみではない。終吉さんはその隙 (ひま)に全快したので、保さんを訪ねてくれた。抽斎の事をわたくしに語ってもらいたいと頼んだのである。叔父(おじ)甥はここに十数年を隔てて相見た のだそうである。また外崎さんも一度わたくしに代って保さんをおとずれてくれたので、杏奴の病が癒えて、わたくしが船河原町(ふながわらちょう)へ往( ゆ)くに先だって、とうとう保さんが官衙に来てくれて、わたくしは抽斎の嗣子と相見ることを得た。 その九  気候は寒くても、まだ炉を焚(た)く季節に入(い)らぬので、火の気(け)のない官衙の一室で、卓を隔てて保さんとわたくしとは対坐した。そして抽斎 の事を語って倦(う)むことを知らなかった。  今残っている勝久さんと保さんとの姉弟(あねおとうと)、それから終吉さんの父脩(おさむ)、この三人の子は一つ腹で、抽斎の四人目の妻、山内(やま のうち)氏五百(いお)の生んだのである。勝久さんは名を陸(くが)という。抽斎が四十三、五百が三十二になった弘化(こうか)四年に生れて、大正五年 に七十歳になる。抽斎は嘉永四年に本所(ほんじょ)へ移ったのだから、勝久さんはまだ神田で生れたのである。  終吉さんの父脩は安改元年に本所で生れた。中(なか)三年置いて四年に、保さんは生れた。抽斎が五十三、五百が四十二の時の事で、勝久さんはもう十一 、脩も四歳になっていたのである。  抽斎は安政五年に五十四歳で亡くなったから、保さんはその時まだ二歳であった。幸(さいわい)に母五百は明治十七年までながらえていて、保さんは二十 八歳で恃(じ)を喪(うしな)ったのだから、二十六年の久しい間、慈母の口から先考(せんこう)の平生(へいぜい)を聞くことを得たのである。  抽斎は保さんを学医にしようと思っていたと見える。亡くなる前にした遺言(ゆいごん)によれば、経(けい)を海保漁村(かいほぎょそん)に、医を多紀 安琢(たきあんたく)に、書を小島成斎(こじませいさい)に学ばせるようにいってある。それから洋学については、折を見て蘭語(らんご)を教えるが好( い)いといってある。抽斎は友人多紀 ※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13) 庭(さいてい)などと同じように、頗(すこぶ)るオランダ嫌いであった。学殖の深かった抽斎が、新奇を趁(お)う世俗と趨舎(すうしゃ)を同じくしなか ったのは無理もない。劇を好んで俳優を品評した中に市川小団次(いちかわこだんじ)の芸を「西洋」だといってある。これは褒(ほ)めたのではない。然( しか)るにその抽斎が晩年に至って、洋学の必要を感じて、子に蘭語を教えることを遺言したのは、安積艮斎(あさかごんさい)にその著述の写本を借りて読 んだ時、翻然として悟ったからだそうである。想(おも)うにその著述というのは『洋外紀略(ようがいきりゃく)』などであっただろう。保さんは後に蘭語 を学ばずに英語を学ぶことになったが、それは時代の変遷のためである。  わたくしは保さんに、抽斎の事を探り始めた因縁を話した。そして意外にも、僅(わずか)に二歳であった保さんが、父に「武鑑」を貰(もら)って翫(も てあそ)んだということを聞いた。それは出雲寺板(いずもじばん)の「大名(だいみょう)武鑑」で、鹵簿(ろぼ)の道具類に彩色を施したものであったそ うである。それのみではない。保さんは父が大きい本箱に「江戸鑑(えどかがみ)」と貼札(はりふだ)をして、その中に一ぱい古い「武鑑」を収めていたこ とを記憶している。このコルレクションは保さんの五、六歳の時まで散佚(さんいつ)せずにいたそうである。「江戸鑑」の箱があったなら、江戸図の箱もあ っただろう。わたくしはここに『江戸鑑図目録(えどかんずもくろく)』の作られた縁起(えんぎ)を知ることを得たのである。  わたくしは保さんに、父の事に関する記憶を、箇条書(かじょうがき)にしてもらうことを頼んだ。保さんは快諾して、同時にこれまで『独立評論』に追憶 談を載せているから、それを見せようと約した。  保さんと会見してから間もなく、わたくしは大礼(たいれい)に参列するために京都へ立った。勤勉家の保さんは、まだわたくしが京都にいるうちに、書き ものの出来たことを報じた。わたくしは京都から帰って、直(すぐ)に保さんを牛込に訪ねて、書きものを受け取り、また『独立評論』をも借りた。ここにわ たくしの説く所は主として保さんから獲(え)た材料に拠るのである。 その十  渋江氏の祖先は下野(しもつけ)の大田原(おおたわら)家の臣であった。抽斎六世の祖を小左衛門(こざえもん)辰勝(しんしょう)という。大田原政継 (せいけい)、政増(せいそう)の二代に仕えて、正徳(しょうとく)元年七月二日に歿した。辰勝の嫡子重光(ちょうこう)は家を継いで、大田原政増、清 勝(せいしょう)に仕え、二男勝重(しょうちょう)は去って肥前(ひぜん)の大村(おおむら)家に仕え、三男辰盛(しんせい)は奥州(おうしゅう)の津 軽家に仕え、四男勝郷(しょうきょう)は兵学者となった。大村には勝重の往(ゆ)く前に、源頼朝(みなもとのよりとも)時代から続いている渋江公業(こ うぎょう)の後裔(こうえい)がある。それと下野から往った渋江氏との関係の有無(ゆうむ)は、なお講窮すべきである。辰盛が抽斎五世の祖である。  渋江氏の仕えた大田原家というのは、恐らくは下野国那須郡(なすごおり)大田原の城主たる宗家(そうか)ではなく、その支封(しほう)であろう。宗家 は渋江辰勝の仕えたという頃、清信(きよのぶ)、扶清(すけきよ)、友清(ともきよ)などの世であったはずである。大田原家は素(もと)一万二千四百石 であったのに、寛文五年に備前守政清(びぜんのかみまさきよ)が主膳高清(しゅぜんたかきよ)に宗家を襲(つ)がせ、千石を割(さ)いて末家(ばつけ) を立てた。渋江氏はこの支封の家に仕えたのであろう。今手許(てもと)に末家の系譜がないから検することが出来ない。  辰盛は通称を他人(たひと)といって、後小三郎(こさぶろう)と改め、また喜六(きろく)と改めた。道陸(どうりく)は剃髪(ていはつ)してからの称 である。医を今大路(いまおおじ)侍従道三(どうさん)玄淵(げんえん)に学び、元禄十七年三月十二日に江戸で津軽越中守(えっちゅうのかみ)信政(の ぶまさ)に召し抱えられて、擬作金(ぎさくきん)三枚十人扶持を受けた。元禄十七年は宝永(ほうえい)と改元せられた年である。師道三は故土佐守信義( のぶよし)の五女を娶(めと)って、信政の姉壻になっていたのである。辰盛は宝永三年に信政に随(したが)って津軽に往き、四年正月二十八日に知行(ち ぎょう)二百石になり、宝永七年には二度目、正徳二年には三度目に入国して、正徳二年七月二十八日に禄を加増せられて三百石になり、外に十人扶持を給せ られた。この時は信政が宝永七年に卒したので、津軽家は土佐守信寿(のぶしげ)の世になっていた。辰盛は享保(きょうほう)十四年九月十九日に致仕して 、十七年に歿した。出羽守(でわのかみ)信著(のぶあき)の家を嗣(つ)いだ翌年に歿したのである。辰盛の生年は寛文二年だから、年を享(う)くること 七十一歳である。この人は三男で他家に仕えたのに、その父母は宗家から来て奉養を受けていたそうである。  辰盛は兄重光の二男輔之(ほし)を下野から迎え、養子として玄瑳(げんさ)と称(とな)えさせ、これに医学を授けた。即(すなわ)ち抽斎の高祖父であ る。輔之は享保十四年九月十九日に家を継いで、直(すぐ)に三百石を食(は)み、信寿に仕うること二年余の後、信著に仕え、改称して二世道陸となり、元 文五年閏七月十七日に歿した。元禄七年の生(うまれ)であるから、四十七歳で歿したのである。  輔之には登勢(とせ)という女(むすめ)一人(ひとり)しかなかった。そこで病(やまい)革(すみやか)なるとき、信濃(しなの)の人某(それがし) の子を養って嗣(し)となし、これに登勢を配した。登勢はまだ十歳であったから、名のみの夫婦である。この女壻が為隣(いりん)で、抽斎の曾祖父である 。為隣は寛保(かんぽう)元年正月十一日に家を継いで、二月十三日に通称の玄春(げんしゅん)を二世玄瑳(げんさ)と改め、翌寛保二年七月二日に歿し、 跡には登勢が十二歳の未亡人(びぼうじん)として遺(のこ)された。  寛保二年に十五歳で、この登勢に入贅(にゅうぜい)したのは、武蔵国(むさしのくに)忍(おし)の人竹内作左衛門(たけのうちさくざえもん)の子で、 抽斎の祖父本皓(ほんこう)が即ちこれである。津軽家は越中守信寧(のぶやす)の世になっていた。宝暦(ほうれき)九年に登勢が二十九歳で女(むすめ) 千代(ちよ)を生んだ。千代は絶えなんとする渋江氏の血統を僅に繋(つな)ぐべき子で、あまつさえ聡慧(そうけい)なので、父母はこれを一粒種(ひとつ ぶだね)と称して鍾愛(しょうあい)していると、十九歳になった安永六年の五月三日に、辞世の歌を詠んで死んだ。本皓が五十歳、登勢が四十七歳の時であ る。本皓には庶子があって、名を令図(れいと)といったが、渋江氏を続(つ)ぐには特に学芸に長じた人が欲しいというので、本皓は令図を同藩の医小野道 秀(おのどうしゅう)の許(もと)へ養子に遣(や)って、別に継嗣(けいし)を求めた。  この時根津(ねづ)に茗荷屋(みょうがや)という旅店(りょてん)があった。その主人稲垣清蔵(いながきせいぞう)は鳥羽(とば)稲垣家の重臣で、君 (きみ)を諌(いさ)めて旨(むね)に忤(さか)い、遁(のが)れて商人となったのである。清蔵に明和元年五月十二日生れの嫡男専之助(せんのすけ)と いうのがあって、六歳にして詩賦(しふ)を善くした。本皓がこれを聞いて養子に所望すると、清蔵は子を士籍に復せしむることを願っていたので、快(ここ ろよ)く許諾した。そこで下野の宗家を仮親(かりおや)にして、大田原頼母(たのも)家来用人(ようにん)八十石渋江官左衛門(かんざえもん)次男とい う名義で引き取った。専之助名は允成(ただしげ)字(あざな)は子礼(しれい)、定所(ていしょ)と号し、おる所の室(しつ)を容安(ようあん)といっ た。通称は初(はじめ)玄庵(げんあん)といったが、家督の年の十一月十五日に四世道陸と改めた。儒学は柴野栗山(しばのりつざん)、医術は依田松純( よだしょうじゅん)の門人で、著述には『容安室文稿(ようあんしつぶんこう)』、『定所詩集』、『定所雑録』等がある。これが抽斎の父である。 その十一  允成(ただしげ)は才子で美丈夫(びじょうふ)であった。安永七年三月朔(さく)に十五歳で渋江氏に養われて、当時儲君(ちょくん)であった、二つの 年上の出羽守信明(のぶあきら)に愛せられた。養父本皓(ほんこう)の五十八歳で亡くなったのが、天明四年二月二十九日で、信明の襲封(しゅうほう)と 同日である。信明はもう土佐守と称していた。主君が二十三歳、允成が二十一歳である。  寛政三年六月二十二日に信明は僅に三十歳で卒し、八月二十八日に和三郎(わさぶろう)寧親(やすちか)が支封から入(い)って宗家を継いだ。後に越中 守と称した人である。寧親は時に二十七歳で、允成は一つ上の二十八歳である。允成は寧親にも親昵(しんじつ)して、殆(ほとん)ど兄弟(けいてい)の如 くに遇せられた。平生(へいぜい)着丈(きだけ)四尺の衣(い)を著(き)て、体重が二十貫目あったというから、その堂々たる相貌(そうぼう)が思い遣 られる。  当時津軽家に静江(しずえ)という女小姓(おんなごしょう)が勤めていた。それが年老いての後に剃髪して妙了尼(みょうりょうに)と号した。妙了尼が 渋江家に寄寓(きぐう)していた頃、可笑(おか)しい話をした。それは允成が公退した跡になると、女中たちが争ってその茶碗(ちゃわん)の底の余瀝(よ れき)を指に承(う)けて舐(ねぶ)るので、自分も舐ったというのである。  しかし允成は謹厳な人で、女色(じょしょく)などは顧みなかった。最初の妻田中氏は寛政元年八月二十二日に娶(めと)ったが、これには子がなくて、翌 年四月十三日に亡くなった。次に寛政三年六月四日に、寄合(よりあい)戸田政五郎(とだまさごろう)家来納戸役(なんどやく)金七両十二人扶持川崎丈助 (かわさきじょうすけ)の女(むすめ)を迎えたが、これは四年二月に逸(いつ)という女(むすめ)を生んで、逸が三歳で夭折(ようせつ)した翌年、七年 二月十九日に離別せられた。最後に七年四月二十六日に允成の納(い)れた室(しつ)は、下総国(しもうさのくに)佐倉(さくら)の城主堀田(ほった)相 模守(さがみのかみ)正順(まさより)の臣、岩田忠次(いわたちゅうじ)の妹縫(ぬい)で、これが抽斎の母である。結婚した時允成が三十二歳、縫が二十 一歳である。  縫は享和二年に始めて須磨(すま)という女(むすめ)を生んだ。これは後文政二牛に十八歳で、留守居(るすい)年寄(としより)佐野(さの)豊前守( ぶぜんのかみ)政親(まさちか)組飯田四郎左衛門(いいだしろうざえもん)良清(よしきよ)に嫁し、九年に二十五歳で死んだ。次いで文化二年十一月八日 に生れたのが抽斎である。允成四十二歳、縫三十一歳の時の子である。これから後(のち)には文化八年閏(じゅん)二月十四日に女(むすめ)が生れたが、 これは名を命ずるに及ばずして亡くなった。感応寺(かんのうじ)の墓に曇華(どんげ)水子(すいし)と刻してあるのがこの女(むすめ)の法諡(ほうし) である。  允成(ただしげ)は寧親の侍医で、津軽藩邸に催される月並(つきなみ)講釈の教官を兼ね、経学(けいがく)と医学とを藩の子弟に授けていた。三百石十 人扶持の世禄(せいろく)の外に、寛政十二年から勤料(つとめりょう)五人扶持を給せられ、文化四年に更に五人扶持を加え、八年にまた五人扶持を加えら れて、とうとう三百石と二十五人扶持を受けることとなった。中(なか)二年置いて文化十一年に一粒金丹(いちりゅうきんたん)を調製することを許された 。これは世に聞えた津軽家の秘方で、毎月(まいげつ)百両以上の所得になったのである。  允成は表向(おもてむき)侍医たり教官たるのみであったが、寧親の信任を蒙(こうむ)ることが厚かったので、人の敢(あえ)て言わざる事をも言うよう になっていて、数(しばしば)諫(いさ)めて数(しばしば)聴(き)かれた。寧親は文化元年五月連年蝦夷地(えぞち)の防備に任じたという廉(かど)を 以て、四万八千石から一躍して七万石にせられた。いわゆる津軽家の御乗出(おんのりだし)がこれである。五年十二月には南部(なんぶ)家と共に永く東西 蝦夷地を警衛することを命ぜられて、十万石に進み、従(じゅ)四位下(げ)に叙せられた。この津軽家の政務発展の時に当って、允成が啓沃(けいよく)の 功も少くなかったらしい。  允成は文政五年八月朔(さく)に、五十九歳で致仕した。抽斎が十八歳の時である。次いで寧親も八年四月に退隠して、詩歌俳諧(はいかい)を銷遣(しょ うけん)の具とし、歌会には成島司直(なるしましちょく)などを召し、詩会には允成を召すことになっていた。允成は天保(てんぽう)二年六月からは、出 羽国亀田(かめだ)の城主岩城(いわき)伊予守(いよのかみ)隆喜(たかひろ)に嫁した信順(のぶゆき)の姉もと姫に伺候し、同年八月からはまた信順の 室欽姫附(かねひめづき)を兼ねた。八月十五日に隠居料三人扶持を給せられることになったのは、これらのためであろう。中一年置いて四年四月朔に、隠居 料二人扶持を増して、五人扶持にせられた。  允成は天保八年[#「天保八年」は底本では「天保八月」]十月二十六日に、七十四歳で歿した。寧親は四年前の天保四年六月十四日に、六十九歳で卒した 。允成の妻縫(ぬい)は、文政七年七月朔に剃髪して寿松(じゅしょう)といい、十二年六月十四日に五十五歳で亡くなった。夫に先(さきだ)つこと八年で ある。 その十二  抽斎は文化二年十一月八日に、神田弁慶橋に生れたと保(たもつ)さんがいう。これは母五百(いお)の話を記憶しているのであろう。父允成(ただしげ) は四十二歳、母縫(ぬい)は三十一歳の時である。その生れた家はどの辺であるか。弁慶橋というのは橋の名ではなくて町名である。当時の江戸分間大絵図( えどぶんけんおおえず)というものを閲(けみ)するに、和泉橋(いずみばし)と新橋(あたらしばし)との間の柳原通(やなぎはらどおり)の少し南に寄っ て、西から東へ、お玉(たま)が池(いけ)、松枝町(まつえだちょう)、弁慶橋、元柳原町(もとやなぎはらちょう)、佐久間町(さくまちょう)、四間町 (しけんちょう)、大和町(やまとちょう)、豊島町(としまちょう)という順序に、町名が注してある。そして和泉橋を南へ渡って、少し東へ偏(かたよ) って行く通が、東側は弁慶橋、西側は松枝町になっている。この通の東隣(ひがしどなり)の筋は、東側が元柳原町、西側が弁慶橋になっている。わたくしが 富士川游(ふじかわゆう)さんに借りた津軽家の医官の宿直日記によるに、允成(ただしげ)は天明六年八月十九日に豊島町通(どおり)横町(よこちょう) 鎌倉(かまくら)横町家主(いえぬし)伊右衛門店(いえもんたな)を借りた。この鎌倉横町というのは、前いった図を見るに、元柳原町と佐久間町との間で 、北(きた)の方(かた)河岸(かし)に寄った所にある。允成がこの店(たな)を借りたのは、その年正月二十二日に従来住んでいた家が焼けたので、暫( しばら)く多紀桂山(たきけいざん)の許(もと)に寄宿していて、八月に至って移転したのである。その従来住んでいた家も、余り隔たっていぬ和泉橋附近 であったことは、日記の文から推することが出来る。次に文政八年三月晦(みそか)に、抽斎の元柳原六丁目の家が過半類焼したということが、日記に見えて いる。元柳原町は弁慶橋と同じ筋で、ただ東西両側(りょうそく)が名を異にしているに過ぎない。想(おも)うに渋江氏(うじ)は久しく和泉橋附近に住ん でいて、天明に借りた鎌倉横町から、文政八年に至るまでの間に元柳原町に移ったのであろう。この元柳原町六丁目の家は、拍斎の生れた弁慶橋の家と同じで あるかも知れぬが、あるいは抽斎の生れた文化二年に西側の弁慶橋にいて、その後文政八年に至るまでの間に、向側(むかいがわ)の元柳原町に移ったものと 考えられぬでもない。  抽斎は小字(おさなな)を恒吉(つねきち)といった。故越中守信寧(のぶやす)の夫人真寿院(しんじゅいん)がこの子を愛して、当歳の時から五歳にな った頃まで、殆(ほとん)ど日ごとに召し寄せて、傍(そば)で嬉戯(きぎ)するのを見て楽(たのし)んだそうである。美丈夫允成に肖(に)た可憐児(か れんじ)であったものと想われる。  志摩(しま)の稲垣氏の家世(かせい)は今詳(つまびらか)にすることが出来ない。しかし抽斎の祖父清蔵も恐らくは相貌(そうぼう)の立派な人で、そ れが父允成を経由して抽斎に遺伝したものであろう。この身的遺伝と並行して、心的遺伝が存じていなくてはならない。わたくしはここに清蔵が主を諫めて去 った人だという事実に注目する。次に後(のち)允成になった神童専之助を出(いだ)す清蔵の家庭が、尋常の家庭でないという推測を顧慮する。彼は意志の 方面、此(これ)は智能(ちのう)の方面で、この両方面における遺伝的系統を繹(たず)ぬるに、抽斎の前途は有望であったといっても好(よ)かろう。  さてその抽斎が生れて来た境界(きょうがい)はどうであるか。允成の庭(にわ)の訓(おしえ)が信頼するに足るものであったことは、言を須(ま)たぬ であろう。オロスコピイは人の生れた時の星象(せいしょう)を観測する。わたくしは当時の社会にどういう人物がいたかと問うて、ここに学問芸術界の列宿 (れっしゅく)を数えて見たい。しかし観察が徒(いたずら)に汎(ひろ)きに失せぬために、わたくしは他年抽斎が直接に交通すべき人物に限って観察する こととしたい。即ち抽斎の師となり、また年上の友となる人物である。抽斎から見ての大己(たいこ)である。  抽斎の経学の師には、先ず市野迷庵(いちのめいあん)がある。次は狩谷 ※(「木+夜」、第3水準1-85-76) 斎(かりやえきさい)である。医学の師には伊沢蘭軒(いさわらんけん)がある。次は抽斎が特に痘科を学んだ池田京水(いけだけいすい)である。それから 抽斎が交(まじわ)った年長者は随分多い。儒者または国学者には安積艮斎(あさかごんさい)、小島成斎(こじませいさい)、岡本况斎(おかもときょうさ い)、海保漁村(かいほぎょそん)、医家には多紀(たき)の本末(ほんばつ)両家、就中(なかんずく) ※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13) 庭(さいてい)、伊沢蘭軒の長子榛軒(しんけん)がいる。それから芸術家及(および)芸術批評家に谷文晁(たにぶんちょう)、長島五郎作(ながしまごろ さく)、石塚重兵衛(いしづかじゅうべえ)がいる。これらの人は皆社会の諸方面にいて、抽斎の世に出(い)づるを待ち受けていたようなものである。 その十三  他年抽斎の師たり、年長の友たるべき人々の中(うち)には、現に普(あまね)く世に知れわたっているものが少くない。それゆえわたくしはここに一々そ の伝記を挿(さしはさ)もうとは思わない。ただ抽斎の誕生を語るに当って、これをしてその天職を尽さしむるに与(あずか)って力ある長者のルヴュウをし て見たいというに過ぎない。  市野迷庵、名を光彦(こうげん)、字を俊卿(しゅんけい)また子邦(しほう)といい、初め ※(「竹かんむり/員」、第4水準2-83-63) 窓(うんそう)、後迷庵と号した。その他酔堂(すいどう)、不忍池漁(ふにんちぎょ)等の別号がある。抽斎の父允成が酔堂説(すいどうのせつ)を作った のが、『容安室文稿(ようあんしつぶんこう)』に出ている。通称は三右衛門(さんえもん)である。六世(せい)の祖重光(ちょうこう)が伊勢国白子(し ろこ)から江戸に出て、神田佐久間町に質店(しちみせ)を開き、屋号を三河屋(みかわや)といった。当時の店は弁慶橋であった。迷庵の父光紀(こうき) が、香月氏(かづきうじ)を娶(めと)って迷庵を生せたのは明和二年二月十日であるから、抽斎の生れた時、迷庵はもう四十一歳になっていた。  迷庵は考証学者である。即ち経籍の古版本(こはんぼん)、古抄本を捜(さぐ)り討(もと)めて、そのテクストを閲(けみ)し、比較考勘する学派、クリ チックをする学派である。この学は源を水戸(みと)の吉田篁 ※(「土へん+敦」、第3水準1-15-63) (よしだこうとん)に発し、 ※(「木+夜」、第3水準1-85-76) 斎がその後(のち)を承(う)けて発展させた。篁 ※(「土へん+敦」、第3水準1-15-63) は抽斎の生れる七年前に歿している。迷庵が ※(「木+夜」、第3水準1-85-76) 斎らと共に研究した果実が、後に至って成熟して抽斎らの『訪古志(ほうこし)』となったのである。この人が晩年に『老子(ろうし)』を好んだので、抽斎 も同嗜(どうし)の人となった。  狩谷 ※(「木+夜」、第3水準1-85-76) 斎、名は望之(ぼうし)、字(あざな)は卿雲(けいうん)、 ※(「木+夜」、第3水準1-85-76) 斎はその号である。通称を三右衛門(さんえもん)という。家は湯島(ゆしま)にあった。今の一丁目である。 ※(「木+夜」、第3水準1-85-76) 斎の家は津軽の用達(ようたし)で、津軽屋と称し、 ※(「木+夜」、第3水準1-85-76) 斎は津軽家の禄千石を食(は)み、目見諸士(めみえしょし)の末席(ばっせき)に列せられていた。先祖は参河国(みかわのくに)苅屋(かりや)の人で、 江戸に移ってから狩谷氏を称した。しかし ※(「木+夜」、第3水準1-85-76) 斎は狩谷保古(ほうこ)の代にこの家に養子に来たもので、実父は高橋高敏(たかはしこうびん)、母は佐藤氏である。安永四年の生(うまれ)で、抽斎の母 縫(ぬい)と同年であったらしい。果してそうなら、抽斎の生れた時は三十一歳で、迷庵よりは十(とお)少(わか)かったのだろう。抽斎の ※(「木+夜」、第3水準1-85-76) 斎に師事したのは二十余歳の時だというから、恐らくは迷庵を喪(うしな)って ※(「木+夜」、第3水準1-85-76) 斎に適(ゆ)いたのであろう。迷庵の六十二歳で亡くなった文政九年八月十四日は、抽斎が二十二歳、 ※(「木+夜」、第3水準1-85-76) 斎が五十二歳になっていた年である。迷庵も ※(「木+夜」、第3水準1-85-76) 斎も古書を集めたが、 ※(「木+夜」、第3水準1-85-76) 斎は古銭をも集めた。漢代(かんだい)の五物(ごぶつ)を蔵して六漢道人(ろっかんどうじん)と号したので、人が一物(いちぶつ)足らぬではないかと詰 (なじ)った時、今一つは漢学だと答えたという話がある。抽斎も古書や「古武鑑」を蔵していたばかりでなく、やはり古銭癖(こせんへき)があったそうで ある。  迷庵と ※(「木+夜」、第3水準1-85-76) 斎とは、年歯(ねんし)を以(もっ)て論ずれば、彼が兄、此(これ)が弟であるが、考証学の学統から見ると、 ※(「木+夜」、第3水準1-85-76) 斎が先で、迷庵が後(のち)である。そしてこの二人の通称がどちらも三右衛門であった。世にこれを文政の六右衛門と称する。抽斎は六右衛門のどちらにも 師事したわけである。  六右衛門の称は頗(すこぶ)る妙である。然(しか)るに世の人は更に一人(ひとり)の三右衛門を加えて、三三右衛門などともいう。この今一人の三右衛 門は喜多氏(きたうじ)、名は慎言(しんげん)、字は有和(ゆうわ)、梅園(ばいえん)また静廬(せいろ)と号し、居(お)る所を四当書屋(しとうしょ おく)と名づけた。その氏の喜多を修して北(ほく)慎言とも署した。新橋(しんばし)金春(こんぱる)屋敷に住んだ屋根葺(ふき)で、屋根屋三右衛門が 通称である。本(もと)は芝(しば)の料理店鈴木(すずき)の倅(せがれ)定次郎(さだじろう)で、屋根屋へは養子に来た。少(わか)い時狂歌を作って 網破損針金(あみのはそんはりがね)といっていたのが、後博渉(はくしょう)を以て聞えた。嘉永元年三月二十五日に、八十三歳で亡くなったというから、 抽斎の生れた時には、その師となるべき迷庵と同じく四十一歳になっていたはずである。この三右衛門が殆ど毎日往来した小山田与清(おやまだともきよ)の 『擁書楼(ようしょろう)日記』を見れば、文化十二年に五十一歳だとしてあるから、この推算は誤っていないつもりである。しかしこの人を迷庵 ※(「木+夜」、第3水準1-85-76) 斎と併(あわ)せ論ずるのは、少しく西人(せいじん)のいわゆる髪を握(つか)んで引き寄せた趣がある。屋根屋三右衛門と抽斎との間には、交際がなかっ たらしい。 その十四  後に抽斎に医学を授ける人は伊沢蘭軒である。名は信恬(しんてん)、通称は辞安(じあん)という。伊沢氏(うじ)の宗家(そうか)は筑前国(ちくぜん のくに)福岡(ふくおか)の城主黒田家(くろだけ)の臣であるが、蘭軒はその分家で、備後国(びんごのくに)福山の城主阿部伊勢守(あべいせのかみ)正 倫(まさとも)の臣である。文政十二年三月十七日に歿して、享年五十三であったというから、抽斎の生れた時二十九歳で、本郷(ほんごう)真砂町(まさご ちょう)に住んでいた。阿部家は既に備中守(びっちゅうのかみ)正精(まさきよ)の世になっていた。蘭軒が本郷丸山の阿部家の中屋敷に移ったのは後の事 である。  阿部家は尋(つい)で文政九年八月に代替(だいがわり)となって、伊予守正寧(まさやす)が封(ほう)を襲(つ)いだから、蘭軒は正寧の世になった後 (のち)、足掛(あしかけ)四年阿部家の館(やかた)に出入(いでいり)した。その頃抽斎の四人目の妻五百(いお)の姉が、正寧の室(しつ)鍋島氏(な べしまうじ)の女小姓を勤めて金吾(きんご)と呼ばれていた。この金吾の話に、蘭軒は蹇(あしなえ)であったので、館内(かんない)で輦(れん)に乗る ことを許されていた。さて輦から降りて、匍匐(ほふく)して君側(くんそく)に進むと、阿部家の奥女中が目を見合せて笑った。或日(あるひ)正寧が偶( たまたま)この事を聞き知って、「辞安は足はなくても、腹が二人前(ににんまえ)あるぞ」といって、女中を戒めさせたということである。  次は抽斎の痘科(とうか)の師となるべき人である。池田氏、名は※(いん)[#「大/淵」、U+596B、48-5]、字(あざな)は河澄(かちょう )、通称は瑞英(ずいえい)、京水(けいすい)と号した。  原来(がんらい)疱瘡(ほうそう)を治療する法は、久しく我国には行われずにいた。病が少しく重くなると、尋常の医家は手を束(つか)ねて傍看(ぼう かん)した。そこへ承応(じょうおう)二年に戴曼公(たいまんこう)が支那から渡って来て、不治の病を治(ち)し始めた。 ※(「龍/共」、第3水準1-94-87) 廷賢(きょうていけん)を宗(そう)とする治法を施したのである。曼公、名は笠(りつ)、杭州(こうしゅう)仁和県(じんわけん)の人で、曼公とはその 字(あざな)である。明(みん)の万暦(ばんれき)二十四年の生(うまれ)であるから、長崎に来た時は五十八歳であった。曼公が周防国(すおうのくに) 岩国(いわくに)に足を留めていた時、池田嵩山(すうざん)というものが治痘の法を受けた。嵩山は吉川(きっかわ)家の医官で、名を正直(せいちょく) という。先祖(せんそ)は蒲冠者(かばのかんじゃ)範頼(のりより)から出て、世々(よよ)出雲(いずも)におり、生田(いくた)氏を称した。正直の数 世(すせい)の祖信重(しんちょう)が出雲から岩国に遷(うつ)って、始(はじめ)て池田氏に更(あらた)めたのである。正直の子が信之(しんし)、信 之の養子が正明(せいめい)で、皆曼公の遺法を伝えていた。  然るに寛保二年に正明が病んでまさに歿せんとする時、その子独美(どくび)は僅(わずか)に九歳であった。正明は法を弟槙本坊詮応(まきもとぼうせん おう)に伝えて置いて瞑(めい)した。そのうち独美は人と成って、詮応に学んで父祖の法を得た。宝暦十二年独美は母を奉じて安芸国(あきのくに)厳島( いつくしま)に遷った。厳島に疱瘡が盛(さかん)に流行したからである。安永二年に母が亡くなって、六年に独美は大阪に往(ゆ)き、西堀江(にしほりえ )隆平橋(りゅうへいばし)の畔(ほとり)に住んだ。この時独美は四十四歳であった。  独美は寛政四年に京都に出て、東洞院(ひがしのとういん)に住んだ。この時五十九歳であった。八年に徳川家斉(いえなり)に辟(め)されて、九年に江 戸に入(い)り、駿河台(するがだい)に住んだ。この年三月独美は躋寿館(せいじゅかん)で痘科を講ずることになって、二百俵を給せられた。六十四歳の 時の事である。躋寿館には独美のために始て痘科の講座が置かれたのである。  抽斎の生れた文化二年には、独美がまだ生存して、駿河台に住んでいたはずである。年は七十二歳であった。独美は文化十三年九月六日に八十三歳で歿した 。遺骸(いがい)は向島(むこうじま)小梅村(こうめむら)の嶺松寺(れいしょうじ)に葬られた。  独美、字は善卿(ぜんけい)、通称は瑞仙(ずいせん)、錦橋(きんきょう)また蟾翁(せんおう)と号した。その蟾翁と号したには面白い話がある。独美 は或時大きい蝦蟇(がま)を夢に見た。それから『抱朴子(ほうぼくし)』を読んで、その夢を祥瑞(しょうずい)だと思って、蝦蟇の画(え)をかき、蝦蟇 の彫刻をして人に贈った。これが蟾翁の号の由来である。 その十五  池田独美には前後三人の妻があった。安永八年に歿した妙仙(みょうせん)、寛政二年に歿した寿慶(じゅけい)、それから嘉永元年まで生存していた芳松 院(ほうしょういん)緑峰(りょくほう)である。緑峰は菱谷氏(ひしたにうじ)、佐井(さい)氏に養われて独美に嫁したのが、独美の京都にいた時の事で ある。三人とも子はなかったらしい。  独美が厳島から大阪に遷(うつ)った頃妾(しょう)があって、一男二女を生んだ。男(だん)は名を善直(ぜんちょく)といったが、多病で業を継ぐこと が出来なかったそうである。二女は長(ちょう)を智秀(ちしゅう)と諡(おくりな)した。寛政二年に歿している。次は知瑞(ちずい)と諡した。寛政九年 に夭折している。この外に今一人独美の子があって、鹿児島に住んで、その子孫が現存しているらしいが、この家の事はまだこれを審(つまびらか)にするこ とが出来ない。  独美の家は門人の一人が養子になって嗣(つ)いで、二世瑞仙と称した。これは上野国(こうずけのくに)桐生(きりゅう)の人村岡善左衛門(むらおかぜ んざえもん)常信(じょうしん)の二男である。名は晋(しん)、字(あざな)は柔行(じゅうこう)、また直卿(ちょくけい)、霧渓(むけい)と号した。 躋寿館(せいじゅかん)の講座をもこの人が継承した。  初め独美は曼公(まんこう)の遺法を尊重する余(あまり)に、これを一子相伝に止(とど)め、他人に授くることを拒んだ。然るに大阪にいた時、人が諫 (いさ)めていうには、一人(いちにん)の能(よ)く救う所には限(かぎり)がある、良法があるのにこれを秘して伝えぬのは不仁であるといった。そこで 独美は始て誓紙に血判をさせて弟子を取った。それから門人が次第に殖(ふ)えて、歿するまでには五百人を踰(こ)えた。二世瑞仙はその中から簡抜せられ て螟蛉子(めいれいし)となったのである。  独美の初代瑞仙は素(もと)源家(げんけ)の名閥だとはいうが、周防(すおう)の岩国から起って幕臣になり、駿河台の池田氏の宗家となった。それに業 を継ぐべき子がなかったので、門下の俊才が入(い)って後(のち)を襲った。遽(にわか)に見れば、なんの怪(あやし)むべき所もない。  しかしここに問題の人物がある。それは抽斎の痘科の師となるべき池田京水(けいすい)である。  京水は独美の子であったか、甥(おい)であったか不明である。向島嶺松寺に立っていた墓に刻してあった誌銘には子としてあったらしい。然るに二世瑞仙 晋(しん)の子直温(ちょくおん)の撰んだ過去帖(かこちょう)には、独美の弟玄俊(げんしゅん)の子だとしてある。子にもせよ甥にもせよ、独美の血族 たる京水は宗家を嗣(つ)ぐことが出来ないで、自立して町医(まちい)になり、下谷(したや)徒士町(かちまち)に門戸(もんこ)を張った。当時江戸に は駿河台の官医二世瑞仙と、徒士町の町医京水とが両立していたのである。  種痘の術が普及して以来、世の人は疱瘡を恐るることを忘れている。しかし昔は人のこの病を恐るること、癆(ろう)を恐れ、癌(がん)を恐れ、癩(らい )を恐るるよりも甚だしく、その流行の盛(さかん)なるに当っては、社会は一種のパニックに襲われた。池田氏の治法が徳川政府からも全国の人民からも歓 迎せられたのは当然の事である。そこで抽斎も、一般医学を蘭軒に受けた後(のち)、特に痘科を京水に学ぶことになった。丁度近時の医が細菌学や原虫学や 生物化学を特修すると同じ事である。  池田氏の曼公に受けた治痘法はどんなものであったか。従来痘は胎毒だとか、穢血(えけつ)だとか、後天(こうてん)の食毒(しどく)だとかいって、諸 家は各(おのおの)その見る所に従って、諸証を攻むるに一様の方を以てしたのに、池田氏は痘を一種の異毒異気だとして、いわゆる八証四節三項を分ち、偏 僻(へんぺき)の治法を斥(しりぞ)けた。即ち対症療法の完全ならんことを期したのである。 その十六  わたくしは抽斎の師となるべき人物を数えて京水(けいすい)に及ぶに当って、ここに京水の身上(しんしょう)に関する疑(うたがい)を記(しる)して 、世の人の教(おしえ)を受けたい。  わたくしは今これを筆に上(のぼ)するに至るまでには、文書を捜り寺院を訪(と)い、また幾多の先輩知友を煩(わずら)わして解決を求めた。しかしそ れは概(おおむ)ね皆徒事(いたずらごと)であった。就中(なかんずく)憾(うらみ)とすべきは京水の墓の失踪(しっそう)した事である。  最初にわたくしに京水の墓の事を語ったのは保(たもつ)さんである。保さんは幼い時京水の墓に詣(もう)でたことがある。しかし寺の名は記憶していな い。ただ向島であったというだけである。そのうちわたくしは富士川游(ゆう)さんに種々の事を問いに遣(や)った。富士川さんがこれに答えた中に、京水 の墓は常泉寺の傍(かたわら)にあるという事があった。  わたくしは幼い時向島(むこうじま)小梅村に住んでいた。初(はじめ)の家は今須崎町(すさきちょう)になり、後(のち)の家は今小梅町になっている 。その後(のち)の家から土手へ往(ゆ)くには、いつも常泉寺の裏から水戸邸(みとやしき)の北のはずれに出た。常泉寺はなじみのある寺である。  わたくしは常泉寺に往った。今は新小梅町の内になっている。枕橋(まくらばし)を北へ渡って、徳川家の邸の南側を行くと、同じ側に常泉寺の大きい門が ある。わたくしは本堂の周囲にある墓をも、境内の末寺(まつじ)の庭にある墓をも一つ一つ検した。日蓮宗(にちれんしゅう)の事だから、江戸の市人(い ちびと)の墓が多い。知名の学者では、朝川善庵(あさかわぜんあん)の一家(いっけ)の墓が、本堂の西にあるだけである。本堂の東南にある末寺に、池田 氏の墓が一基あったが、これは例の市人らしく、しかも無縁同様のものと見えた。  そこで寺僧に請うて過去帖を見たが、帖は近頃作ったもので、いろは順に檀家(だんか)の氏(うじ)が列記してある。いの部には池田氏がない。末寺の墓 地にある池田氏の墓は果して無縁であった。  わたくしは空(むな)しく還(かえ)って、先ず郷人(きょうじん)宮崎幸麿(みやさきさきまろ)さんを介して、東京(とうけい)の墓の事に精(くわ) しい武田信賢(たけだしんけん)さんに問うてもらったが、武田さんは知らなかった。  そのうちわたくしは『事実文編』四十五に霧渓(むけい)の撰んだ池田氏(し)行状のあるのを見出した。これは養父初代瑞仙の行状で、その墓が向島嶺松 寺にあることを記(しる)してある。素(もと)嶺松寺には戴曼公(たいまんこう)の表石(ひょうせき)があって、瑞仙はその側(かたわら)に葬られたと いうのである。向島にいたわたくしも嶺松寺という寺は知らなかった。しかし既に初代瑞仙が嶺松寺に葬られたなら、京水もあるいはそこに葬られたのではあ るまいかと推量した。  わたくしは再び向島へ往った。そして新小梅町、小梅町、須崎町の間を徘徊(はいかい)して捜索したが、嶺松寺という寺はない。わたくしは絶望して踵( くびす)を旋(めぐら)したが、道のついでなので、須崎町弘福寺(こうふくじ)にある先考の墓に詣でた。さて住職奥田墨汁(おくだぼくじゅう)師を訪( とぶら)って久闊(きゅうかつ)を叙(じょ)した。対談の間に、わたくしが嶺松寺と池田氏の墓との事を語ると、墨汁師は意外にも両(ふた)つながらこれ を知っていた。  墨汁師はいった。嶺松寺は常泉寺の近傍にあった。その畛域(しんいき)内に池田氏の墓が数基並んで立っていたことを記憶している。墓には多く誌銘が刻 してあった。然るに近い頃に嶺松寺は廃寺になったというのである。わたくしはこれを聞いて、先ず池田氏の墓を目撃した人を二人(ふたり)まで獲(え)た のを喜んだ。即ち保さんと墨汁師とである。 「廃寺になるときは、墓はどうなるものですか」と、わたくしは問うた。 「墓は檀家がそれぞれ引き取って、外の寺へ持って行きます。」 「檀家がなかったらどうなりますか。」 「無縁の墓は共同墓地へ遷(うつ)す例になっています。」 「すると池田家の墓は共同墓地へ遣られたかも知れませんな。池田家の後(のち)は今どうなっているかわかりませんか。」こういってわたくしは憮然(ぶぜ ん)とした。 その十七  わたくしは墨汁師にいった。池田瑞仙の一族は当年の名医である。その墓の行方(ゆくえ)は探討したいものである。それに戴曼公(たいまんこう)の表石 というものも、もし存していたら、名蹟の一に算すべきものであろう。嶺松寺にあった無縁の墓は、どこの共同墓地へ遷(うつ)されたか知らぬが、もしそれ がわかったなら、尋ねに往(ゆ)きたいものであるといった。  墨汁師も首肯していった。戴氏独立(どくりゅう)の表石の事は始(はじめ)て聞いた。池田氏の上のみではない。自分も黄檗(おうばく)の衣鉢(いはつ )を伝えた身であって見れば、独立の遺蹟の存滅を意に介せずにはいられない。想うに独立は寛文中九州から師隠元(いんげん)を黄檗山に省(せい)しに上 (のぼ)る途中で寂(じゃく)したらしいから、江戸には墓はなかっただろう。嶺松寺の表石とはどんな物であったか知らぬが、あるいは牙髪塔(がはつとう )の類(たぐい)ででもあったか。それはともかくも、その石の行方も知りたい。心当りの向々(むきむき)へ問い合せて見ようといった。  わたくしの再度の向島探討は大正四年の暮であったので、そのうちに五年の初(はじめ)になった。墨汁師の新年の書信に問合せの結果が記(しる)してあ ったが、それは頗(すこぶ)る覚束(おぼつか)ない口吻(こうふん)であった。嶺松寺の廃せられた時、その事に与(あずか)った寺々に問うたが、池田氏 の墓には檀家がなかったらしい。当時無縁の墓を遷した所は、染井(そめい)共同墓地であった。独立の表石というものは誰(たれ)も知らないというのであ る。  これでは捜索の前途には、殆ど毫(すこ)しの光明をも認めることが出来ない。しかしわたくしは念晴(ねんばら)しのために、染井へ尋ねに往(い)った 。そして墓地の世話をしているという家を訪うた。  墓にまいる人に樒(しきみ)や綫香(せんこう)を売り、また足を休めさせて茶をも飲ませる家で、三十ばかりの怜悧(かしこ)そうなお上(かみ)さんが いた。わたくしはこの女の口から絶望の答を聞いた。共同墓地と名にはいうが、その地面には井然(せいぜん)たる区画があって、毎区に所有主がある。それ が墓の檀家である。そして現在の檀家の中(うち)には池田という家はない。池田という檀家がないから、池田という人の墓のありようがないというのである 。 「それでも新聞に、行倒(ゆきだお)れがあったのを共同墓地に埋めたということがあるではありませんか。そうして見れば檀家のない仏の往(い)く所があ るはずです。わたくしの尋ねるのは、行倒れではないが、前に埋めてあった寺が取払(とりはらい)になって、こっちへ持って来られた仏です。そういう時、 石塔があれば石塔も運んで来るでしょう。それをわたくしは尋ねるのです。」こういってわたくしは女の毎区有主説に反駁(はんばく)を試みた。 「ええ、それは行倒れを埋める所も一カ所ございます。ですけれど行倒れに石塔を建てて遣(や)る人はございません。それにお寺から石塔を運んで来たとい うことは、聞いたこともございません。つまりそんな所には石塔なんぞは一つもないのでございます。」 「でもわたくしは切角(せっかく)尋ねに来たものですから、そこへ往って見ましょう。」 「およしなさいまし。石塔のないことはわたくしがお受合(うけあい)申しますから。」こういって女は笑った。  わたくしもげにもと思ったので、墓地には足を容(い)れずに引き返した。  女の言(こと)には疑うべき余地はない。しかしわたくしは責任ある人の口から、同じ事をでも、今一度聞きたいような気がした。そこで帰途に町役場に立 ち寄って問うた。町役場の人は、墓地の事は扱わぬから、本郷区役所へ往けといった。  町役場を出た時、もう冬の日が暮れ掛かっていた。そこでわたくしは思い直した。廃寺になった嶺松寺から染井共同墓地へ墓石の来なかったことは明白であ る。それを区役所に問うのは余りに痴(おろか)であろう。むしろ行政上無縁の墓の取締(とりしまり)があるか、もしあるなら、どう取り締まることになっ ているかということを問うに若(し)くはない。その上今から区役所に往った所で、当直の人に墓地の事を問うのは甲斐(かい)のない事であろう。わたくし はこう考えて家に還(かえ)った。 その十八  わたくしは人に問うて、墓地を管轄するのが東京府庁で、墓所の移転を監視するのが警視庁だということを知った。そこで友人に託して、府庁では嶺松寺の 廃絶に関してどれだけの事が知り得られるか、また警視庁は墓所の移転をどの位の程度に監視することになっているかということを問うてもらった。  府庁には明治十八年に作られた墓地の台帳ともいうべきものがある。しかし一応それを検した所では、嶺松寺という寺は載せてないらしかった。その廃絶に 関しては、何事をも知ることが出来ぬのである。警視庁は廃寺等のために墓碣(ぼけつ)を搬出するときには警官を立ち会わせる。しかしそれは有縁(うえん )のものに限るので、無縁のものはどこの共同墓地に改葬したということを届け出(い)でさせるに止(とど)まるそうである。  そうして見れば、嶺松寺の廃せられた時、境内の無縁の墓が染井共同墓地に遷(うつ)されたというのは、遷したという一紙の届書(とどけしょ)が官庁に 呈せられたに過ぎぬかも知れない。所詮(しょせん)今になって戴曼公(たいまんこう)の表石や池田氏の墓碣の踪迹(そうせき)を発見することは出来ぬで あろう。わたくしは念を捜索に絶つより外あるまい。  とかくするうちに、わたくしが池田京水(けいすい)の墓を捜し求めているということ、池田氏の墓のあった嶺松寺が廃絶したということなどが『東京朝日 新聞』の雑報に出た。これはわたくしが先輩知友に書を寄せて問うたのを聞き知ったものであろう。雑報の掲げられた日の夕方、無名の人がわたくしに電話を 掛けていった。自分はかつて府庁にいたものである。その頃無税地反別帳(たんべつちょう)という帳簿があった。もしそれがなお存しているなら、嶺松寺の 事が載せてあるかも知れないというのである。わたくしは無名の人の言(こと)に従って、人に託して府庁に質(ただ)してもらったが、そういう帳簿はない そうであった。  この事件に関してわたくしの往訪した人、書を寄せて教を乞(こ)うた人は頗(すこぶ)る多い。初(はじめ)にはわたくしは墓誌を読まんがために、墓の 所在を問うたが、後にはせめて京水の歿した年齢だけなりとも知ろうとした。わたくしは抽斎の生れた年に、市野迷庵(いちのめいあん)が何歳、狩谷 ※(「木+夜」、第3水準1-85-76) 斎(かりやえきさい)が何歳、伊沢蘭軒(いさわらんけん)が何歳ということを推算したと同じく、京水の年齢をも推算して見たく、もしまた数字を以て示す ことが出来ぬなら、少くもアプロクシマチイフにそれを忖度(そんたく)して見たかったのである。  諸家の中(うち)でも、戸川残花(とがわざんか)さんはわたくしのために武田信賢(たけだしんけん)さんに問うたり、南葵(なんき)文庫所蔵の書籍を 検したりしてくれ、呉秀三(くれしゅうぞう)さんは医史の資料について捜索してくれ、大槻文彦(おおつきふみひこ)さんは如電(にょでん)さんに問うて くれ、如電さんは向島へまで墓を探りに往ってくれた。如電さんの事は墨汁師の書状によって知ったが、恐らくは郷土史の嗜好(しこう)あるがために、踏査 の労をさえ厭(いと)わなかったのであろう。ただ憾(うら)むらくもわたくしは徒(いたずら)にこれらの諸家を煩わしたに過ぎなかった。  これに反してわたくしが多少積極的に得る所のあったのは、富士川游さんと墨汁師とのお蔭(かげ)である。わたくしは数度書状の往復をした末に、或日富 士川さんの家を訪(と)うた。そしてこういうことを聞いた。富士川さんは昔年(せきねん)日本医学史の資料を得ようとして、池田氏の墓に詣(もう)でた 。医学史の記載中脚註に墓誌と書してあるのは、当時墓について親しく抄記したものだというのである。惜(おし)むらくは富士川さんは墓誌銘の全文を写し て置かなかった。また嶺松寺という寺号をも忘れていた。それゆえわたくしに答えた書に常泉寺の傍(かたわら)と記(しる)したのである。是(ここ)にお いてかつて親しく嶺松寺中(ちゅう)の碑碣(ひけつ)を睹(み)た人が三人になった。保さんと游さんと墨汁師とである。そして游さんは湮滅(いんめつ) の期に薄(せま)っていた墓誌銘の幾句を、図らずも救抜してくれたのである。 その十九  弘福寺(こうふくじ)の現住墨汁師は大正五年に入(い)ってからも、捜索の手を停(とど)めずにいた。そしてとうとう下目黒(しもめぐろ)村海福寺( かいふくじ)所蔵の池田氏過去帖(かこちょう)というものを借り出して、わたくしに見せてくれた。帖は表紙を除いて十五枚のものである。表紙には生田氏 (いくたうじ)中興池田氏過去帖慶応紀元季秋の十七字が四行に書してある。跋文(ばつぶん)を読むに、この書は二世瑞仙晋(ずいせんしん)の子直温(ち ょくおん)、字(あざな)は子徳(しとく)が、慶応元年九月六日に、初代瑞仙独美の五十年忌辰(きしん)に丁(あた)って、新(あらた)に歴代の位牌( いはい)を作り、併(あわ)せてこれを纂記(さんき)して、嶺松寺に納めたもので、直温の自筆である。  この書には池田氏の一族百八人の男女を列記してあるが、その墓所はあるいは注してあり、あるいは注してない。分明(ぶんみょう)に嶺松寺に葬る、また は嶺寺に葬ると注してあるのは初代瑞仙、その妻佐井氏(さいうじ)、二代瑞仙、その二男洪之助(こうのすけ)、二代瑞仙の兄信一(しんいち)の五人に過 ぎない。しかし既に京水(けいすい)の墓が同じ寺にあったとすると、徒士町(かちまち)の池田氏の人々の墓もこの寺にあっただろう。要するに嶺松寺にあ ったという確証のある墓は、この書に注してある駿河台(するがだい)の池田氏の墓五基と、京水の墓とで、合計六基である。  この書の記(き)する所は、わたくしのために創聞(そうぶん)に属するものが頗(すこぶ)る多い。就中(なかんずく)異(い)とすべきは、独美に玄俊 (げんしゅん)という弟があって、それが宇野氏を娶(めと)って、二人の間に出来た子が京水だという一事(いちじ)である。この書に拠(よ)れば、独美 は一旦(いったん)姪(てつ)京水を養って子として置きながら、それに家を嗣(つ)がせず、更に門人村岡晋(むらおかしん)を養って子とし、それに業を 継がせたことになる。  然るに富士川さんの抄した墓誌には、京水は独美の子で廃せられたと書してあったらしい。しかもその廃せられた所以(ゆえん)を書して放縦不覊(ふき) にして人に容(い)れられず、遂(つい)に多病を以て廃せらるといってあったらしい。  両説は必ずしも矛盾してはいない。独美は弟玄俊の子京水を養って子とした。京水が放蕩(ほうとう)であった。そこで京水を離縁して門人晋を養子に入れ たとすれば、その説通ぜずというでもない。  しかし京水が後(のち)能(よ)く自ら樹立して、その文章事業が晋に比して毫(ごう)も遜色(そんしょく)のないのを見るに、この人の凡庸でなかった ことは、推測するに難(かた)くない。著述の考うべきものにも、『痘科挙要(とうかきょよう)』二巻、『痘科鍵会通(けんかいつう)』一巻、『痘科鍵私 衡(けんしこう)』五巻、抽斎をして筆授せしめた『護痘要法(ごとうようほう)』一巻がある。養父独美が視(み)ること尋常蕩子(とうし)の如くにして 、これを逐(お)うことを惜(おし)まなかったのは、恩少きに過ぐというものではあるまいか。  かつわたくしは京水の墓誌が何人(なにひと)の撰文(せんぶん)に係るかを知らない。しかし京水が果して独美の姪(てつ)であったなら、縦(たと)い 独美が一時養って子となしたにもせよ、直(ただち)に瑞仙の子なりと書したのはいかがのものであろうか。富士川さんの如きも、『日本医学史』に、墓誌に 拠って瑞仙の子なりと書しているのである。また放縦だとか廃嗣だとかいうことも、此(かく)の如くに書したのが、墓誌として体(たい)を得たものであろ うか。わたくしは大いにこれを疑うのである。そして墓誌の全文を見ることを得ず、その撰者を審(つまびらか)にすることを得ざるのを憾(うらみ)とする 。  わたくしは独(ひとり)撰者不詳の京水墓誌を疑うのみではない。また二世瑞仙晋の撰んだ池田氏(し)行状をも疑わざることを得ない。文は載せて『事実 文編』四十五にある。  行状に拠るに、初代瑞仙独美は享保二十年乙卯(いつぼう)五月二十二日に生れ、文化十三年丙子(へいし)九月六日に歿した。然るに安永六年丁酉(てい ゆう)に四十、寛政四年壬子(じんし)に五十五、同九年丁巳(ていし)に六十四、歿年に八十三と書してある。これは生年から順算すれば、四十三、五十八 、六十三、八十二でなくてはならない。齢(よわい)を記(き)するごとに、殆(ほとん)ど必ず差(たが)っているのは何故(なにゆえ)であろうか。因( ちなみ)にいうが過去帖にもまた齢八十三としてある。そこでわたくしはこの八十三より逆算することにした。 その二十  晋(しん)の撰んだ池田氏行状には、初代瑞仙の庶子善直(ぜんちょく)というものを挙げて、「多病不能継業(やまいおおくぎょうをつぐあたわず)」と 書してある。その前に初代瑞仙が病中晋に告げた語を記して、八十四言(げん)の多きに及んである。瑞仙は痘を治(ち)することの難きを説いて、「数百之 弟子(でし)、無能熟得之者(よくじゅくとくせるものなし)」といい、晋を賞して、「而汝能継我業(しこうしてなんじよくわがぎょうをつぐ)」といって いる。  わたくしはいまだ過去帖を獲ざる前にこれを読んで、善直は京水の初(はじめ)の名であろうと思った。京水の墓誌に多病を以て嗣(し)を廃せらるという ように書してあったというのと、符節は合(あわ)するようだからである。過去帖に従えば、庶子善直と姪(てつ)京水とは別人でなくてはならない。しかし 善直と京水とが同人ではあるまいか、京水が玄俊の子でなくて、初代瑞仙の子ではあるまいかという疑(うたがい)が、今に迄(いた)るまでいまだ全くわた くしの懐(かい)を去らない。特に彼(かの)過去帖に遠近の親戚(しんせき)百八人が挙げてあるのに、初代瑞仙のただ一人の実子善直というものが痕跡( こんせき)をだに留(とど)めずに消滅しているという一事は、この疑を助長する媒(なかだち)となるのである。  そしてわたくしは撰者不詳の墓誌の残欠に、京水が刺(そし)ってあるのを見ては、忌憚(きたん)なきの甚だしきだと感じ、晋が養父の賞美の語を記(き )して、一の抑損の句をも著(つ)けぬのを見ては、簡傲(かんごう)もまた甚だしいと感ずることを禁じ得ない。わたくしには初代瑞仙独美、二世瑞仙晋、 京水の三人の間に或るドラアムが蔵せられているように思われてならない。わたくしの世の人に教を乞いたいというのはこれである。  わたくしは抽斎の誕生を語るに当って、後(のち)にその師となるべき人々を数えた。それは抽斎の生れた時、四十一歳であった迷庵、三十一歳であった ※(「木+夜」、第3水準1-85-76) 斎(えきさい)、二十九歳であった蘭軒の三人と、京水とであって、独り京水は過去帖を獲るまでその齢(よわい)を算することが出来なかった。なぜという に、京水の歿年が天保七年だということは、保さんが知っていたが、年歯(ねんし)に至っては全く所見がなかったからである。  過去帖に拠れば京水の父玄俊は名を某、字(あざな)を信卿(しんけい)といって寛政九年八月二日に、六十歳で歿し、母宇野氏は天明六年に三十六歳で歿 した。そして京水は天保七年十一月十四日に、五十一歳で歿したのである。法諡(ほうし)して宗経軒(そうけいけん)京水瑞英居士(ずいえいこじ)という 。  これに由って観(み)れば、京水は天明六年の生(うまれ)で、抽斎の生れた文化二年には二十歳になっていた。抽斎の四人の師の中(うち)では最年少者 であった。  後に抽斎と交(まじわ)る人々の中、抽斎に先(さきだ)って生れた学者は、安積艮斎(あさかごんさい)、小島成斎、岡本况斎(きょうさい)、海保漁村 である。  安積艮斎は抽斎との交(まじわり)が深くなかったらしいが、抽斎をして西学(せいがく)を忌む念を翻(ひるがえ)さしめたのはこの人の力である。艮斎 、名は重信(しげのぶ)、修して信(しん)という。通称は祐助(ゆうすけ)である。奥州郡山(こおりやま)の八幡宮(はちまんぐう)の祠官(しかん)安 藤筑前(あんどうちくぜん)親重(ちかしげ)の子で、寛政二年に生れたらしい。十六歳の時、近村の里正(りせい)今泉氏(いまいずみうじ)の壻になって 、妻に嫌われ、翌年江戸に奔(はし)った。しかし誰(たれ)にたよろうというあてもないので、うろうろしているのを、日蓮宗の僧日明(にちみょう)が見 附けて、本所(ほんじょ)番場町(ばんばちょう)の妙源寺(みょうげんじ)へ連れて帰って、数月(すうげつ)間留(と)めて置いた。そして世話をして佐 藤一斎(さとういっさい)の家の学僕にした。妙源寺は今艮斎の墓碑の立っている寺である。それから二十一歳にして林述斎(はやしじゅっさい)の門に入( い)った。駿河台に住んで塾を開いたのは二十四歳の時である。そうして見ると、抽斎の生れた文化二年は艮斎が江戸に入る前年で、十六歳であった。これは 艮斎が万延(まんえん)元年十一月二十二日に、七十一歳で歿したものとして推算したのである。  小島成斎名は知足(ちそく)、字(あざな)は子節(しせつ)、初め静斎と号した。通称は五一である。 ※(「木+夜」、第3水準1-85-76) 斎の門下で善書を以て聞えた。海保漁村の墓表に文久(ぶんきゅう)二年十月十八日に、六十七歳で歿したとしてあるから、抽斎の生れた文化二年には甫(は じ)めて十歳である。父親蔵(しんぞう)が福山侯阿部(あべ)備中守正精(まさきよ)に仕えていたので、成斎も江戸の藩邸に住んでいた。 その二十一  岡本况斎、名は保孝(ほうこう)、通称は初め勘右衛門(かんえもん)、後縫殿助(ぬいのすけ)であった。拙誠堂(せつせいどう)の別号がある。幕府の 儒員に列せられた。『荀子(じゅんし)』、『韓非子(かんぴし)』、『淮南子(えなんじ)』等の考証を作り、旁(かたわら)国典にも通じていた。明治十 一年四月までながらえて、八十二歳で歿した。寛政九年の生(うまれ)で、抽斎の生れた文化二年には僅(わずか)に九歳になっていたはずである。  海保漁村、名は元備(げんび)、字(あざな)は純卿(じゅんけい)、また名は紀之(きし)、字は春農(しゅんのう)ともいった。通称は章之助(しょう のすけ)、伝経廬(でんけいろ)の別号がある。寛政十年に上総国(かずさのくに)武射郡(むさごおり)北清水村(きたしみずむら)に生れた。老年に及ん で経(けい)を躋寿館(せいじゅかん)に講ずることになった。慶応二年九月十八日に、六十九歳で歿した人である。抽斎の生れた文化二年には八歳だから、 郷里にあって、父恭斎(きょうさい)に句読(くとう)を授けられていたのである。  即ち学者の先輩は艮斎が十六、成斎が十(とお)、况斎が九つ、漁村が八つになった時、抽斎は生れたことになる。  次に医者の年長者には先ず多紀(たき)の本家、末家(ばつけ)を数える。本家では桂山(けいざん)、名は元簡(かん)、字は廉夫(れんふ)が、抽斎の 生れた文化二年には五十一歳、その子柳 ※(「さんずい+片」、第3水準1-86-57) (りゅうはん)、名は胤(いん)、字は奕禧(えきき)が十七歳、末家では ※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13) 庭(さいてい)、名は元堅(げんけん)、字は亦柔(えきじゅう)が十一歳になっていた。桂山は文化七年十二月二日に五十六歳で歿し、柳 ※(「さんずい+片」、第3水準1-86-57) は文政十年六月三日に三十九歳で歿し、 ※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13) 庭は安政四年二月十四日に六十三歳で歿したのである。  この中(うち)抽斎の最も親しくなったのは ※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13) 庭である。それから師伊沢蘭軒の長男榛軒(しんけん)もほぼ同じ親しさの友となった。榛軒、通称は長安(ちょうあん)、後一安(いちあん)と改めた。文 化元年に生れて、抽斎にはただ一つの年上である。榛軒は嘉永五年十一月十七日に、四十九歳で歿した。  年上の友となるべき医者は、抽斎の生れた時十一歳であった ※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13) 庭と、二歳であった榛軒とであったといっても好(い)い。  次は芸術家及(および)芸術批評家である。芸術家としてここに挙ぐべきものは谷文晁(たにぶんちょう)一人(いちにん)に過ぎない。文晁、本(もと) 文朝に作る、通称は文五郎(ぶんごろう)、薙髪(ちはつ)して文阿弥(ぶんあみ)といった。写山楼(しゃざんろう)、画学斎(ががくさい)、その他の号 は人の皆知る所である。初め狩野(かのう)派の加藤文麗(かとうぶんれい)を師とし、後北山寒巌(きたやまかんがん)に従学して別に機軸を出(いだ)し た。天保十一年十二月十四日に、七十八歳で歿したのだから、抽斎の生れた文化二年には四十三歳になっていた。二人(ににん)年歯(ねんし)の懸隔は、概 (おおむ)ね迷庵におけると同じく、抽斎は画(が)をも少しく学んだから、この人は抽斎の師の中(うち)に列する方が妥当であったかも知れない。  わたくしはここに真志屋五郎作(ましやごろさく)と石塚重兵衛(いしづかじゅうべえ)とを数えんがために、芸術批評家の目(もく)を立てた。二人は皆 劇通であったから、此(かく)の如くに名づけたのである。あるいはおもうに、批評家といわんよりは、むしろアマトヨオルというべきであったかも知れない 。  抽斎が後(のち)劇を愛するに至ったのは、当時の人の眼(まなこ)より観(み)れば、一の癖好(へきこう)であった。どうらくであった。啻(ただ)に 当時において然(しか)るのみではない。是(かく)の如くに物を観る眼(まなこ)は、今もなお教育家等の間に、前代の遺物として伝えられている。わたく しはかつて歴史の教科書に、近松(ちかまつ)、竹田(たけだ)の脚本、馬琴(ばきん)、京伝(きょうでん)の小説が出て、風俗の頽敗(たいはい)を致し たと書いてあるのを見た。  しかし詩の変体としてこれを視(み)れば、脚本、小説の価値も認めずには置かれず、脚本に縁(よ)って演じ出(いだ)す劇も、高級芸術として尊重しな くてはならなくなる。わたくしが抽斎の心胸を開発して、劇の趣味を解するに至らしめた人々に敬意を表して、これを学者、医者、画家の次に数えるのは、好 む所に阿(おもね)るのではない。 その二十二  真志屋五郎作は神田新石町(しんこくちょう)の菓子商であった。水戸家(みとけ)の賄方(まかないかた)を勤めた家で、或(ある)時代から故(ゆえ) あって世禄(せいろく)三百俵を給せられていた。巷説(こうせつ)には水戸侯と血縁があるなどといったそうであるが、どうしてそんな説が流布(るふ)せ られたものか、今考えることが出来ない。わたくしはただ風采(ふうさい)が好(よ)かったということを知っているのみである。保さんの母五百(いお)の 話に、五郎作は苦味走(にがみばし)った好(よ)い男であったということであった。菓子商、用達(ようたし)の外、この人は幕府の連歌師(れんがし)の 執筆をも勤めていた。  五郎作は実家が江間氏(えまうじ)で、一時長島(ながしま)氏を冒(おか)し、真志屋の西村氏を襲(つ)ぐに至った。名は秋邦(しゅうほう)、字(あ ざな)は得入(とくにゅう)、空華(くうげ)、月所(げっしょ)、如是縁庵(にょぜえんあん)等と号した。平生(へいぜい)用いた華押(かおう)は邦の 字であった。剃髪(ていはつ)して五郎作新発智東陽院寿阿弥陀仏曇 ※(「大/蜩のつくり」、第3水準1-15-73) (しんぼっちとうよういんじゅあみだぶつどんちょう)と称した。曇 ※(「大/蜩のつくり」、第3水準1-15-73) とは好劇家たる五郎作が、音(おん)の似通(にかよ)った劇場の緞帳(どんちょう)と、入宋(にゅうそう)僧 ※(「大/蜩のつくり」、第3水準1-15-73) 然(ちょうねん)の名などとを配合して作った戯号(げごう)ではなかろうか。  五郎作は劇神仙(げきしんせん)の号を宝田寿来(たからだじゅらい)に承(う)けて、後にこれを抽斎に伝えた人だそうである。  宝田寿来、通称は金之助(きんのすけ)、一に閑雅(かんが)と号した。『作者店(たな)おろし』という書に、宝田とはもと神田より出(い)でたる名と 書いてあるのを見れば、真(まこと)の氏(うじ)ではなかったであろう。浄瑠璃(じょうるり)『関(せき)の扉(と)』はこの人の作だそうである。寛政 六年八月に、五十七歳で歿した。五郎作が二十六歳の時で、抽斎の生れる十一年前である。これが初代劇神仙である。  五郎作は歿年から推算するに、明和六年の生(うまれ)で、抽斎の生れた文化二年には三十七歳になっていた。抽斎から見ての長幼の関係は、師迷庵や文晁 におけると大差はない。嘉永元年八月二十九日に、八十歳で歿したのだから、抽斎がこの二世劇神仙の後(のち)を襲(つ)いで三世劇神仙となったのは、四 十四歳の時である。初め五郎作は抽斎の父允成(ただしげ)と親しく交(まじわ)っていたが、允成は五郎作に先(さきだ)つこと十一年にして歿した。  五郎作は独り劇を看(み)ることを好んだばかりではなく、舞台のために製作をしたこともある。四世彦三郎(ひこさぶろう)を贔屓(ひいき)にして、所 作事(しょさごと)を書いて遣ったと、自分でいっている。レシタションが上手(じょうず)であったことは、同情のない喜多村 ※(「竹かんむり/(土へん+鈞のつくり)」、第3水準1-89-63) 庭(きたむらいんてい)が、台帳を読むのが寿阿弥の唯一の長技だといったのを見ても察せられる。  五郎作は奇行はあったが、生得(しょうとく)酒を嗜(たし)まず、常に養性(ようじょう)に意を用いていた。文政十年七月の末(すえ)に、姪(おい) の家の板の間(ま)から墜(お)ちて怪我(けが)をして、当時流行した接骨家元大坂町(もとおおさかちょう)の名倉弥次兵衛(なぐらやじべえ)に診察し てもらうと、名倉がこういったそうである。お前さんは下戸(げこ)で、戒行(かいぎょう)が堅固で、気が強い、それでこれほどの怪我をしたのに、目を廻 (まわ)さずに済んだ。この三つが一つ闕(か)けていたら、目を廻しただろう。目を廻したのだと、療治に二百日余(あまり)掛かるが、これは百五、六十 日でなおるだろうといったそうである。戒行とは剃髪(ていはつ)した後(のち)だからいったものと見える。怪我は両臂(りょうひじ)を傷めたので骨には 障(さわ)らなかったが痛(いたみ)が久しく息(や)まなかった。五郎作は十二月の末まで名倉へ通ったが、臂の ※(「やまいだれ+(鼾のへん−自)」、第4水準2-81-55) (しびれ)だけは跡に貽(のこ)った。五十九歳の時の事である。  五郎作は文章を善くした。繊細の事を叙するに簡浄の筆を以てした。技倆(ぎりょう)の上から言えば、必ずしも馬琴、京伝に譲らなかった。ただ小説を書 かなかったので、世の人に知られぬのである。これはわたくし自身の判断である。わたくしは大正四年の十二月に、五郎作の長文の手紙が売(うり)に出たと 聞いて、大晦日(おおみそか)に築地(つきじ)の弘文堂へ買いに往った。手紙は罫紙(けいし)十二枚に細字(さいじ)で書いたものである。文政十一年二 月十九日に書いたということが、記事に拠って明(あきら)かに考えられる。ここに書いた五郎作の性行も、半(なかば)は材料をこの簡牘(かんどく)に取 ったものである。宛名(あてな)の ※(「くさかんむり/必」、第3水準1-90-74) 堂(ひつどう)は桑原氏(くわばらうじ)、名は正瑞(せいずい)、字(あざな)は公圭(こうけい)、通称を古作(こさく)といった。駿河国島田駅の素封 家で、詩及(および)書を善くした。玄孫喜代平(きよへい)さんは島田駅の北半里ばかりの伝心寺(でんしんじ)に住んでいる。五郎作の能文はこの手紙一 つに徴して知ることが出来るのである。 その二十三  わたくしの獲(え)た五郎作の手紙の中に、整骨家名倉弥次兵衛の流行を詠んだ狂歌がある。臂(ひじ)を傷めた時、親しく治療を受けて詠んだのである。 「研(と)ぎ上ぐる刃物ならねどうちし身の名倉のいしにかゝらぬぞなき。」わたくしは余り狂歌を喜ばぬから、解事者を以て自らおるわけではないが、これ を蜀山(しょくさん)らの作に比するに、遜色(そんしょく)あるを見ない。 ※(「竹かんむり/(土へん+鈞のつくり)」、第3水準1-89-63) 庭(いんてい)は五郎作に文筆の才がないと思ったらしく、歌など少しは詠みしかど、文を書くには漢文を読むようなる仮名書して終れりといっているが、此 (かく)の如きは決して公論ではない。 ※(「竹かんむり/(土へん+鈞のつくり)」、第3水準1-89-63) 庭は素(もと)漫罵(まんば)の癖(へき)がある。五郎作と同年に歿した喜多静廬(きたせいろ)を評して、性質風流なく、祭礼などの繁華なるを見ること を好めりといっている。風流をどんな事と心得ていたか。わたくしは強いて静廬を回護するに意があるのではないが、これを読んで、トルストイの芸術論に詩 的という語の悪(あく)解釈を挙げて、口を極めて嘲罵(ちょうば)しているのを想い起した。わたくしの敬愛する所の抽斎は、角兵衛獅子(かくべえじし) を観(み)ることを好んで、奈何(いか)なる用事をも擱(さしお)いて玄関へ見に出たそうである。これが風流である。詩的である。  五郎作は少(わか)い時、山本北山(やまもとほくざん)の奚疑塾(けいぎじゅく)にいた。大窪天民(おおくぼてんみん)は同窓であったので後(のち) に ※(「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53) (いた)るまで親しく交った。上戸(じょうご)の天民は小さい徳利を蔵(かく)して持っていて酒を飲んだ。北山が塾を見廻ってそれを見附けて、徳利でも 小さいのを愛すると、その人物が小さくおもわれるといった。天民がこれを聞いて大樽(おおだる)を塾に持って来たことがあるそうである。下戸(げこ)の 五郎作は定めて傍(はた)から見て笑っていたことであろう。  五郎作はまた博渉家(はくしょうか)の山崎美成(やまざきよししげ)や、画家の喜多可庵(きたかあん)と往来していた。中にも抽斎より僅(わずか)に 四つ上の山崎は、五郎作を先輩として、疑(うたがい)を質(ただ)すことにしていた。五郎作も珍奇の物は山崎の許(もと)へ持って往って見せた。  文政六年四月二十九日の事である。まだ下谷(したや)長者町(ちょうじゃまち)で薬を売っていた山崎の家へ、五郎作はわざわざ八百屋(やおや)お七( しち)のふくさというものを見せに往った。ふくさは数代前(まえ)に真志屋(ましや)へ嫁入した島(しま)という女の遺物である。島の里方(さとかた) を河内屋半兵衛(かわちやはんべえ)といって、真志屋と同じく水戸家の賄方(まかないかた)を勤め、三人扶持を給せられていた。お七の父八百屋市左衛門 (いちざえもん)はこの河内屋の地借(じかり)であった。島が屋敷奉公に出る時、穉(おさな)なじみのお七が七寸四方ばかりの緋縮緬(ひぢりめん)のふ くさに、紅絹裏(もみうら)を附けて縫ってくれた。間もなく本郷森川宿(もりかわじゅく)のお七の家は天和(てんな)二年十二月二十八日の火事に類焼し た。お七は避難の間に情人(じょうにん)と相識(そうしき)になって、翌年の春家に帰った後(のち)、再び情人と相見ようとして放火したのだそうである 。お七は天和三年三月二十九日に、十六歳で刑せられた。島は記念(かたみ)のふくさを愛蔵して、真志屋へ持って来た。そして祐天上人(ゆうてんしょうに ん)から受けた名号(みょうごう)をそれに裹(つつ)んでいた。五郎作は新(あらた)にふくさの由来を白絹に書いて縫い附けさせたので、山崎に持って来 て見せたのである。  五郎作と相似て、抽斎より長ずること僅に六歳であった好劇家は、石塚重兵衛である。寛政十一年の生(うまれ)で、抽斎の生れた文化二年には七歳になっ ていた。歿したのは文久元年十二月十五日で、年を享(う)くること六十三であった。 その二十四  石塚重兵衛の祖先は相模国(さがみのくに)鎌倉の人である。天明中に重兵衛の曾祖父が江戸へ来て、下谷(したや)豊住町(とよずみちょう)に住んだ。 世(よよ)粉商(こなしょう)をしているので、芥子屋(からしや)と人に呼ばれた。真(まこと)の屋号は鎌倉屋である。  重兵衛も自ら庭に降り立って、芥子の臼(うす)を踏むことがあった。そこで豊住町の芥子屋という意(こころ)で、自ら豊芥子(ほうかいし)と署した。 そしてこれを以て世に行われた。その豊亭(ほうてい)と号するのも、豊住町に取ったのである。別に集古堂(しゅうこどう)という号がある。  重兵衛に女(むすめ)が二人あって、長女に壻を迎えたが、壻は放蕩(ほうとう)をして離別せられた。しかし後に浅草(あさくさ)諏訪町(すわちょう) の西側の角に移ってから、またその壻を呼び返していたそうである。  重兵衛は文久元年に京都へ往(ゆ)こうとして出たが、途中で病んで、十二月十五日に歿した。年は六十三であった。抽斎の生れた文化二年には、重兵衛は 七歳の童(わらべ)であったはずである。  重兵衛の子孫はどうなったかわからない。数年前に大槻如電(おおつきにょでん)さんが浅草北清島町(きたきよじまちょう)報恩寺内専念寺にある重兵衛 の墓に詣(もう)でて、忌日(きにち)に墓に来るものは河竹新七(かわたけしんしち)一人だということを寺僧に聞いた。河竹にその縁故を問うたら、自分 が黙阿弥(もくあみ)の門人になったのは、豊芥子の紹介によったからだと答えたそうである。  以上抽斎の友で年長者であったものを数えると、学者に抽斎の生れた年に十六歳であった安積艮斎(あさかごんさい)、十歳であった小島成斎、九歳であっ た岡本况斎、八歳であった海保漁村がある。医者に当時十一歳であった多紀 ※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13) 庭(たきさいてい)、二歳であった伊沢榛軒(しんけん)がある。その他画家文晁は四十三歳、劇通寿阿弥は三十七歳、豊芥子は七歳であった。  抽斎が始(はじめ)て市野迷庵の門に入(い)ったのは文化六年で、師は四十五歳、弟子(ていし)は五歳であった。次いで文化十一年に医学を修めんがた めに、伊沢蘭軒に師事した。師が三十八歳、弟子が十歳の時である。父允成(ただしげ)は経芸(けいげい)文章を教えることにも、家業の医学を授けること にも、頗(すこぶ)る早く意を用いたのである。想うに後(のち)に師とすべき狩谷 ※(「木+夜」、第3水準1-85-76) 斎(かりやえきさい)とは、家庭でも会い、師迷庵の許(もと)でも会って、幼い時から親しくなっていたであろう。また後に莫逆(ばくぎゃく)の友となっ た小島成斎も、夙(はや)く市野の家で抽斎と同門の好(よしみ)を結んだことであろう。抽斎がいつ池田京水(けいすい)の門を敲(たた)いたかというこ とは今考えることが出来ぬが、恐らくはこれより後(のち)の事であろう。  文化十一年十二月二十八日、抽斎は始て藩主津軽寧親(やすちか)に謁した。寧親は五十歳、抽斎の父允成は五十一歳、抽斎自己は十歳の時である。想うに 謁見の場所は本所(ほんじょ)二(ふた)つ目(め)の上屋敷であっただろう。謁見即ち目見(めみえ)は抽斎が弘前の士人として受けた礼遇の始(はじめ) で、これから月並(つきなみ)出仕(しゅっし)を命ぜられるまでには七年立ち、番入(ばんいり)を命ぜられ、家督相続をするまでには八年立っている。  抽斎が迷庵門人となってから八年目、文化十四年に記念すべき事があった。それは抽斎と森枳園(もりきえん)とが交(まじわり)を訂した事である。枳園 は後年これを弟子入(でしいり)と称していた。文化四年十一月生(うまれ)の枳園は十一歳になっていたから、十三歳の抽斎が十一歳の枳園を弟子に取った ことになる。  森枳園、名は立之(りっし)、字は立夫(りつふ)、初め伊織(いおり)、中ごろ養真(ようしん)、後養竹(ようちく)と称した。維新後には立之を以て 行われていた。父名は恭忠(きょうちゅう)、通称は同じく養竹であった。恭忠は備後国福山の城主阿部(あべ)伊勢守正倫(まさとも)、同(おなじく)備 中守正精(まさきよ)の二代に仕えた。その男(だん)枳園を挙げたのは、北八町堀(きたはっちょうぼり)竹島町(たけしまちょう)に住んでいた時である 。後(のち)『経籍訪古志』に連署すべき二人(ににん)は、ここに始て手を握ったのである。因(ちなみ)にいうが、枳園は単独に弟子入をしたのではなく て、同じく十一歳であった、弘前の医官小野道瑛(おのどうえい)の子道秀(どうしゅう)も袂(たもと)を聯(つら)ねて入門した。 その二十五  抽斎の家督相続は文政五年八月朔(さく)を以て沙汰(さた)せられた。これより先(さ)き四年十月朔に、抽斎は月並(つきなみ)出仕(しゅっし)仰附 (おおせつ)けられ、五年二月二十八日に、御番(ごばん)見習(みならい)、表医者(おもていしゃ)仰附けられ、即日見習の席に着き、三月朔に本番に入 (い)った。家督相続の年には、抽斎が十八歳で、隠居した父允成(ただしげ)が五十九歳であった。抽斎は相続後直(ただ)ちに一粒金丹(いちりゅうきん たん)製法の伝授を受けた。これは八月十五日の日附(ひづけ)を以てせられた。  抽斎の相続したと同じ年同じ月の二十九日に、相馬大作(そうまだいさく)が江戸小塚原(こづかはら)で刑せられた。わたくしはこの偶然の符合のために 、ここに相馬大作の事を説こうとするのではない。しかし事のついでに言って置きたい事がある。大作は津軽家の祖先が南部家の臣であったと思っていた。そ こで文化二年以来津軽家の漸(ようや)く栄え行くのに平(たいらか)ならず、寧親(やすちか)の入国の時、途(みち)に要撃しようとして、出羽国秋田領 白沢宿(しらさわじゅく)まで出向いた。然(しか)るに寧親はこれを知って道を変えて帰った。大作は事露(あらわ)れて捕(とら)えられたということで ある。  津軽家の祖先が南部家の被官であったということは、内藤恥叟(ないとうちそう)も『徳川十五代史』に書いている。しかし郷土史に精(くわ)しい外崎覚 (とのさきかく)さんは、かつて内藤に書を寄せて、この説の誤(あやまり)を匡(ただ)そうとした。  初め津軽家と南部家とは対等の家柄であった。然るに津軽家は秀信(ひでのぶ)の世に勢(いきおい)を失って、南部家の後見(うしろみ)を受けることに なり、後元信(もとのぶ)、光信(みつのぶ)父子は人質として南部家に往っていたことさえある。しかし津軽家が南部家に仕えたことはいまだかつて聞かな い。光信は彼(か)の渋江辰盛(しんせい)を召し抱えた信政(のぶまさ)の六世の祖である。津軽家の隆興は南部家に怨(うらみ)を結ぶはずがない。この 雪冤(せつえん)の文を作った外崎さんが、わたくしの渋江氏の子孫を捜し出す媒(なかだち)をしたのだから、わたくしはただこれだけの事をここに記(し る)して置く。  家督相続の翌年、文政六年十二月二十三日に、抽斎は十九歳で、始(はじめ)て妻を娶(めと)った。妻は下総国(しもうさのくに)佐倉の城主堀田(ほっ た)相模守正愛(まさちか)家来大目附(おおめつけ)百石岩田十大夫(いわたじゅうたゆう)女(むすめ)百合(ゆり)として願済(ねがいずみ)になった が、実は下野(しもつけ)国安蘇郡(あそごおり)佐野(さの)の浪人尾島忠助(おじまちゅうすけ)女(むすめ)定(さだ)である。この人は抽斎の父允成 が、子婦(よめ)には貧家に成長して辛酸を嘗(な)めた女を迎えたいといって選んだものだそうである。夫婦の齢(よわい)は抽斎が十九歳、定が十七歳で あった。  この年に森枳園(きえん)は、これまで抽斎の弟子、即ち伊沢蘭軒の孫弟子であったのに、去って直ちに蘭軒に従学することになった。当時西語にいわゆる シニックで奇癖が多く、朝夕(ちょうせき)好んで俳優の身振(みぶり)声色(こわいろ)を使う枳園の同窓に、今一人塩田楊庵(しおだようあん)という奇 人があった。素(もと)越後新潟の人で、抽斎と伊沢蘭軒との世話で、宗(そう)対馬守(つしまのかみ)義質(よしかた)の臣塩田氏の女壻(じょせい)と なった。塩田は散歩するに友を誘(いざな)わぬので、友が密(ひそか)に跡に附いて行って見ると、竹の杖(つえ)を指の腹に立てて、本郷追分(おいわけ )の辺(へん)を徘徊(はいかい)していたそうである。伊沢の門下で枳園楊庵の二人は一双の奇癖家として遇せられていた。声色遣(つかい)も軽業師(か るわざし)も、共に十七歳の諸生であった。  抽斎の母縫(ぬい)は、子婦(よめ)を迎えてから半年立って、文政七年七月朔に剃髪して寿松(じゅしょう)と称した。  翌文政八年三月晦(みそか)には、当時抽斎の住んでいた元柳原町六丁目の家が半焼(はんやけ)になった。この年津軽家には代替(だいがわり)があった 。寧親が致仕して、大隅守(おおすみのかみ)信順(のぶゆき)が封を襲(つ)いだのである。時に信順は二十六歳、即ち抽斎より長ずること五歳であった。  次の文政九年は抽斎が種々の事に遭逢(そうほう)した年である。先ず六月二十八日に姉須磨(すま)が二十五歳で亡くなった。それから八月十四日に、師 市野迷庵が六十二歳で歿した。最後に十二月五日に、嫡子恒善(つねよし)が生れた。  須磨は前にいった通(とおり)、飯田良清(よしきよ)というものの妻(さい)になっていたが、この良清は抽斎の父允成の実父稲垣清蔵(いながきせいぞ う)の孫である。清蔵の子が大矢清兵衛(おおやせいべえ)、清兵衛の子が飯田良清である。須磨の夫が飯田氏を冒したのは、幕府の家人株(けにんかぶ)を 買ったのであるから、夫の父が大矢氏を冒したのも、恐らくは株として買ったのであろう。  迷庵の死は抽斎をして狩谷 ※(「木+夜」、第3水準1-85-76) 斎に師事せしむる動機をなしたらしいから、抽斎が ※(「木+夜」、第3水準1-85-76) 斎の門に入(い)ったのも、この頃の事であっただろう。迷庵の跡は子光寿(こうじゅ)が襲(つ)いだ。 その二十六  文政十二年もまた抽斎のために事多き年であった。三月十七日には師伊沢蘭軒が五十三歳で歿した。二十八日には抽斎が近習医者介(きんじゅいしゃすけ) を仰附けられた。六月十四日には母寿松が五十五歳で亡くなった。十一月十一日には妻(つま)定が離別せられた。十二月十五日には二人目(ににんめ)の妻 同藩留守居役百石比良野文蔵(ひらのぶんぞう)の女(むすめ)威能(いの)が二十四歳で来(きた)り嫁した。抽斎はこの年二十五歳であった。  わたくしはここに抽斎の師伊沢氏の事、それから前後の配偶定と威能との事を附け加えたい。亡くなった母については別に言うべき事がない。  抽斎と伊沢氏との交(まじわり)は、蘭軒の歿した後(のち)も、少しも衰えなかった。蘭軒の嫡子榛軒(しんけん)が抽斎の親しい友で、抽斎より長ずる こと一歳であったことは前に言った。榛軒の弟柏軒(はくけん)、通称磐安(ばんあん)は文化七年に生れた。怙(こ)を喪(うしな)った時、兄は二十六歳 、弟は二十歳であった。抽斎は柏軒を愛して、己(おのれ)の弟の如くに待遇した。柏軒は狩谷 ※(「木+夜」、第3水準1-85-76) 斎の女(むすめ)俊(たか)を娶(めと)った。その次男が磐(いわお)、三男が今の歯科医信平(しんぺい)さんである。  抽斎の最初の妻定が離別せられたのは何故(なにゆえ)か詳(つまびらか)にすることが出来ない。しかし渋江の家で、貧家の女(むすめ)なら、こういう 性質を具えているだろうと予期していた性質を、定は不幸にして具えていなかったかも知れない。  定に代って渋江の家に来た抽斎の二人目の妻威能は、世(よよ)要職におる比良野氏の当主文蔵を父に持っていた。貧家の女(じょ)に懲りて迎えた子婦( よめ)であろう。そしてこの子婦は短命ではあったが、夫の家では人々に悦(よろこ)ばれていたらしい。何故そういうかというに、後(のち)威能が亡くな り、次の三人目の妻がまた亡くなって、四人目の妻が商家から迎えられる時、威能の父文蔵は喜んで仮親になったからである。渋江氏と比良野氏との交誼(こ うぎ)が、後に至るまで此(かく)の如くに久しく渝(かわ)らずにいたのを見ても、婦壻(よめむこ)の間にヂソナンスのなかったことが思い遣られる。  比良野氏は武士気質(かたぎ)の家であった。文蔵の父、威能の祖父であった助太郎(すけたろう)貞彦(さだひこ)は文事と武備とを併(あわ)せ有した 豪傑の士である。外浜(がいひん)また嶺雪(れいせつ)と号し、安永五年に江戸藩邸の教授に挙げられた。画(え)を善くして、「外浜画巻(そとがはまが かん)」及「善知鳥(うとう)画軸」がある。剣術は群を抜いていた。壮年の頃村正(むらまさ)作の刀(とう)を佩(お)びて、本所割下水(わりげすい) から大川端(おおかわばた)辺(あたり)までの間を彷徨(ほうこう)して辻斬(つじぎり)をした。千人斬ろうと思い立ったのだそうである。抽斎はこの事 を聞くに及んで、歎息して已(や)まなかった。そして自分は医薬を以て千人を救おうという願(がん)を発(おこ)した。  天保二年、抽斎が二十七歳の時、八月六日に長女純(いと)が生れ、十月二日に妻威能が歿した。年は二十六で、帰(とつ)いでから僅に三年目である。十 二月四日に、備後国福山の城主阿部伊予守正寧(まさやす)の医官岡西栄玄(おかにしえいげん)の女(じょ)徳が抽斎に嫁した。この年八月十五日に、抽斎 の父允成は隠居料三人扶持を賜わった。これは従来寧親(やすちか)信順(のぶゆき)二公にかわるがわる勤仕していたのに、六月からは兼(かね)て岩城隆 喜(いわきたかひろ)の室(しつ)、信順の姉もと姫に、また八月からは信順の室欽姫(かねひめ)に伺候することになったからであろう。  この時抽斎の家族は父允成、妻岡西氏徳、尾島(おじま)氏出(しゅつ)の嫡子恒善(つねよし)、比良野氏出(しゅつ)の長女純の四人となっていた。抽 斎が三人目の妻徳を娶(めと)るに至ったのは、徳の兄岡西玄亭(げんてい)が抽斎と同じく蘭軒の門下におって、共に文字(もんじ)の交(まじわり)を訂 していたからである。  天保四年四月六日に、抽斎は藩主信順に随(したが)って江戸を発し、始めて弘前に往った。江戸に還(かえ)ったのは、翌五年十一月十五日である。この 留守に前藩主寧親は六十九歳で卒した。抽斎の父允成が四月朔(さく)に二人(ににん)扶持の加増を受けて、隠居料五人扶持にせられたのは、特に寧親に侍 せしめられたためであろう。これは抽斎が二十九歳から三十歳に至る間の事である。  抽斎の友森枳園(きえん)が佐々木氏勝(かつ)を娶って、始めて家庭を作ったのも天保四年で、抽斎が弘前に往った時である。これより先枳園は文政四年 に怙(こ)を喪って、十五歳で形式的の家督相続をなした。蘭軒に従学する前二年の事である。 その二十七  天保六年閏(うるう)七月四日に、抽斎は師狩谷 ※(「木+夜」、第3水準1-85-76) 斎(かりやえきさい)を喪なった。六十一歳で亡くなったのである。十一月五日に、次男優善(やすよし)が生れた。後に名を優(ゆたか)と改めた人である 。この年抽斎は三十一歳になった。   ※(「木+夜」、第3水準1-85-76) 斎の後(のち)は懐之(かいし)、字(あざな)は少卿(しょうけい)、通称は三平(さんぺい)が嗣(つ)いだ。抽斎の家族は父允成、妻徳、嫡男恒善(つ ねよし)、長女純(いと)、次男優善の五人になった。  同じ年に森枳園(きえん)の家でも嫡子養真(ようしん)が生れた。  天保七年三月二十一日に、抽斎は近習詰(きんじゅづめ)に進んだ。これまでは近習格であったのである。十一月十四日に、師池田京水(けいすい)が五十 一歳で歿した。この年抽斎は三十二歳になった。  京水には二人の男子(なんし)があった。長を瑞長(ずいちょう)といって、これが家業を襲(つ)いだ。次を全安(ぜんあん)といって、伊沢家の女壻に なった。榛軒の女(むすめ)かえに配せられたのである。後に全安は自立して本郷弓町(ゆみちょう)に住んだ。  天保八年正月十五日に、抽斎の長子恒善が始て藩主信順(のぶゆき)に謁した。年甫(はじめ)て十二である。七月十二日に、抽斎は信順に随って弘前に往 った。十月二十六日に、父允成が七十四歳で歿した。この年抽斎は三十三歳になった。  初め抽斎は酒を飲まなかった。然るにこの年藩主がいわゆる詰越(つめこし)をすることになった。例に依(よ)って翌年江戸に帰らずに、二冬(ふたふゆ )を弘前で過すことになったのである。そこで冬になる前に、種々の防寒法を工夫して、豕(ぶた)の子を取り寄せて飼養しなどした。そのうち冬が来て、江 戸で父の病むのを聞いても、帰省することが出来ぬので、抽斎は酒を飲んで悶(もん)を遣(や)った。抽斎が酒を飲み、獣肉を ※(「口+敢」、第3水準1-15-19) (くら)うようになったのはこの時が始である。  しかし抽斎は生涯煙草(タバコ)だけは喫(の)まずにしまった。允成の直系卑属は、今の保さんなどに至るまで、一人も煙草を喫まぬのだそうである。但 し抽斎の次男優善は破格であった。  抽斎のまだ江戸を発せぬ前の事である。徒士町(かちまち)の池田の家で、当主瑞長(ずいちょう)が父京水の例に倣(なら)って、春の初(はじめ)に発 会式(ほっかいしき)ということをした。京水は毎年(まいねん)これを催して、門人を集(つど)えたのであった。然るに今年(ことし)抽斎が往って見る と、名は発会式と称しながら、趣は全く前日に異(ことな)っていて、京水時代の静粛は痕(あと)だに留(とど)めなかった。芸者が来て酌(しゃく)をし ている。森枳園が声色を使っている。抽斎は暫(しばら)く黙して一座の光景を視(み)ていたが、遂に容(かたち)を改めて主客の非礼を責めた。瑞長は大 いに羞(は)じて、すぐに芸者に暇(いとま)を遣ったそうである。  引き続いて二月に、森枳園の家に奇怪な事件が生じた。枳園は阿部家を逐(お)われて、祖母、母、妻勝(かつ)、生れて三歳の倅(せがれ)養真の四人を 伴って夜逃(よにげ)をしたのである。後に枳園の自ら選んだ寿蔵碑(じゅぞうひ)には「有故失禄」と書してあるが、その故は何かというと、実に悲惨でも あり、また滑稽(こっけい)でもあった。  枳園は好劇家であった。単に好劇というだけなら、抽斎も同じ事である。しかし抽斎は俳優の技(ぎ)を、観棚(かんぽう)から望み見て楽(たのし)むに 過ぎない。枳園は自らその科白(かはく)を学んだ。科白を学んで足らず、遂に舞台に登って※子(つけ)[#「木+邦」、U+6886、87-8]を撃っ た。後にはいわゆる相中(あいちゅう)の間(あいだ)に混じて、並大名(ならびだいみょう)などに扮(ふん)し、また注進などの役をも勤めた。  或日阿部家の女中が宿に下(さが)って芝居を看(み)に往(ゆ)くと、ふと登場している俳優の一人が養竹(ようちく)さんに似ているのに気が附いた。 そう思って、と見(み)こう見するうちに、女中はそれが養竹さんに相違ないと極(き)めた。そして邸(やしき)に帰ってから、これを傍輩(ほうばい)に 語った。固(もと)より一の可笑(おか)しい事として語ったので、初より枳園に危害を及ぼそうとは思わなかったのである。  さてこの奇談が阿部邸の奥表(おくおもて)に伝播(でんぱ)して見ると、上役(うわやく)はこれを棄(す)て置かれぬ事と認めた。そこでいよいよ君侯 に稟(もう)して禄を褫(うば)うということになってしまった。 その二十八  枳園(きえん)は俳優に伍(ご)して登場した罪によって、阿部家の禄を失って、永(なが)の暇(いとま)になった。後に抽斎の四人目の妻となるべき山 内氏五百(いお)の姉は、阿部家の奥に仕えて、名を金吾(きんご)と呼ばれ、枳園をも識(し)っていたが、事件の起(おこ)る三、四年前(ぜん)に暇を 取ったので、当時の阿部家における細かい事情を知らなかった。  永の暇になるまでには、相応に評議もあったことであろう。友人の中には、枳園を救おうとした人もあったことであろう。しかし枳園は平生細節(さいせつ )に拘(かかわ)らぬ人なので、諸方面に対して、世にいう不義理が重なっていた。中にも一、二件の筆紙に上(のぼ)すべからざるものもある。救おうとし た人も、これらの障礙(しょうがい)のために、その志を遂げることが出来なかったらしい。  枳園は江戸で暫(しばら)く浪人生活をしていたが、とうとう負債のために、家族を引き連れて夜逃(よにげ)をした。恐らくはこの最後の策に出(い)づ ることをば、抽斎にも打明けなかっただろう。それは面目(めんぼく)がなかったからである。 ※(「禊のつくり」の「大」に代えて「糸」、第3水準1-90-4) 矩(けっく)の道を紳(しん)に書していた抽斎をさえ、度々忍びがたき目に逢(あ)わせていたからである。  枳園は相模国をさして逃げた。これは当時三十一歳であった枳園には、もう幾人(いくたり)かの門人があって、その中(うち)に相模の人がいたのをたよ って逃げたのである。この落魄(らくたく)中の精(くわ)しい経歴は、わたくしにはわからない。『桂川(けいせん)詩集』、『遊相医話(ゆうそういわ) 』などという、当時の著述を見たらわかるかも知れぬが、わたくしはまだ見るに及ばない。寿蔵碑(じゅぞうひ)には、浦賀(うらが)、大磯(おおいそ)、 大山(おおやま)、日向(ひなた)、津久井(つくい)県の地名が挙げてある。大山は今の大山町(まち)、日向は今の高部屋(たかべや)村で、どちらも大 磯と同じ中郡(なかごおり)である。津久井県は今の津久井郡で相模川がこれを貫流している。桂川(かつらがわ)はこの川の上流である。  後に枳園の語った所によると、江戸を立つ時、懐中には僅に八百文の銭があったのだそうである。この銭は箱根の湯本(ゆもと)に着くと、もう遣(つか) い尽していた。そこで枳園はとりあえず按摩(あんま)をした。上下(かみしも)十六文の ※(「米+胥」、第4水準2-83-94) 銭(しょせん)を獲(う)るも、なお已(や)むにまさったのである。啻(ただ)に按摩のみではない。枳園は手当り次第になんでもした。「無論内外二科( ないがいにかをろんずるなく)、或為収生(あるいはしゅうせいをなし)、或為整骨(あるいはせいこつをなし)、至于牛馬 ※(「奚+隹」、第3水準1-93-66) 狗之疾(ぎゅうばけいくのしつにいたるまで)、来乞治者(きたりてちをこうものに)、莫不施術(せじゅつせざるはなし)」と、自記の文にいってある。収 生(しゅうせい)はとりあげである。整骨は骨つぎである。獣医の縄張内(なわばりない)にも立ち入った。医者の歯を治療するのをだに拒もうとする今の人 には、想像することも出来ぬ事である。  老いたる祖母は浦賀で困厄(こんやく)の間に歿した。それでも跡に母と妻と子とがある。自己を併(あわ)せて四人の口を、此(かく)の如き手段で糊( のり)しなくてはならなかった。しかし枳園の性格から推せば、この間に処して意気沮喪(そそう)することもなく、なお幾分のボンヌ・ユミヨオルを保有し ていたであろう。  枳園はようよう大磯に落ち着いた。門人が名主(なぬし)をしていて、枳園を江戸の大先生として吹聴(ふいちょう)し、ここに開業の運(はこび)に至っ たのである。幾ばくもなくして病家の数(かず)が殖(ふ)えた。金帛(きんはく)を以て謝することの出来ぬものも、米穀菜蔬(さいそ)を輸(おく)って 庖厨(ほうちゅう)を賑(にぎわ)した。後には遠方から轎(かご)を以て迎えられることもある。馬を以て請(しょう)ぜられることもある。枳園は大磯を 根拠地として、中(なか)、三浦(みうら)両郡の間を往来し、ここに足掛十二年の月日を過すこととなった。  抽斎は天保九年の春を弘前に迎えた。例の宿直日記に、正月十三日忌明(きあき)と書してある。父の喪が果てたのである。続いて第二の冬をも弘前で過し て、翌天保十年に、抽斎は藩主信順(のぶゆき)に随(したが)って江戸に帰った。三十五歳になった年である。  この年五月十五日に、津軽家に代替(だいがわり)があった。信順は四十歳で致仕して柳島の下屋敷に遷(うつ)り、同じ齢(よわい)の順承(ゆきつぐ) が小津軽(こつがる)から入(い)って封を襲(つ)いだ。信順は頗(すこぶ)る華美を好み、動(やや)もすれば夜宴を催しなどして、財政の窮迫を馴致( じゅんち)し、遂に引退したのだそうである。  抽斎はこれから隠居信順附(づき)にせられて、平日は柳島の館(やかた)に勤仕し、ただ折々上屋敷に伺候した。 その二十九  天保十一年は十二月十四日に谷文晁の歿した年である。文晁は抽斎が師友を以て遇していた年長者で、抽斎は平素画(え)を鑑賞することについては、なに くれとなく教(おしえ)を乞い、また古器物(こきぶつ)や本艸(ほんぞう)の参考に供すべき動植物を図(ず)するために、筆の使方(つかいかた)、顔料 (がんりょう)の解方(ときかた)などを指図してもらった。それが前年に七十七の賀宴を両国(りょうごく)の万八楼(まんはちろう)で催したのを名残( なごり)にして、今年亡人(なきひと)の数に入(い)ったのである。跡は文化九年生(うまれ)で二十九歳になる文二(ぶんじ)が嗣(つ)いだ。文二の外 に六人の子を生んだ文晁の後妻阿佐(あさ)は、もう五年前に夫に先(さきだ)って死んでいたのである。この年抽斎は三十六歳であった。  天保十二年には、岡西氏徳(とく)が二女(じじょ)好(よし)を生んだが、好は早世した。閏(じゅん)正月二十六日に生れ、二月三日に死んだのである 。翌十三年には、三男八三郎(はちさぶろう)が生れたが、これも夭折(ようせつ)した。八月三日に生れ、十一月九日に死んだのである。抽斎が三十七歳か ら三十八歳になるまでの事である。わたくしは抽斎の事を叙する初(はじめ)において、天保十二年の暮の作と認むべき抽斎の述志の詩を挙げて、当時の渋江 氏の家族を数えたが、 ※(「倏」の「犬」に代えて「火」、第4水準2-1-57) (たちま)ち来り ※(「倏」の「犬」に代えて「火」、第4水準2-1-57) ち去った女(むすめ)好の名は見(あら)わすことが出来なかった。  天保十四年六月十五日に、抽斎は近習に進められた。三十九歳の時である。  この年に躋寿館(せいじゅかん)で書を講じて、陪臣町医(まちい)に来聴せしむる例が開かれた。それが十月で、翌十一月に始て新(あらた)に講師が任 用せられた。初(はじめ)館には都講(とこう)、教授があって、生徒に授業していたに過ぎない。一時多紀藍渓(たきらんけい)時代に百日課(ひゃくにち か)の制を布(し)いて、医学も経学(けいがく)も科を分って、百日を限って講じたことがある。今いうクルズスである。しかしそれも生徒に聴(き)かせ たのである。百日課は四年間で罷(や)んだ。講師を置いて、陪臣町医の来聴を許すことになったのは、この時が始である。五カ月の後、幕府が抽斎を起(た )たしむることとなったのは、この制度あるがためである。  弘化元年は抽斎のために、一大転機を齎(もたら)した。社会においては幕府の直参(じきさん)になり、家庭においては岡西氏徳のみまかった跡へ、始て 才色兼ね備わった妻が迎えられたのである。  この一年間の出来事を順次に数えると、先ず二月二十一日に妻徳が亡くなった。三月十二日に老中(ろうじゅう)土井(どい)大炊頭(おおいのかみ)利位 (としつら)を以て、抽斎に躋寿館講師を命ぜられた。四月二十九日に定期登城(とじょう)を命ぜられた。年始、八朔(はっさく)、五節句、月並(つきな み)の礼に江戸城に往(ゆ)くことになったのである。十一月六日に神田紺屋町(こんやちょう)鉄物問屋(かなものどいや)山内忠兵衛妹五百(いお)が来 り嫁した。表向(おもてむき)は弘前藩目附役百石比良野助太郎妹翳(かざし)として届けられた。十二月十日に幕府から白銀(はくぎん)五枚を賜わった。 これは以下恒例になっているから必ずしも書かない。同月二十六日に長女純(いと)が幕臣馬場玄玖(ばばげんきゅう)に嫁した。時に年十六である。  抽斎の岡西氏徳を娶(めと)ったのは、その兄玄亭が相貌(そうぼう)も才学も人に優れているのを見て、この人の妹ならと思ったからである。然るに伉儷 (こうれい)をなしてから見ると、才貌共に予期したようではなかった。それだけならばまだ好(よ)かったが、徳は兄には似ないで、かえって父栄玄の褊狭 (へんきょう)な気質を受け継いでいた。そしてこれが抽斎にアンチパチイを起させた。  最初の妻定(さだ)は貧家の女(むすめ)の具えていそうな美徳を具えていなかったらしく、抽斎の父允成(ただしげ)が或時、己(おれ)の考が悪かった といって歎息したこともあるそうだが、抽斎はそれほど厭(いや)とは思わなかった。二人(ににん)目の妻威能(いの)は怜悧(れいり)で、人を使う才が あった。とにかく抽斎に始てアンチパチイを起させたのは、三人目の徳であった。 その三十  克己を忘れたことのない抽斎は、徳を叱(しか)り懲らすことはなかった。それのみではない。あらわに不快の色を見せもしなかった。しかし結婚してから 一年半ばかりの間、これに親近せずにいた。そして弘前へ立った。初度の旅行の時の事である。  さて抽斎が弘前にいる間、江戸の便(たより)があるごとに、必ず長文の手紙が徳から来た。留守中の出来事を、殆(ほとん)ど日記のように悉(くわし) く書いたのである。抽斎は初め数行(すうこう)を読んで、直(ただ)ちにこの書信が徳の自力によって成ったものでないことを知った。文章の背面に父允成 の気質が歴々として見えていたからである。  允成は抽斎の徳に親(したし)まぬのを見て、前途のために危(あやぶ)んでいたので、抽斎が旅に立つと、すぐに徳に日課を授けはじめた。手本を与えて 手習(てならい)をさせる。日記を附けさせる。そしてそれに本(もと)づいて文案を作って、徳に筆を把(と)らせ、家内(かない)の事は細大となく夫に 報ぜさせることにしたのである。  抽斎は江戸の手紙を得るごとに泣いた。妻のために泣いたのではない。父のために泣いたのである。  二年近い旅から帰って、抽斎は勉(つと)めて徳に親んで、父の心を安(やすん)ぜようとした。それから二年立って優善(やすよし)が生れた。  尋(つ)いで抽斎は再び弘前へ往って、足掛三年淹留(えんりゅう)した。留守に父の亡くなった旅である。それから江戸に帰って、中一年置いて好(よし )が生れ、その翌年また八三郎が生れた。徳は八三郎を生んで一年半立って亡くなった。  そして徳の亡くなった跡へ山内氏五百(いお)が来ることになった。抽斎の身分は徳が往(ゆ)き、五百が来(きた)る間に変って、幕府の直参(じきさん )になった。交際は広くなる。費用は多くなる。五百は卒(にわか)にその中(うち)に身を投じて、難局に当らなくてはならなかった。五百があたかも好( よ)しその適材であったのは、抽斎の幸(さいわい)である。  五百の父山内忠兵衛は名を豊覚(ほうかく)といった。神田紺屋町に鉄物問屋(かなものどいや)を出して、屋号を日野屋といい、商標には井桁(いげた) の中に喜の字を用いた。忠兵衛は詩文書画を善くして、多く文人墨客(ぼっかく)に交(まじわ)り、財を捐(す)ててこれが保護者となった。  忠兵衛に三人の子があった。長男栄次郎、長女安(やす)、二女五百である。忠兵衛は允成の友で、嫡子栄次郎の教育をば、久しく抽斎に託していた。文政 七、八年の頃、允成が日野屋をおとずれて、芝居の話をすると、九つか十であった五百と、一つ年上の安とが面白がって傍聴していたそうである。安は即ち後 に阿部家に仕えた金吾(きんご)である。  五百は文化十三年に生れた。兄栄次郎が五歳、姉安が二歳になっていた時である。忠兵衛は三人の子の次第に長ずるに至って、嫡子には士人たるに足る教育 を施し、二人の女(むすめ)にも尋常女子の学ぶことになっている読み書き諸芸の外、武芸をしこんで、まだ小さい時から武家奉公に出した。中にも五百には 、経学(けいがく)などをさえ、殆ど男子に授けると同じように授けたのである。  忠兵衛が此(かく)の如くに子を育てたには来歴がある。忠兵衛の祖先は山内但馬守(たじまのかみ)盛豊(もりとよ)の子、対馬守(つしまのかみ)一豊 (かずとよ)の弟から出たのだそうで、江戸の商人になってからも、三葉柏(みつばがしわ)の紋を附け、名のりに豊(とよ)の字を用いることになっている 。今わたくしの手近(てぢか)にある系図には、一豊の弟は織田信長(おだのぶなが)に仕えた修理亮(しゅりのすけ)康豊(やすとよ)と、武田信玄(たけ だしんげん)に仕えた法眼(ほうげん)日泰(にったい)との二人しか載せてない。忠兵衛の家は、この二人の内いずれかの裔(すえ)であるか、それとも外 に一豊の弟があったか、ここに遽(にわか)に定(さだ)めることが出来ない。 その三十一  五百(いお)は十一、二歳の時、本丸に奉公したそうである。年代を推せば、文政九年か十年かでなくてはならない。徳川家斉(とくがわいえなり)が五十 四、五歳になった時である。御台所(みだいどころ)は近衛経煕(このえけいき)の養女茂姫(しげひめ)である。  五百は姉小路(あねこうじ)という奥女中の部屋子(へやこ)であったという。姉小路というからには、上臈(じょうろう)であっただろう。然(しか)ら ば長局(ながつぼね)の南一の側(かわ)に、五百はいたはずである。五百らが夕方(ゆうかた)になると、長い廊下を通って締めに往(ゆ)かなくてはなら ぬ窓があった。その廊下には鬼が出るという噂(うわさ)があった。鬼とはどんな物で、それが出て何をするかというに、誰(たれ)も好(よ)くは見ぬが、 男の衣(きもの)を着ていて、額に角(つの)が生(は)えている。それが礫(つぶて)を投げ掛けたり、灰を蒔(ま)き掛けたりするというのである。そこ でどの部屋子も窓を締めに往くことを嫌って、互(たがい)に譲り合った。五百は穉(おさな)くても胆力があり、武芸の稽古(けいこ)をもしたことがある ので、自ら望んで窓を締めに往(い)った。  暗い廊下を進んで行くと、果してちょろちょろと走り出たものがある。おやと思う間もなく、五百は片頬(かたほ)に灰を被(かぶ)った。五百には咄嗟( とっさ)の間(あいだ)に、その物の姿が好くは見えなかったが、どうも少年の悪作劇(いたずら)らしく感ぜられたので、五百は飛び附いて掴(つか)まえ た。 「許せ/\」と鬼は叫んで身をもがいた。五百はすこしも手を弛(ゆる)めなかった。そのうちに外の女子(おなご)たちが馳(は)せ附けた。  鬼は降伏して被っていた鬼面(おにめん)を脱いだ。銀之助(ぎんのすけ)様と称(とな)えていた若者で、穉くて美作国(みまさかのくに)西北条郡(に しほうじょうごおり)津山(つやま)の城主松平家(まつだいらけ)へ壻入(むこいり)した人であったそうである。  津山の城主松平越後守斉孝(なりたか)の次女徒(かち)の方(かた)の許(もと)へ壻入したのは、家斉の三十四人目の子で、十四男参河守(みかわのか み)斉民(なりたみ)である。  斉民は小字(おさなな)を銀之助という。文化十一年七月二十九日に生れた。母はお八重(やえ)の方(かた)である。十四年七月二十二日に、御台所(み だいどころ)の養子にせられ、九月十八日に津山の松平家に壻入し、十二月三日に松平邸に往(いっ)た。四歳の壻君(むこぎみ)である。文政二年正月二十 八日には新居落成してそれに移った。七年三月二十八日には十一歳で元服して、従(じゅ)四位上(じょう)侍従参河守斉民となった。九年十二月には十三歳 で少将にせられた。人と成って後確堂公(かくどうこう)と呼ばれたのはこの人で、成島柳北(なるしまりゅうほく)の碑の篆額(てんがく)はその筆(ふで )である。そうして見ると、この人が鬼になって五百に捉(とら)えられたのは、従四位上侍従になってから後(のち)で、ただ少将であったか、なかったか が疑問である。津山邸に館(やかた)はあっても、本丸に寝泊(ねとまり)して、小字(おさなな)の銀之助を呼ばれていたものと見える。年は五百より二つ 上である。  五百の本丸を下(さが)ったのは何時(いつ)だかわからぬが、十五歳の時にはもう藤堂家(とうどうけ)に奉公していた。五百が十五歳になったのは、天 保元年である。もし十四歳で本丸を下ったとすると、文政十二年に下ったことになる。  五百は藤堂家に奉公するまでには、二十幾家という大名の屋敷を目見(めみえ)をして廻(まわ)ったそうである。その頃も女中の目見は、君(きみ)臣( しん)を択(えら)ばず、臣君を択ぶというようになっていたと見えて、五百が此(かく)の如くに諸家の奥へ覗(のぞ)きに往ったのは、到処(いたるとこ ろ)で斥(しりぞ)けられたのではなく、自分が仕うることを肯(がえん)ぜなかったのだそうである。  しかし二十余家を経廻(へめぐ)るうちに、ただ一カ所だけ、五百が仕えようと思った家があった。それが偶然にも土佐国高知の城主松平土佐守豊資(とよ すけ)の家であった。即ち五百と祖先を同じうする山内家である。  五百が鍛冶橋内(かじばしうち)の上屋敷へ連れられて行くと、外の家と同じような考試に逢った。それは手跡、和歌、音曲(おんぎょく)の嗜(たしなみ )を験(ため)されるのである。試官は老女である。先ず硯箱(すずりばこ)と色紙とを持ち出して、老女が「これに一つお染(そめ)を」という。五百は自 作の歌を書いたので、同時に和歌の吟味も済んだ。それから常磐津(ときわず)を一曲語らせられた。これらの事は他家と何の殊(こと)なることもなかった が、女中が悉(ことごと)く綿服(めんぷく)であったのが、五百の目に留まった。二十四万二千石の大名の奥の質素なのを、五百は喜んだ。そしてすぐにこ の家に奉公したいと決心した。奥方は松平上総介(かずさのすけ)斉政(なりまさ)の女(むすめ)である。  この時老女がふと五百(いお)の衣類に三葉柏(みつばがしわ)の紋の附いているのを見附けた。 その三十二  山内家の老女は五百に、どうして御当家の紋と同じ紋を、衣類に附けているかと問うた。  五百は自分の家が山内氏で、昔から三葉柏(みつばがしわ)の紋を附けていると答えた。  老女は暫(しばら)く案じてからいった。御用に立ちそうな人と思われるから、お召抱(めしかかえ)になるように申し立てようと思う。しかしその紋は当 分御遠慮申すが好かろう。由緒(ゆいしょ)のあることであろうから、追ってお許(ゆるし)を願うことも出来ようといった。  五百は家に帰って、父に当分紋を隠して奉公することの可否を相談した。しかし父忠兵衛は即座に反対した。姓名だの紋章だのは、先祖(せんそ)から承( う)けて子孫に伝える大切なものである。濫(みだり)に匿(かく)したり更(あらた)めたりすべきものではない。そんな事をしなくては出来ぬ奉公なら、 せぬが好(よ)いといったのである。  五百が山内家をことわって、次に目見(めみえ)に往ったのが、向柳原(むこうやなぎはら)の藤堂家の上屋敷であった。例の考試は首尾好く済んだ。別格 を以て重く用いても好いといって、懇望せられたので、諸家を廻(まわ)り草臥(くたび)れた五百は、この家に仕えることに極(き)めた。  五百はすぐに中臈(ちゅうろう)にせられて、殿様附(づき)と定(さだ)まり、同時に奥方祐筆(ゆうひつ)を兼ねた。殿様は伊勢国安濃郡(あのごおり )津の城主、三十二万三千九百五十石の藤堂和泉守(いずみのかみ)高猷(たかゆき)である。官位は従(じゅ)四位侍従になっていた。奥方は藤堂主殿頭( とものかみ)高 ※(「山/(鬆−髟)」、第3水準1-47-81) (たかたけ)の女(むすめ)である。  この時五百はまだ十五歳であったから、尋常ならば女小姓(おんなこしょう)に取らるべきであった。それが一躍して中臈を贏(か)ち得たのは破格である 。女小姓は茶、烟草(タバコ)、手水(ちょうず)などの用を弁ずるもので、今いう小間使(こまづかい)である。中臈は奥方附であると、奥方の身辺に奉仕 して、種々の用事を弁ずるものである。幕府の慣例ではそれが転じて将軍附となると、妾(しょう)になったと見ても好(い)い。しかし大名の家では奥方に 仕えずに殿様に仕えるというに過ぎない。祐筆は日記を附けたり、手紙を書いたりする役である。  五百は呼名は挿頭(かざし)と附けられた。後に抽斎に嫁することに極まって、比良野氏の娘分にせられた時、翳(かざし)の名を以て届けられたのは、こ れを襲用したのである。さて暫く勤めているうちに、武芸の嗜(たしなみ)のあることを人に知られて、男之助(おとこのすけ)という綽名(あだな)が附い た。  藤堂家でも他家と同じように、中臈は三室(さんしつ)位に分たれた部屋に住んで、女二人(ににん)を使った。食事は自弁であった。それに他家では年給 三十両内外であるのに、藤堂家では九両であった。当時の武家奉公をする女は、多く俸銭を得ようと思っていたのではない。今の女が女学校に往(ゆ)くよう に、修行をしに往くのである。風儀の好さそうな家を択んで仕えようとした五百(いお)なぞには、給料の多寡は初(はじめ)より問う所でなかった。  修行は金を使ってする業(わざ)で、金を取る道は修行ではない。五百なぞも屋敷住いをして、役人に物を献じ、傍輩(ほうばい)に饗応(きょうおう)し 、衣服調度を調(ととの)え、下女(げじょ)を使って暮すには、父忠兵衛は年(とし)に四百両を費したそうである。給料は三十両貰(もら)っても九両貰 っても、格別の利害を感ぜなかったはずである。  五百は藤堂家で信任せられた。勤仕いまだ一年に満たぬのに、天保二年の元日には中臈頭(がしら)に進められた。中臈頭はただ一人しか置かれぬ役で、通 例二十四、五歳の女が勤める。それを五百は十六歳で勤めることになった。 その三十三  五百(いお)は藤堂家に十年間奉公した。そして天保十年に二十四歳で、父忠兵衛の病気のために暇(いとま)を取った。後に夫となるべき抽斎は五百が本 丸にいた間、尾島氏定(さだ)を妻とし、藤堂家にいた間、比良野氏威能(いの)、岡西氏徳(とく)を相踵(あいつ)いで妻としていたのである。  五百の藤堂家を辞した年は、父忠兵衛の歿した年である。しかし奉公を罷(や)めた頃は、忠兵衛はまだ女(むすめ)を呼び寄せるほどの病気をしてはいな かった。暇(いとま)を取ったのは、忠兵衛が女を旅に出すことを好まなかったためである。この年に藤堂高猷(たかゆき)夫妻は伊勢参宮をすることになっ ていて、五百は供の中(うち)に加えられていた。忠兵衛は高猷の江戸を立つに先(さきだ)って、五百を家に還(かえ)らしめたのである。  五百の帰った紺屋町の家には、父忠兵衛の外、当時五十歳の忠兵衛妾(しょう)牧(まき)、二十八歳の兄栄次郎がいた。二十五歳の姉安(やす)は四年前 に阿部家を辞して、横山町(よこやまちょう)の塗物問屋(ぬりものどいや)長尾宗右衛門(ながおそうえもん)に嫁していた。宗右衛門は安がためには、た だ一つ年上の夫であった。  忠兵衛の子がまだ皆幼(いとけな)く、栄次郎六歳、安三歳、五百(いお)二歳の時、麹町(こうじまち)の紙問屋山一(やまいち)の女で松平摂津守(せ っつのかみ)義建(ぎけん)の屋敷に奉公したことのある忠兵衛の妻は亡くなったので、跡には享和三年に十四歳で日野屋へ奉公に来た牧が、妾になっていた のである。  忠兵衛は晩年に、気が弱くなっていた。牧は人の上(かみ)に立って指図をするような女ではなかった。然るに五百が藤堂家から帰った時、日野屋では困難 な問題が生じて全家(ぜんか)が頭(こうべ)を悩ませていた。それは五百の兄栄次郎の身の上である。  栄次郎は初め抽斎に学んでいたが、尋(つ)いで昌平黌(しょうへいこう)に通うことになった。安の夫になった宗右衛門は、同じ学校の諸生仲間で、しか もこの二人(ふたり)だけが許多(あまた)の士人の間に介(はさ)まっていた商家の子であった。譬(たと)えていって見れば、今の人が華族でなくて学習 院に入(い)っているようなものである。  五百(いお)が藤堂家に仕えていた間に、栄次郎は学校生活に平(たいらか)ならずして、吉原通(よしわらがよい)をしはじめた。相方(あいかた)は山 口巴(やまぐちともえ)の司(つかさ)という女であった。五百が屋敷から下(さが)る二年前に、栄次郎は深入(ふかいり)をして、とうとう司の身受(み うけ)をするということになったことがある。忠兵衛はこれを聞き知って、勘当しようとした。しかし救解(きゅうかい)のために五百が屋敷から来たので、 沙汰罷(さたやみ)になった。  然るに五百が藤堂家を辞して帰った時、この問題が再燃していた。  栄次郎は妹の力に憑(よ)って勘当を免れ、暫く謹慎して大門を潜(くぐ)らずにいた。その隙(ひま)に司を田舎大尽(いなかだいじん)が受け出した。 栄次郎は鬱症(うつしょう)になった。忠兵衛は心弱くも、人に栄次郎を吉原へ連れて往(ゆ)かせた。この時司の禿(かぶろ)であった娘が、浜照(はまて る)という名で、来月突出(つきだし)になることになっていた。栄次郎は浜照の客になって、前よりも盛(さかん)な遊(あそび)をしはじめた。忠兵衛は また勘当すると言い出したが、これと同時に病気になった。栄次郎もさすがに驚いて、暫く吉原へ往かずにいた。これが五百の帰った時の現状である。  この時に当って、まさに覆(くつがえ)らんとする日野屋の世帯(せたい)を支持して行こうというものが、新(あらた)に屋敷奉公を棄(す)てて帰った 五百の外になかったことは、想像するに難くはあるまい。姉安は柔和に過ぎて決断なく、その夫宗右衛門は早世した兄の家業を襲(つ)いでから、酒を飲んで 遊んでいて、自分の産を治(ち)することをさえ忘れていたのである。 その三十四  五百(いお)は父忠兵衛をいたわり慰め、兄栄次郎を諌(いさ)め励まして、風浪に弄(もてあそ)ばれている日野屋という船の柁(かじ)を取った。そし て忠兵衛の異母兄で十人衆を勤めた大孫(おおまご)某(ぼう)を証人に立てて、兄をして廃嫡を免れしめた。  忠兵衛は十二月七日に歿した。日野屋の財産は一旦(いったん)忠兵衛の意志に依(よ)って五百の名に書き更(か)えられたが、五百は直ちにこれを兄に 返した。  五百は男子と同じような教育を受けていた。藤堂家で武芸のために男之助と呼ばれた反面には、世間で文学のために新少納言(しんしょうなごん)と呼ばれ たという一面がある。同じ頃狩谷 ※(「木+夜」、第3水準1-85-76) 斎(かりやえきさい)の女(むすめ)俊(たか)に少納言の称があったので、五百はこれに対(むか)えてかく呼ばれたのである。  五百の師として事(つか)えた人には、経学に佐藤一斎、筆札(ひっさつ)に生方鼎斎(うぶかたていさい)、絵画に谷文晁、和歌に前田夏蔭(まえだなつ かげ)があるそうである。十一、二歳の時夙(はや)く奉公に出たのであるから、教を受けるには、宿に下る度ごとに講釈を聴(き)くとか、手本を貰って習 って清書を見せに往くとか、兼題の歌を詠んで直してもらうとかいう稽古(けいこ)の為方(しかた)であっただろう。  師匠の中(うち)で最も老年であったのは文晁、次は一斎、次は夏蔭、最も少壮であったのが鼎斎である。年齢を推算するに、五百の生れた文化十三年には 、文晁が五十四、一斎が四十五、夏蔭が二十四、鼎斎が十八になっていた。  文晁は前にいったとおり、天保十一年に七十八で歿した。五百が二十五の時である。一斎は安政六年九月二十四日に八十八で歿した。五百が四十四の時であ る。夏蔭は元治(げんじ)元年八月二十六日に七十二で歿した。五百が四十九の時である。鼎斎は安政三年正月七日に五十八で歿した。五百が四十一の時であ る。鼎斎は画家福田半香(ふくだはんこう)の村松町(むらまつちょう)の家へ年始の礼に往って酒に酔(え)い、水戸の剣客某と口論をし出して、其の門人 に斬られたのである。  五百は鼎斎を師とした外に、近衛予楽院(このえよらくいん)と橘千蔭(たちばなのちかげ)との筆跡を臨模(りんも)したことがあるそうである。予楽院 家煕(いえひろ)は元文(げんぶん)元年に薨(こう)じた。五百の生れる前八十年である。芳宜園千蔭(はぎぞのちかげ)は身分が町奉行与力(よりき)で 、加藤又左衛門(またざえもん)と称し、文化五年に歿した。五百の生れる前八年である。  五百は藤堂家を下ってから五年目に渋江氏に嫁した。穉(おさな)い時から親しい人を夫にするのではあるが、五百の身に取っては、自分が抽斎に嫁し得る というポッシビリテエの生じたのは、二月に岡西氏徳(とく)が亡くなってから後(のち)の事である。常に往来していた渋江の家であるから、五百は徳の亡 くなった二月から、自分の嫁して来る十一月までの間にも、抽斎を訪(と)うたことがある。未婚男女の交際とか自由結婚とかいう問題は、当時の人は夢にだ に知らなかった。立派な教育のある二人(ふたり)が、男は四十歳、女は二十九歳で、多く年を閲(けみ)した友人関係を棄てて、遽(にわか)に夫婦関係に 入(い)ったのである。当時においては、醒覚(せいかく)せる二人(ににん)の間に、此(かく)の如く婚約が整ったということは、絶(たえ)てなくして 僅(わずか)にあるものといって好かろう。  わたくしは鰥夫(おとこやもめ)になった抽斎の許(もと)へ、五百の訪(とぶら)い来た時の緊張したシチュアションを想像する。そして保(たもつ)さ んの語った豊芥子(ほうかいし)の逸事を憶(おも)い起して可笑(おか)しく思う。五百の渋江へ嫁入する前であった。或日五百が来て抽斎と話をしている と、そこへ豊芥子が竹の皮包(かわつつみ)を持って来合せた。そして包を開いて抽斎に鮓(すし)を薦(すす)め、自分も食い、五百に是非食えといった。 後に五百は、あの時ほど困ったことはないといったそうである。 その三十五  五百(いお)は抽斎に嫁するに当って、比良野文蔵の養女になった。文蔵の子で目附役(めつけやく)になっていた貞固(さだかた)は文化九年生(うまれ )で、五百の兄栄次郎と同年であったから、五百はその妹になったのである。然るに貞固は姉威能(いの)の跡に直る五百だからというので、五百を姉と呼ぶ ことにした。貞固の通称は祖父と同じ助太郎である。  文蔵は仮親(かりおや)になるからは、真(まこと)の親と余り違わぬ情誼(じょうぎ)がありたいといって、渋江氏へ往く三カ月ばかり前に、五百を我家 (わがいえ)に引き取った。そして自分の身辺におらせて、煙草を填(つ)めさせ、茶を立てさせ、酒の酌をさせなどした。  助太郎は武張(ぶば)った男で、髪を糸鬢(いとびん)に結い、黒紬(くろつむぎ)の紋附を着ていた。そしてもう藍原氏(あいばらうじ)かなという嫁が あった。初め助太郎とかなとは、まだかなが藍原右衛門(うえもん)の女(むすめ)であった時、穴隙(けつげき)を鑽(き)って相見(あいまみ)えたため に、二人は親々(おやおや)の勘当を受けて、裏店(うらだな)の世帯を持った。しかしどちらも可哀(かわい)い子であったので、間もなくわびが ※(「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1-84-56) (かな)って助太郎は表立ってかなを妻に迎えたのである。  五百が抽斎に帰(とつ)いだ時の支度は立派であった。日野屋の資産は兄栄次郎の遊蕩(ゆうとう)によって傾(かたぶ)き掛かってはいたが、先代忠兵衛 が五百に武家奉公をさせるために為向(しむ)けて置いた首飾(しゅしょく)、衣服、調度だけでも、人の目を驚かすに足るものがあった。今の世の人も奉公 上りには支度があるという。しかしそれは賜物(たまわりもの)をいうのである。当時の女子(おなご)はこれに反して、主(おも)に親の為向けた物を持っ ていたのである。五年の後に夫が将軍に謁した時、五百はこの支度の一部を沽(う)って、夫の急を救うことを得た。またこれに先(さきだ)つこと一年に、 森枳園(きえん)が江戸に帰った時も、五百はこの支度の他の一部を贈って、枳園の妻をして面目を保たしめた。枳園の妻は後々(のちのち)までも、衣服を 欲するごとに五百に請うので、お勝(かつ)さんはわたしの支度を無尽蔵だと思っているらしいといって、五百が歎息したことがある。  五百の来り嫁した時、抽斎の家族は主人夫婦、長男恒善(つねよし)、長女純(いと)、次男優善(やすよし)の五人であったが、間もなく純は出(い)で て馬場氏の婦(ふ)となった。  弘化二年から嘉水元年までの間、抽斎が四十一歳から四十四歳までの間には、渋江氏の家庭に特筆すべき事が少(すくな)かった。五百の生んだ子には、弘 化二年十一月二十六日生(うまれ)の三女棠(とう)、同三年十月十九日生れの四男幻香(げんこう)、同四年十月八日生れの四女陸(くが)がある。四男は 死んで生れたので、幻香水子(げんこうすいし)はその法諡(ほうし)である。陸は今の杵屋勝久(きねやかつひさ)さんである。嘉永元年十二月二十八日に は、長男恒善(つねよし)が二十三歳で月並(つきなみ)出仕を命ぜられた。  五百(いお)の里方(さとかた)では、先代忠兵衛が歿してから三年ほど、栄次郎の忠兵衛は謹慎していたが、天保十三年に三十一歳になった頃から、また 吉原へ通いはじめた。相方(あいかた)は前の浜照(はまてる)であった。そして忠兵衛は遂に浜照を落籍させて妻(さい)にした。尋(つ)いで弘化三年十 一月二十二日に至って、忠兵衛は隠居して、日野屋の家督を僅(わずか)に二歳になった抽斎の三女棠(とう)に相続させ、自分は金座(きんざ)の役人の株 を買って、広瀬栄次郎と名告(なの)った。  五百の姉安を娶(めと)った長尾宗右衛門は、兄の歿した跡を襲(つ)いでから、終日手杯(てさかずき)を釈(お)かず、塗物問屋(ぬりものどいや)の 帳場は番頭に任せて顧みなかった。それを温和に過ぐる性質の安は諌(いさ)めようともしないので、五百は姉を訪うてこの様子を見る度にもどかしく思った が為方(しかた)がなかった。そういう時宗右衛門は五百を相手にして、『資治通鑑(しじつがん)』の中の人物を評しなどして、容易に帰ることを許さない 。五百が強いて帰ろうとすると、宗右衛門は安の生んだお敬(けい)お銓(せん)の二人の女(むすめ)に、おばさんを留めいという。二人の女は泣いて留め る。これはおばの帰った跡で家が寂しくなるのと、父が不機嫌になるのとを憂えて泣くのである。そこで五百はとうとう帰る機会を失うのである。五百がこの 有様を夫に話すと、抽斎は栄次郎の同窓で、妻の姉壻たる宗右衛門の身の上を気遣(きづか)って、わざわざ横山町へ諭(さと)しに往った。宗右衛門は大い に慙(は)じて、やや産業に意を用いるようになった。 その三十六  森枳園(きえん)は大磯で医業が流行するようになって、生活に余裕も出来たので、時々江戸へ出た。そしてその度ごとに一週間位は渋江の家に舎(やど) ることになっていた。枳園の形装(ぎょうそう)は決してかつて夜逃(よにげ)をした土地へ、忍びやかに立ち入る人とは見えなかった。保(たもつ)さんの 記憶している五百(いお)の話によるに、枳園はお召縮緬(めしちりめん)の衣(きもの)を着て、海老鞘(えびざや)の脇指(わきざし)を差し、歩くに褄 (つま)を取って、剥身絞(むきみしぼり)の褌(ふんどし)を見せていた。もし人がその七代目団十郎(だんじゅうろう)を贔屓(ひいき)にするのを知っ ていて、成田屋(なりたや)と声を掛けると、枳園は立ち止まって見えをしたそうである。そして当時の枳園はもう四十男であった。尤(もっと)もお召縮緬 を着たのは、強(あなが)ち奢侈(しゃし)と見るべきではあるまい。一反(たん)二分(ぶ)一朱か二分二朱であったというから、着ようと思えば着られた のであろうと、保さんがいう。  枳園の来て舎(やど)る頃に、抽斎の許(もと)にろくという女中がいた。ろくは五百が藤堂家にいた時から使ったもので、抽斎に嫁するに及んで、それを 連れて来たのである。枳園は来り舎るごとに、この女を追い廻していたが、とうとう或日逃げる女を捉えようとして大行燈(おおあんどう)を覆し、畳を油だ らけにした。五百は戯(たわむれ)に絶交の詩を作って枳園に贈った。当時ろくを揶揄(からか)うものは枳園のみでなく、豊芥子(ほうかいし)も訪ねて来 るごとにこれに戯れた。しかしろくは間もなく渋江氏の世話で人に嫁した。  枳園はまた当時纔(わずか)に二十歳を踰(こ)えた抽斎の長男恒善(つねよし)の、いわゆるおとなし過ぎるのを見て、度々(たびたび)吉原へ連れて往 (ゆ)こうとした。しかし恒善は聴(き)かなかった。枳園は意を五百に明かし、母の黙許というを以て恒善を動(うごか)そうとした。しかし五百は夫が吉 原に往くことを罪悪としているのを知っていて、恒善を放ち遣(や)ることが出来ない。そこで五百は幾たびか枳園と論争したそうである。  枳園が此(かく)の如くにしてしばしば江戸に出たのは、遊びに出たのではなかった。故主(こしゅう)の許(もと)に帰参しようとも思い、また才学を負 うた人であるから、首尾好(よ)くは幕府の直参(じきさん)にでもなろうと思って、機会を窺(うかが)っていたのである。そして渋江の家はその策源地で あった。  卒(にわか)に見れば、枳園が阿部家の古巣に帰るのは易(やす)く、新に幕府に登庸せられるのは難いようである。しかし実況にはこれに反するものがあ った。枳園は既に学術を以て名を世間に馳(は)せていた。就中(なかんずく)本草(ほんぞう)に精(くわ)しいということは人が皆認めていた。阿部伊勢 守正弘はこれを知らぬではない。しかしその才学のある枳園の軽佻(けいちょう)を忌む心が頗(すこぶ)る牢(かた)かった。多紀一家(たきいっけ)殊に ※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13) 庭(さいてい)はややこれと趣を殊にしていて、ほぼこの人の短を護(ご)して、その長を用いようとする抽斎の意に賛同していた。  枳園を帰参させようとして、最も尽力したのは伊沢榛軒(しんけん)、柏軒の兄弟であるが、抽斎もまた福山の公用人服部九十郎(はっとりくじゅうろう) 、勘定奉行小此木伴七(おこのぎはんしち)、大田(おおた)、宇川(うがわ)等に内談し、また小島成斎等をして説かしむること数度であった。しかしいつ も藩主の反感に阻(さまた)げられて事が行われなかった。そこで伊沢兄弟と抽斎とは先ず ※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13) 庭の同情に愬(うった)えて幕府の用を勤めさせ、それを規模にして阿部家を説き動(うごか)そうと決心した。そして終(つい)にこの手段を以て成功した 。  この期間の末(すえ)の一年、嘉永元年に至って枳園は躋寿館(せいじゅかん)の一事業たる『千金方(せんきんほう)』校刻(こうこく)を手伝うべき内 命を贏(か)ち得た。そして五月には阿部正弘が枳園の帰藩を許した。 その三十七  阿部家への帰参が ※(「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1-84-56) (かな)って、枳園が家族を纏(まと)めて江戸へ来ることになったので、抽斎はお玉が池の住宅の近所に貸家(かしいえ)のあったのを借りて、敷金を出し 家賃を払い、応急の器什(きじゅう)を買い集めてこれを迎えた。枳園だけは病家へ往(ゆ)かなくてはならぬ職業なので、衣類も一通(ひととおり)持って いたが、家族は身に着けたものしか持っていなかった。枳園の妻勝(かつ)の事を、五百(いお)があれでは素裸(すはだか)といっても好(い)いといった 位である。五百は髪飾から足袋(たび)下駄(げた)まで、一切揃(そろ)えて贈った。それでも当分のうちは、何かないものがあると、蔵から物を出すよう に、勝は五百の所へ貰(もら)いに来た。或日これで白縮緬の湯具(ゆぐ)を六本遣(や)ることになると、五百がいったことがある。五百がどの位親切に世 話をしたか、勝がどの位恬然(てんぜん)として世話をさせたかということが、これによって想像することが出来る。また枳園に幾多の悪(あく)性癖がある にかかわらず、抽斎がどの位、その才学を尊重していたかということも、これによって想像することが出来る。  枳園が医書彫刻取扱手伝(てつだい)という名義を以て、躋寿館に召し出されたのは、嘉永元年十月十六日である。  当時躋寿館で校刻に従事していたのは、『備急(びきゅう)千金要方』三十巻三十二冊の宋槧本(そうざんぼん)であった。これより先(さ)き多紀氏は同 じ孫思 ※(「二点しんにょう+貌」、第3水準1-92-58) (そんしばく)の『千金翼方(よくほう)』三十巻十二冊を校刻した。これは元(げん)の成宗(せいそう)の大徳(だいとく)十一年梅渓(ばいけい)書院 の刊本を以て底本としたものである。尋(つ)いで手に入(い)ったのが『千金要方』の宋版である。これは毎巻金沢文庫(かなざわぶんこ)の印があって、 北条顕時(ほうじょうあきとき)の旧蔵本である。米沢(よねざわ)の城主上杉(うえすぎ)弾正大弼(だんじょうのだいひつ)斉憲(なりのり)がこれを幕 府に献じた。細(こまか)に検すれば南宋『乾道淳煕(けんどうじゅんき)』中の補刻数葉が交っているが、大体は北宋の旧面目(きゅうめんぼく)を存して いる。多紀氏はこれをも私費を以て刻せようとした。然るに幕府はこれを聞いて、官刻を命ずることになった。そこで影写校勘の任に当らしむるために、三人 の手伝が出来た。阿部伊勢守正弘の家来伊沢磐安(いさわばんあん)、黒田(くろだ)豊前守(ぶぜんのかみ)直静(なおちか)の家来堀川舟庵(ほりかわし ゅうあん)、それから多紀楽真院(らくしんいん)門人森養竹(もりようちく)である。磐安は即ち柏軒で、舟庵は『経籍訪古志』の跋(ばつ)に見えている 堀川済(せい)である。舟庵の主(しゅ)黒田直静は上総国久留利(くるり)の城主で、上屋敷は下谷広小路(したやひろこうじ)にあった。  任命は若年寄(わかどしより)大岡主膳正(しゅぜんのかみ)忠固(ただかた)の差図を以て、館主多紀安良(あんりょう)が申し渡し、世話役小島春庵( しゅんあん)、世話役手伝勝本理庵(りあん)、熊谷(くまがい)弁庵(べんあん)が列座した。安良は即ち暁湖(ぎょうこ)である。  何故(なにゆえ)に枳園が ※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13) 庭(さいてい)の門人として召し出されたかは知らぬが、阿部家への帰参は当時内約のみであって、まだ表向(おもてむき)になっていなかったのでもあろう か。枳園は四十二歳になっていた。  この年八月二十九日に、真志屋(ましや)五郎作(ごろさく)が八十歳で歿した。抽斎はこの時三世劇神仙(げきしんせん)になったわけである。  嘉永二年三月七日に、抽斎は召されて登城(とじょう)した。躑躅(つつじ)の間(ま)において、老中(ろうじゅう)牧野備前守忠雅(ただまさ)の口達 (こうたつ)があった。年来学業出精に付(つき)、ついでの節目見(めみえ)仰附けらるというのである。この月十五日に謁見は済んだ。始て「武鑑」に載 せられる身分になったのである。  わたくしの蔵している嘉永二年の「武鑑」には、目見医師の部に渋江道純の名が載せてあって、屋敷の所が彫刻せずにある。三年の「武鑑」にはそこに紺屋 町一丁目と刻してある。これはお玉が池の家が手狭(てぜま)なために、五百の里方山内の家を渋江邸として届け出(い)でたものである。 その三十八  抽斎の将軍家慶(いえよし)に謁見したのは、世の異数となす所であった。素(もと)より躋寿館に勤仕する医者には、当時奥医師になっていた建部(たけ べ)内匠頭(たくみのかみ)政醇(まさあつ)家来辻元 ※(「山/(鬆−髟)」、第3水準1-47-81) 庵(つじもとしゅうあん)の如く目見(めみえ)の栄に浴する前例はあったが、抽斎に先(さきだ)って伊沢榛軒(しんけん)が目見をした時には、藩主阿部 正弘が老中(ろうじゅう)になっているので、薦達(せんたつ)の早きを致したのだとさえ言われた。抽斎と同日に目見をした人には、五年前(ぜん)に共に 講師に任ぜられた町医坂上玄丈(さかがみげんじょう)があった。しかし抽斎は玄丈よりも広く世に知られていたので、人がその殊遇(しゅぐう)を美(ほ) めて三年前に目見をした松浦(まつうら)壱岐守(いきのかみ)慮(はかる)の臣朝川善庵(あさかわぜんあん)と並称した。善庵は抽斎の謁見に先(さきだ )つこと一月(いちげつ)、嘉永二年二月七日に、六十九歳で歿したが、抽斎とも親しく交(まじわ)って、渋江の家の発会(ほっかい)には必ず来る老人株 の一人であった。善庵、名は鼎(てい)、字は五鼎、実は江戸の儒家片山兼山(かたやまけんざん)の子である。兼山の歿した後(のち)、妻(つま)原氏( うじ)が江戸の町医朝川黙翁(もくおう)に再嫁した。善庵の姉寿美(すみ)と兄道昌(どうしょう)とは当時の連子(つれこ)で、善庵はまだ母の胎内にい た。黙翁は老いて病(やむ)に至って、福山氏に嫁した寿美を以て、善庵に実(じつ)を告げさせ、本姓に復することを勧めた。しかし善庵は黙翁の撫育(ぶ いく)の恩に感じて肯(うけが)わず、黙翁もまた強いて言わなかった。善庵は次男格(かく)をして片山氏を嗣(つ)がしめたが、格は早世した。長男正準 (せいじゅん)は出(い)でて相田(あいだ)氏を冒(おか)したので、善庵の跡は次女の壻横山氏※(しん)[#「塵」の「土」に代えて「辰」、U+9E 8E、117-6]が襲(つ)いだ。  弘前藩では必ずしも士人を幕府に出すことを喜ばなかった。抽斎が目見をした時も、同僚にして来り賀するものは一人(いちにん)もなかった。しかし当時 世間一般には目見以上ということが、頗(すこぶ)る重きをなしていたのである。伊沢榛軒は少しく抽斎に先んじて目見をしたが、阿部家のこれに対する処置 には榛軒自己をして喫驚(きっきょう)せしむるものがあった。榛軒は目見の日に本郷丸山の中屋敷から登城した。さて目見を畢(おわ)って帰って、常の如 く通用門を入(い)らんとすると、門番が忽(たちま)ち本門の側(かたわら)に下座した。榛軒は誰(たれ)を迎えるのかと疑って、四辺(しへん)を顧( かえりみ)たが、別に人影は見えなかった。そこで始て自分に礼を行うのだと知った。次いで常の如く中の口から進もうとすると、玄関の左右に詰衆(つめし ゅう)が平伏しているのに気が附いた。榛軒はまた驚いた。間もなく阿部家では、榛軒を大目附格に進ましめた。  目見は此(かく)の如く世の人に重視せられる習(ならい)であったから、この栄を荷(にな)うものは多くの費用を弁ぜなくてはならなかった。津軽家で は一カ年間に返済すべしという条件を附して、金三両を貸したが、抽斎は主家の好意を喜びつつも、殆(ほとん)どこれを何の費(ついえ)に充(あ)てよう かと思い惑った。  目見をしたものは、先ず盛宴を開くのが例になっていた。そしてこれに招くべき賓客(ひんかく)の数(すう)もほぼ定まっていた。然るに抽斎の居宅には 多く客(かく)を延(ひ)くべき広間がないので、新築しなくてはならなかった。五百(いお)の兄忠兵衛が来て、三十両の見積(みつもり)を以て建築に着 手した。抽斎は銭穀(せんこく)の事に疎(うと)いことを自知していたので、商人たる忠兵衛の言うがままに、これに経営を一任した。しかし忠兵衛は大家 (たいけ)の若檀那(わかだんな)上(あが)りで、金を擲(なげう)つことにこそ長じていたが、 ※(「革+斤」、第3水準1-93-77) (おし)んでこれを使うことを解せなかった。工事いまだ半(なかば)ならざるに、費す所は既に百数十両に及んだ。  平生(へいぜい)金銭に無頓着(むとんじゃく)であった抽斎も、これには頗る当惑して、鋸(のこぎり)の音槌(つち)の響のする中で、顔色(がんしょ く)は次第に蒼(あお)くなるばかりであった。五百は初(はじめ)から兄の指図を危(あやぶ)みつつ見ていたが、この時夫に向っていった。 「わたくしがこう申すと、ひどく出過ぎた口をきくようではございますが、御(ご)一代に幾度(いくたび)というおめでたい事のある中で、金銭の事位で御 心配なさるのを、黙って見ていることは出来ませぬ。どうぞ費用の事はわたくしにお任せなすって下さいまし。」  抽斎は目を ※(「目+爭」、第3水準1-88-85) (みは)った。「お前そんな事を言うが、何百両という金は容易に調達(ちょうだつ)せられるものではない。お前は何か当(あて)があってそういうのか。 」  五百はにっこり笑った。「はい。幾らわたくしが痴(おろか)でも、当なしには申しませぬ。」 その三十九  五百(いお)は女中に書状を持たせて、ほど近い質屋へ遣(や)った。即ち市野迷庵の跡の家である。彼(か)の今に至るまで石に彫(え)られずにある松 崎慊堂(こうどう)の文にいう如く、迷庵は柳原の店で亡くなった。その跡を襲(つ)いだのは松太郎光寿(こうじゅ)で、それが三右衛門(さんえもん)の 称をも継承した。迷庵の弟光忠(こうちゅう)は別に外神田(そとかんだ)に店を出した。これより後(のち)内神田の市野屋と、外神田の市野屋とが対立し ていて、彼は世(よよ)三右衛門を称し、此(これ)は世(よよ)市三郎を称した。五百が書状を遣った市野屋は当時弁慶橋にあって、早くも光寿の子光徳( こうとく)の代になっていた。光寿は迷庵の歿後僅(わずか)に五年にして、天保三年に光徳を家督させた。光徳は小字(おさなな)を徳治郎(とくじろう) といったが、この時更(あらた)めて三右衛門を名告(なの)った。外神田の店はこの頃まだ迷庵の姪(てつ)光長(こうちょう)の代であった。  ほどなく光徳の店の手代(てだい)が来た。五百(いお)は箪笥(たんす)長持(ながもち)から二百数十枚の衣類寝具を出して見せて、金を借らんことを 求めた。手代は一枚一両の平均を以て貸そうといった。しかし五百は抗争した末に、遂に三百両を借(か)ることが出来た。  三百両は建築の費(ついえ)を弁ずるには余(あまり)ある金であった。しかし目見(めみえ)に伴う飲 ※(「酉+燕」、第3水準1-92-91) 贈遺(いんえんぞうい)一切の費は莫大(ばくだい)であったので、五百は終(つい)に豊芥子(ほうかいし)に託して、主(おも)なる首飾(しゅしょく) 類を売ってこれに充(あ)てた。その状当(まさ)に行うべき所を行う如くであったので、抽斎はとかくの意見をその間に挟(さしはさ)むことを得なかった 。しかし中心には深くこれを徳とした。  抽斎の目見をした年の閏(うるう)四月十五日に、長男恒善(つねよし)は二十四歳で始て勤仕した。八月二十八日に五女癸巳(きし)が生れた。当時の家 族は主人四十五歳、妻(さい)五百(いお)三十四歳、長男恒善二十四歳、次男優善(やすよし)十五歳、四女陸(くが)三歳、五女癸巳一歳の六人であった 。長女純(いと)は馬場氏に嫁し、三女棠(とう)は山内氏を襲(つ)ぎ、次女よし、三男八三郎、四男幻香(げんこう)は亡くなっていたのである。  嘉永三年には、抽斎が三月十一日に幕府から十五人扶持を受くることとなった。藩禄等は凡(すべ)て旧に依(よ)るのである。八月晦(かい)に、馬場氏 に嫁していた純が二十歳で歿した。この年抽斎は四十六歳になった。  五百の仮親比良野文蔵の歿したのも、同じ年の四月二十四日である。次いで嗣子貞固(さだかた)が目附から留守居に進んだ。津軽家の当時の職制より見れ ば、いわゆる独礼(どくれい)の班(はん)に加わったのである。独礼とは式日(しきじつ)に藩主に謁するに当って、単独に進むものをいう。これより下( しも)は二人立(ににんだち)、三人立等となり、遂に馬廻(うままわり)以下の一統礼に至るのである。  当時江戸に集っていた列藩の留守居は、宛然(えんぜん)たるコオル・ヂプロマチックを形(かたちづく)っていて、その生活は頗(すこぶ)る特色のある ものであった。そして貞固の如きは、その光明面を体現していた人物といっても好かろう。  衣類を黒紋附(もんつき)に限っていた糸鬢奴(いとびんやっこ)の貞固は、素(もと)より読書の人ではなかった。しかし書巻を尊崇(そんそう)して、 提挈(ていけつ)をその中(うち)に求めていたことを思えば、留守居中稀有(けう)の人物であったのを知ることが出来る。貞固は留守居に任ぜられた日に 、家に帰るとすぐに、折簡(せっかん)して抽斎を請(しょう)じた。そして容(かたち)を改めていった。 「わたくしは今日(こんにち)父の跡を襲いで、留守居役を仰付(おおせつ)けられました。今までとは違った心掛(こころがけ)がなくてはならぬ役目と存 ぜられます。実はそれに用立(ようだ)つお講釈が承わりたさに、御足労を願いました。あの四方に使(つかい)して君命を辱(はずかし)めずということが ございましたね。あれを一つお講じ下さいますまいか。」 「先ず何よりもおよろこびを言わんではなるまい。さて講釈の事だが、これはまた至極のお思附(おもいつき)だ。委細承知しました」と抽斎は快(こころよ )く諾した。 その四十  抽斎は有合せの道春点(どうしゅんてん)の『論語』を取り出させて、巻(まきの)七を開いた。そして「子貢問曰(しこうといていわく)、何如斯可謂之 土矣(いかなるをかこれこれをしというべき)」という所から講じ始めた。固(もと)より朱註をば顧みない。都(すべ)て古義に従って縦説横説した。抽斎 は師迷庵の校刻した六朝本(りくちょうぼん)の如きは、何時(なんどき)でも毎葉(まいよう)毎行(まいこう)の文字の配置に至るまで、空(くう)に憑 (よ)って思い浮べることが出来たのである。  貞固(さだかた)は謹んで聴(き)いていた。そして抽斎が「子曰(しのたまわく)、噫斗 ※(「竹かんむり/悄のつくり」、第3水準1-89-66) 之人(ああとしょうのひと)、何足算也(なんぞかぞうるにたらん)」に説き到(いた)ったとき、貞固の目はかがやいた。  講じ畢(おわ)った後(のち)、貞固は暫(しばら)く瞑目(めいもく)沈思していたが、徐(しずか)に起(た)って仏壇の前に往って、祖先の位牌の前 にぬかずいた。そしてはっきりした声でいった。「わたくしは今日(こんにち)から一命を賭(と)して職務のために尽します。」貞固の目には涙が湛(たた )えられていた。  抽斎はこの日に比良野の家から帰って、五百(いお)に「比良野は実に立派な侍(さむらい)だ」といったそうである。その声は震(ふるい)を帯びていた と、後に五百が話した。  留守居になってからの貞固は、毎朝(まいちょう)日の出(いず)ると共に起きた。そして先ず厩(うまや)を見廻った。そこには愛馬浜風(はまかぜ)が 繋(つな)いであった。友達がなぜそんなに馬を気に掛けるかというと、馬は生死(しょうし)を共にするものだからと、貞固は答えた。厩から帰ると、盥嗽 (かんそう)して仏壇の前に坐した。そして木魚(もくぎょ)を敲(たた)いて誦経(じゅきょう)した。この間は家人を戒めて何の用事をも取り次がしめな かった。来客もそのまま待たせられることになっていた。誦経が畢(おわ)って、髪を結わせた。それから朝餉(あさげ)の饌(ぜん)に向った。饌には必ず 酒を設けさせた。朝といえども省かない。 ※(「肴+殳」、第4水準2-78-4) (さかな)には選嫌(えりぎらい)をしなかったが、のだ平(へい)の蒲鉾(かまぼこ)を嗜(たし)んで、闕(か)かさずに出させた。これは贅沢品(ぜい たくひん)で、鰻(うなぎ)の丼(どんぶり)が二百文、天麩羅蕎麦(てんぷらそば)が三十二文、盛掛(もりかけ)が十六文するとき、一板(ひといた)二 分二朱であった。  朝餉(あさげ)の畢(おわ)る比(ころ)には、藩邸で巳(み)の刻の大鼓(たいこ)が鳴る。名高い津軽屋敷の櫓(やぐら)大鼓である。かつて江戸町奉 行がこれを撃つことを禁ぜようとしたが、津軽家が聴(きか)ずに、とうとう上屋敷を隅田川(すみだがわ)の東に徙(うつ)されたのだと、巷説(こうせつ )に言い伝えられている。津軽家の上屋敷が神田小川町(おがわまち)から本所に徙されたのは、元禄元年で、信政の時代である。貞固は巳の刻の大鼓を聞く と、津軽家の留守居役所に出勤して事務を処理する。次いで登城して諸家(しょけ)の留守居に会う。従者は自ら豢(やしな)っている若党草履取(ぞうりと り)の外に、主家(しゅうけ)から附けられるのである。  留守居には集会日というものがある。その日には城から会場へ往(ゆ)く。八百善(やおぜん)、平清(ひらせい)、川長(かわちょう)、青柳(あおやぎ )等の料理屋である。また吉原に会することもある。集会には煩瑣(はんさ)な作法があった。これを礼儀といわんは美に過ぎよう。譬(たと)えば筵席(え んせき)の觴政(しょうせい)の如く、また西洋学生団のコンマンの如しともいうべきであろうか。しかし集会に列するものは、これがために命の取遣(とり やり)をもしなくてはならなかった。就中(なかんずく)厳しく守られていたのは新参(しんざん)故参(こさん)の序次で、故参は新参のために座より起つ ことなく、新参は必ず故参の前に進んで挨拶(あいさつ)しなくてはならなかった。  津軽家では留守居の年俸を三百石とし、別に一カ月の交際費十八両を給した。比良野は百石取ゆえ、これに二百石を補足せられたのである。五百(いお)の 覚書(おぼえがき)に拠(よ)るに、三百石十人扶持の渋江の月割が五両一分、二百石八人扶持の矢島の月割が三両三分であった。矢島とは後に抽斎の二子優 善(やすよし)が養子に往った家の名である。これに由(よ)って観(み)れば、貞固の月収は五両一分に十八両を加えた二十三両一分と見て大いなる差違は なかろう。然るに貞固は少くも月に交際費百両を要した。しかもそれは平常の費(ついえ)である。吉原に火災があると、貞固は妓楼(ぎろう)佐野槌(さの づち)へ、百両に熨斗(のし)を附けて持たせて遣らなくてはならなかった。また相方黛(まゆずみ)のむしんをも、折々は聴いて遣らなくてはならなかった 。或る年の暮に、貞固が五百に私語したことがある。「姉(ね)えさん、察して下さい。正月が来るのに、わたしは実は褌(ふんどし)一本買う銭もない。」 その四十一  均(ひと)しくこれ津軽家の藩士で、柳島附の目附から、少しく貞固(さだかた)に遅れて留守居に転じたものがある。平井氏(ひらいうじ)、名は俊章( しゅんしょう)、字(あざな)は伯民(はくみん)、小字(おさなな)は清太郎(せいたろう)、通称は修理(しゅり)で、東堂(とうどう)と号した。文化 十一年生(うまれ)で貞固よりは二つの年下である。平井の家は世禄(せいろく)二百石八人扶持なので、留守居になってから百石の補足を受けた。  貞固は好丈夫(こうじょうふ)で威貌(いぼう)があった。東堂もまた風 ※(「蚌のつくり」、第3水準1-14-6) (ふうぼう)人に優れて、しかも温容親(したし)むべきものがあった。そこで世の人は津軽家の留守居は双璧(そうへき)だと称したそうである。  当時の留守居役所には、この二人(ふたり)の下に留守居下役(したやく)杉浦多吉(すぎうらたきち)、留守居物書(ものかき)藤田徳太郎(ふじたとく たろう)などがいた。杉浦は後喜左衛門(きざえもん)といった人で、事務に諳錬(あんれん)した六十余の老人であった。藤田は維新後に潜(ひそむ)と称 した人で、当時まだ青年であった。  或日東堂が役所で公用の書状を発せようとして、藤田に稿を属(しょく)せしめた。藤田は案を具(ぐ)して呈した。 「藤田。まずい文章だな。それにこの書様(かきざま)はどうだ。もう一遍書き直して見い。」東堂の顔は頗(すこぶ)る不機嫌に見えた。  原来(がんらい)平井氏は善書(ぜんしょ)の家である。祖父峩斎(がさい)はかつて筆札(ひっさつ)を高頤斎(こういさい)に受けて、その書が一時に 行われたこともある。峩斎、通称は仙右衛門(せんえもん)、その子を仙蔵(せんぞう)という。後(のち)父の称を襲(つ)ぐ。この仙蔵の子が東堂である 。東堂も沢田東里(さわだとうり)の門人で書名があり、かつ詩文の才をさえ有していた。それに藤田は文においても書においても、専門の素養がない。稿を 更(あらた)めて再び呈したが、それが東堂を満足せしめるはずがない。 「どうもまずいな。こんな物しか出来ないのかい。一体これでは御用が勤まらないといっても好(い)い。」こういって案を藤田に還(かえ)した。  藤田は股栗(こりつ)した。一身の恥辱、家族の悲歎が、頭(こうべ)を低(た)れている青年の想像に浮かんで、目には涙が涌(わ)いて来た。  この時貞固が役所に来た。そして東堂に問うて事の顛末(てんまつ)を知った。  貞固は藤田の手に持っている案を取って読んだ。 「うん。一通(ひととおり)わからぬこともないが、これでは平井の気には入るまい。足下(そっか)は気が利(き)かないのだ。」  こういって置いて、貞固は殆(ほとん)ど同じような文句を巻紙(まきがみ)に書いた。そしてそれを東堂の手にわたした。 「どうだ。これで好(い)いかな。」  東堂は毫(ごう)も敬服しなかった。しかし故参の文案に批評を加えることは出来ないので、色を和(やわら)げていった。 「いや、結構です。どうもお手を煩わして済みません。」  貞固は案を東堂の手から取って、藤田にわたしていった。 「さあ。これを清書しなさい。文案はこれからはこんな工合に遣(や)るが好い。」  藤田は「はい」といって案を受けて退いたが、心中には貞固に対して再造の恩を感じたそうである。想(おも)うに東堂は外(ほか)柔にして内(うち)険 、貞固は外(ほか)猛にして内(うち)寛であったと見える。  わたくしは前に貞固が要職の体面(たいめん)をいたわるがために窮乏して、古褌(ふるふんどし)を着けて年を迎えたことを記(しる)した。この窮乏は 東堂といえどもこれを免るることを得なかったらしい。ここに中井敬所(なかいけいしょ)が大槻如電(おおつきにょでん)さんに語ったという一の事実があ って、これが証に充(み)つるに足るのである。  この事は前(さき)の日わたくしが池田京水(けいすい)の墓と年齢とを文彦さんに問いに遣(や)った時、如電さんがかつて手記して置いたものを抄写し て、文彦さんに送り、文彦さんがそれをわたくしに示した。わたくしは池田氏の事を問うたのに、何故(なにゆえ)に如電さんは平井氏の事を以て答えたか。 それには理由がある。平井東堂の置いた質(しち)が流れて、それを買ったのが、池田京水の子瑞長(ずいちょう)であったからである。 その四十二  東堂が質に入れたのは、銅仏一躯(いっく)と六方印(ろくほういん)一顆(いっか)とであった。銅仏は印度(インド)で鋳造した薬師如来(やくしにょ らい)で、戴曼公(たいまんこう)の遺品である。六方印は六面に彫刻した遊印(ゆういん)である。  質流(しちながれ)になった時、この仏像を池田瑞長が買った。然(しか)るに東堂は後(のち)金が出来たので、瑞長に交渉して、価(あたい)を倍して 購(あがな)い戻そうとした。瑞長は応ぜなかった。それは平井氏も、池田氏も、戴曼公の遺品を愛惜(あいじゃく)する縁故があるからである。  戴曼公は書法を高天 ※(「さんずい+猗」、第3水準1-87-6) (こうてんい)に授けた。天 ※(「さんずい+猗」、第3水準1-87-6) 、名は玄岱(げんたい)、初(はじめ)の名は立泰(りゅうたい)、字(あざな)は子新(ししん)、一の字(あざな)は斗胆(とたん)、通称は深見新左衛 門(ふかみしんざえもん)で、帰化明人(みんひと)の裔(えい)である。祖父高寿覚(こうじゅかく)は長崎に来て終った。父大誦(たいしょう)は訳官に なって深見氏を称した。深見は渤海(ぼっかい)である。高氏は渤海より出(い)でたからこの氏を称したのである。天 ※(「さんずい+猗」、第3水準1-87-6) は書を以て鳴ったもので、浅草寺(せんそうじ)の施無畏(せむい)の ※(「匸<編のつくり」の「戸」に代えて「戸の旧字」、第4水準2-3-48) 額(へんがく)の如きは、人の皆知る所である。享保七年八月八日に、七十四歳で歿した。その曼公に書を学んだのは、十余歳の時であっただろう。天 ※(「さんずい+猗」、第3水準1-87-6) の子が頤斎(いさい)である。頤斎の弟子(ていし)が峩斎(がさい)である。峩斎の孫が東堂である。これが平井氏の戴師持念仏に恋々たる所以(ゆえん) である。  戴曼公はまた痘科を池田嵩山(すうざん)に授けた。嵩山の曾孫が錦橋(きんきょう)、錦橋の姪(てつ)が京水、京水の子が瑞長である。これが池田氏の 偶(たまたま)獲た曼公の遺品を愛重(あいちょう)して措(お)かなかった所以である。  この薬師如来は明治の代(よ)となってから守田宝丹(もりたほうたん)が護持していたそうである。また六方印は中井敬所の有に帰していたそうである。  貞固と東堂とは、共に留守居の物頭(ものがしら)を兼ねていた。物頭は詳しくは初手(しょて)足軽頭(あしがるがしら)といって、藩の諸兵の首領であ る。留守居も物頭も独礼(どくれい)の格式である。平時は中下(なかしも)屋敷附近に火災の起(おこ)るごとに、火事装束(しょうぞく)を着けて馬に騎 (の)り、足軽数十人を随(したが)えて臨検した。貞固はその帰途には、殆ど必ず渋江の家に立ち寄った。実に威風堂々たるものであったそうである。  貞固も東堂も、当時諸藩の留守居中有数の人物であったらしい。帆足万里(ほあしばんり)はかつて留守居を罵(ののし)って、国財を靡(び)し私腹を肥 やすものとした。この職におるものは、あるいは多く私財を蓄えたかも知れない。しかし保(たもつ)さんは少時帆足の文を読むごとに心平(たいら)かなる ことを得なかったという。それは貞固の人(ひと)と為(な)りを愛していたからである。  嘉永四年には、二月四日に抽斎の三女で山内氏を冒していた棠子(とうこ)が、痘を病んで死んだ。尋(つ)いで十五日に、五女癸巳(きし)が感染して死 んだ。彼は七歳、此(これ)は三歳である。重症で曼公の遺法も功を奏せなかったと見える。三月二十八日に、長子恒善(つねよし)が二十六歳で、柳島に隠 居していた信順(のぶゆき)の近習(きんじゅ)にせられた。六月十二日に、二子優善(やすよし)が十七歳で、二百石八人扶持の矢島玄碩(やじまげんせき )の末期養子(まつごようし)になった。この年渋江氏は本所台所町(だいどころちょう)に移って、神田の家を別邸とした。抽斎が四十七歳、五百が三十六 歳の時である。  優善は渋江一族の例を破って、少(わこ)うして烟草(タバコ)を喫(の)み、好んで紛華奢靡(ふんかしゃび)の地に足を容(い)れ、とかく市井のいき な事、しゃれた事に傾(かたぶ)きやすく、当時早く既に前途のために憂うべきものがあった。  本所で渋江氏のいた台所町は今の小泉町(こいずみちょう)で、屋敷は当時の切絵図(きりえず)に載せてある。 その四十三  嘉永五年には四月二十九日に、抽斎の長子恒善が二十七歳で、二の丸火の番六十俵田口儀三郎(たぐちぎさぶろう)の養女糸(いと)を娶(めと)った。五 月十八日に、恒善に勤料(つとめりょう)三人扶持を給せられた。抽斎が四十八歳、五百が三十七歳の時である。  伊沢氏ではこの年十一月十七日に、榛軒が四十九歳で歿した。榛軒は抽斎より一つの年上で、二人の交(まじわり)は頗(すこぶ)る親しかった。楷書(か いしょ)に片仮名を交(ま)ぜた榛軒の尺牘(せきどく)には、宛名(あてな)が抽斎賢弟としてあった。しかし抽斎は小島成斎におけるが如く心を傾けては いなかったらしい。  榛軒は本郷丸山の阿部家の中屋敷に住んでいた。父蘭軒の時からの居宅で、頗る広大な構(かまえ)であった。庭には吉野桜(よしのざくら)八株(しゅ) を栽(う)え、花の頃には親戚(しんせき)知友を招いてこれを賞した。その日には榛軒の妻(さい)飯田氏しほと女(むすめ)かえとが許多(あまた)の女 子(おなご)を役(えき)して、客に田楽(でんがく)豆腐などを供せしめた。パアル・アンチシパションに園遊会を催したのである。歳(とし)の初(はじ め)の発会式(ほっかいしき)も、他家に較(くら)ぶれば華やかであった。しほの母は素(もと)京都諏訪(すわ)神社の禰宜(ねぎ)飯田氏の女(じょ) で、典薬頭(てんやくのかみ)某の家に仕えているうちに、その嗣子と私(わたくし)してしほを生んだ。しほは落魄(らくたく)して江戸に来て、木挽町( こびきちょう)の芸者になり、些(ちと)の財を得て業を罷(や)め、新堀(しんぼり)に住んでいたそうである。榛軒が娶ったのはこの時の事である。しほ は識(し)らぬ父の記念(かたみ)の印籠(いんろう)一つを、母から承(う)け伝えて持っていた。榛軒がしほに生ませた女(むすめ)かえは、一時池田京 水の次男全安(ぜんあん)を迎えて夫としていたが、全安が広く内科を究めずに、痘科と唖(あ)科とに偏するというを以て、榛軒が全安を京水の許(もと) に還したそうである。  榛軒は辺幅(へんぷく)を脩(おさ)めなかった。渋江の家を訪(と)うに、踊りつつ玄関から入(い)って、居間の戸の外から声を掛けた。自ら鰻(うな ぎ)を誂(あつら)えて置いて来て、粥(かゆ)を所望(しょもう)することもあった。そして抽斎に、「どうぞ己(おれ)に構ってくれるな、己には御新造 (ごしんぞう)が合口(あいくち)だ」といって、書斎に退かしめ、五百と語りつつ飲食(のみくい)するを例としたそうである。  榛軒が歿してから一月(いちげつ)の後(のち)、十二月十六日に弟柏軒が躋寿館(せいじゅかん)の講師にせられた。森枳園(きえん)らと共に『千金方 』校刻の命を受けてから四年の後で、柏軒は四十三歳になっていた。  この年に五百の姉壻長尾宗右衛門が商業の革新を謀(はか)って、横山町(よこやまちょう)の家を漆器店(しっきみせ)のみとし、別に本町(ほんちょう )二丁目に居宅を置くことにした。この計画のために、抽斎は二階の四室を明けて、宗右衛門夫妻、敬(けい)、銓(せん)の二女、女中一人(いちにん)、 丁稚(でっち)一人を棲(す)まわせた。  嘉永六年正月十九日に、抽斎の六女水木(みき)が生れた。家族は主人夫婦、恒善夫婦、陸(くが)、水木の六人で、優善(やすよし)は矢島氏の主人にな っていた。抽斎四十九歳、五百(いお)三十八歳の時である。  この年二月二十六日に、堀川舟庵(しゅうあん)が躋寿館の講師にせられて、『千金方』校刻の事に任じた三人の中(うち)森枳園が一人残された。  安政元年はやや事多き年であった。二月十四日に五男専六(せんろく)が生れた。後に脩(おさむ)と名告(なの)った人である。三月十日に長子恒善が病 んで歿した。抽斎は子婦(しふ)糸の父田口儀三郎の窮を憫(あわれ)んで、百両余の金を餽(おく)り、糸をば有馬宗智(ありまそうち)というものに再嫁 せしめた。十二月二十六日に、抽斎は躋寿館の講師たる故を以て、年(とし)に五人扶持を給せられることになった。今の勤務加俸の如きものである。二十九 日に更に躋寿館医書彫刻手伝(てつだい)を仰附けられた。今度校刻すべき書は、円融(えんゆう)天皇の天元(てんげん)五年に、丹波康頼(たんばやすよ り)が撰んだという『医心方(いしんほう)』である。  保さんの所蔵の「抽斎手記」に、『医心方』の出現という語がある。昔から厳(おごそか)に秘せられていた書が、忽(たちま)ち目前に出て来た状(さま )が、この語で好く表(あらわ)されている。「秘玉突然開 ※(「木+續のつくり」、第4水準2-15-72) 出(ひぎょくとつぜんはこをひらきていづ)。瑩光明徹点瑕無(えいこうめいてつてんかなし)。金龍山畔波濤起(きんりょうさんはんはとうおこり)。龍口 初探是此珠(りょうこうはじめてさぐりしはこれこのたま)。」これは抽斎の亡妻の兄岡西玄亭が、当時喜(よろこび)を記した詩である。龍口(りょうこう )といったのは、『医心方』が若年寄(わかどしより)遠藤但馬守胤統(たねのり)の手から躋寿館に交付せられたからであろう。遠藤の上屋敷は辰口(たつ のくち)の北角(きたかど)であった。 その四十四  日本の古医書は『続群書類従(ぞくぐんしょるいじゅう)』に収めてある和気広世(わけひろよ)の『薬経太素(やくけいたいそ)』、丹波康頼(たんばの やすより)の『康頼本草(やすよりほんぞう)』、釈蓮基(しゃくれんき)の『長生(ちょうせい)療養方』、次に多紀家で校刻した深根輔仁(ふかねすけひ と)の『本草和名(ほんぞうわみょう)』、丹波雅忠(まさただ)の『医略抄』、宝永中に印行(いんこう)せられた具平親王(ともひらしんのう)の『弘決 外典抄(ぐけつげてんしょう)』の数種を存するに過ぎない。具平親王の書は本(もと)字類に属して、此(ここ)に算すべきではないが、医事に関する記載 が多いから列記した。これに反して、彼(か)の出雲広貞(いずもひろさだ)らの上(たてまつ)った『大同類聚方(だいどうるいじゅほう)』の如きは、散 佚(さんいつ)して世に伝わらない。  それゆえ天元五年に成って、永観(えいかん)二年に上(たてまつ)られた『医心方』が、殆(ほとん)ど九百年の後の世に出(い)でたのを見て、学者が 血を涌(わ)き立たせたのも怪(あやし)むに足らない。 『医心方』は禁闕(きんけつ)の秘本であった。それを正親町(おおぎまち)天皇が出(いだ)して典薬頭(てんやくのかみ)半井(なからい)通仙院(つう せんいん)瑞策(ずいさく)に賜わった。それからは世(よよ)半井氏が護持していた。徳川幕府では、寛政の初(はじめ)に、仁和寺(にんなじ)文庫本を 謄写せしめて、これを躋寿館に蔵せしめたが、この本は脱簡が極(きわめ)て多かった。そこで半井氏の本を獲ようとしてしばしば命を伝えたらしい。然るに 当時半井大和守成美(やまとのかみせいび)は献ずることを肯(がえん)ぜず、その子修理大夫(しゅりのだいぶ)清雅(せいが)もまた献ぜず、遂(つい) に清雅の子出雲守広明(ひろあき)に至った。  半井氏が初め何(なに)の辞(ことば)を以て命を拒んだかは、これを詳(つまびらか)にすることが出来ない。しかし後には天明八年の火事に、京都にお いて焼失したといった。天明八年の火事とは、正月晦(みそか)に洛東団栗辻(らくとうどんぐりつじ)から起って、全都を灰燼(かいじん)に化せしめたも のをいうのである。幕府はこの答に満足せずに、似寄(により)の品でも好(よ)いから出せと誅求(ちゅうきゅう)した。恐(おそら)くは情を知って強要 したのであろう。  半井広明はやむことをえず、こういう口上(こうじょう)を以て『医心方』を出した。外題(げだい)は同じであるが、筆者区々(まちまち)になっていて 、誤脱多く、甚(はなは)だ疑わしき ※(「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1-94-76) 巻(そかん)である。とても御用には立つまいが、所望に任せて内覧に供するというのである。書籍は広明の手から六郷(ろくごう)筑前守政殷(まさただ) の手にわたって、政殷はこれを老中阿部伊勢守正弘の役宅に持って往った。正弘は公用人(こうようにん)渡辺三太平(わたなべさんたへい)を以てこれを幕 府に呈した。十月十三日の事である。  越えて十月十五日に、『医心方』は若年寄遠藤但馬守胤統(たねのり)を以て躋寿館に交付せられた。この書が御用に立つものならば、書写彫刻を命ぜられ るであろう。もし彫刻を命ぜられることになったら、費用は金蔵(かねぐら)から渡されるであろう。書籍は篤(とく)と取調べ、かつ刻本売下(うりさげ) 代金を以て費用を返納すべき積年賦(せきねんぷ)をも取調べるようにということであった。  半井(なからい)広明の呈した本は三十巻三十一冊で、巻(けんの)二十五に上下がある。細(こまか)に検するに期待に負(そむ)かぬ善本であった。素 (もと)『医心方』は巣元方(そうげんぼう)の『病源候論(びょうげんこうろん)』を経(けい)とし、隋唐(ずいとう)の方書百余家を緯(い)として作 ったもので、その引用する所にして、支那において佚亡(いつぼう)したものが少くない。躋寿館の人々が驚き喜んだのもことわりである。  幕府は館員の進言に従って、直ちに校刻を命じた。そしてこれと同時に、総裁二人(ににん)、校正十三人、監理四人、写生十六人が任命せられた。総裁は 多紀楽真院法印、多紀安良(あんりょう)法眼(ほうげん)である。楽真院は ※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13) 庭(さいてい)、安良は暁湖(ぎょうこ)で、並(ならび)に二百俵の奥医師であるが、彼は法印、此(これ)は法眼になっていて、当時矢(や)の倉(くら )の分家が向柳原(むこうやなぎはら)の宗家の右におったのである。校正十三人の中には伊沢柏軒、森枳園、堀川舟庵と抽斎とが加わっていた。  躋寿館では『医心方』影写程式(えいしゃていしき)というものが出来た。写生は毎朝辰刻(まいちょうたつのこく)に登館して、一人一日(いちにんいち じつ)三頁(けつ)を影模する。三頁を模し畢(おわ)れば、任意に退出することを許す。三頁を模すること能(あた)わざるものは、二頁を模し畢って退出 しても好い。六頁を模したるものは翌日休むことを許す。影写は十一月朔(さく)に起って、二十日に終る。日に二頁を模するものは晦(みそか)に至る。こ の間は三八の休課を停止する。これが程式の大要である。 その四十五  半井(なからい)本の『医心方』を校刻するに当って、仁和寺本を写した躋寿館の旧蔵本が参考せられたことは、問うことを須(ま)たぬであろう。然るに 別に一の善本があった。それは京都加茂(かも)の医家岡本由顕(ゆうけん)の家から出た『医心方』巻(けんの)二十二である。  正親町(おおぎまち)天皇の時、従(じゅ)五位上(じょう)岡本保晃(ほうこう)というものがあった。保晃は半井瑞策に『医心方』一巻を借りて写した 。そして何故(なにゆえ)か原本を半井氏に返すに及ばずして歿した。保晃は由顕の曾祖父である。  由顕の言う所はこうである。『医心方』は徳川家光(いえみつ)が半井瑞策に授けた書である。保晃は江戸において瑞策に師事した。瑞策の女(むすめ)が 産後に病んで死に瀕(ひん)した。保晃が薬を投じて救った。瑞策がこれに報いんがために、『医心方』一巻を贈ったというのである。 『医心方』を瑞策に授けたのは、家光ではない。瑞策は京都にいた人で、江戸に下ったことはあるまい。瑞策が報恩のために物を贈ろうとしたにしても、よも や帝室から賜った『医心方』三十巻の中(うち)から、一巻を割(さ)いて贈りはしなかっただろう。凡(おおよ)そこれらの事は、前人が皆かつてこれを論 弁している。  既にして岡本氏の家衰えて、畑成文(はたせいぶん)に託してこの巻(まき)を沽(う)ろうとした。成文は錦小路(にしきこうじ)中務権少輔(なかつか さごんしょうゆう)頼易(よりおさ)に勧めて元本を買わしめ、副本はこれを己(おのれ)が家に留(とど)めた。錦小路は京都における丹波氏の裔(えい) である。  岡本氏の『医心方』一巻は、此(かく)の如くにして伝わっていた。そして校刻の時に至って対照の用に供せられたようである。  この年正月二十五日に、森枳園が躋寿館講師に任ぜられて、二月二日から登館した。『医心方』校刻の事の起ったのは、枳園が教職に就(つ)いてから十カ 月の後(のち)である。  抽斎の家族はこの年主人五十歳、五百(いお)三十九歳、陸(くが)八歳、水木(みき)二歳、専六生れて一歳の五人であった。矢島氏を冒した優善(やす よし)は二十歳になっていた。二年前(ぜん)から寄寓(きぐう)していた長尾氏の家族は、本町二丁目の新宅に移った。  安政二年が来た。抽斎の家の記録は先ず小さき、徒(あだ)なる喜(よろこび)を誌(しる)さなくてはならなかった。それは三月十九日に、六男翠暫(す いざん)が生れたことである。後十一歳にして夭札(ようさつ)した子である。この年は人の皆知る地震の年である。しかし当時抽斎を揺り撼(うごか)して 起(た)たしめたものは、独(ひとり)地震のみではなかった。  学問はこれを身に体し、これを事に措(お)いて、始(はじめ)て用をなすものである。否(しからざ)るものは死学問である。これは世間普通の見解であ る。しかし学芸を研鑽(けんさん)して造詣(ぞうけい)の深きを致さんとするものは、必ずしも直ちにこれを身に体せようとはしない。必ずしも径(ただ) ちにこれを事に措こうとはしない。その ※(「石+乞」、第4水準2-82-28) 々(こつこつ)として年(とし)を閲(けみ)する間には、心頭姑(しばら)く用と無用とを度外に置いている。大いなる功績は此(かく)の如くにして始て 贏(か)ち得らるるものである。  この用無用を問わざる期間は、啻(ただ)に年(とし)を閲するのみではない。あるいは生を終るに至るかも知れない。あるいは世を累(かさ)ぬるに至る かも知れない。そしてこの期間においては、学問の生活と時務の要求とが截然(せつぜん)として二をなしている。もし時務の要求が漸(ようや)く増長し来 (きた)って、強いて学者の身に薄(せま)ったなら、学者がその学問生活を抛(なげう)って起(た)つこともあろう。しかしその背面には学問のための損 失がある。研鑽はここに停止してしまうからである。  わたくしは安政二年に抽斎が喙(かい)を時事に容(い)るるに至ったのを見て、是(かく)の如き観をなすのである。 その四十六  米艦が浦賀(うらが)に入(い)ったのは、二年前(ぜん)の嘉永六年六月三日である。翌安政元年には正月に艦(ふね)が再び浦賀に来て、六月に下田( しもだ)を去るまで、江戸の騒擾(そうじょう)は名状すべからざるものがあった。幕府は五月九日を以て、万石以下の士に甲冑(かっちゅう)の準備を令し た。動員の備(そなえ)のない軍隊の腑甲斐(ふがい)なさが覗(うかが)われる。新将軍家定(いえさだ)の下(もと)にあって、この難局に当ったのは、 柏軒、枳園らの主侯阿部正弘である。  今年(こんねん)に入(い)ってから、幕府は講武所を設立することを令した。次いで京都から、寺院の梵鐘(ぼんしょう)を以て大砲小銃を鋳造すべしと いう詔(みことのり)が発せられた。多年古書を校勘して寝食を忘れていた抽斎も、ここに至って ※(「宀/(さんずい+駸のつくり)」、第4水準2-8-7) (やや)風潮の化誘(かゆう)する所となった。それには当時産蓐(さんじょく)にいた女丈夫(じょじょうふ)五百(いお)の啓沃(けいよく)も与(あず か)って力があったであろう。抽斎は遂に進んで津軽士人のために画策するに至った。  津軽順承(ゆきつぐ)は一の進言に接した。これを上(たてまつ)ったものは用人(ようにん)加藤清兵衛(せいべえ)、側用人(そばようにん)兼松伴大 夫(かねまつはんたゆう)、目附兼松三郎である。幕府は甲冑を準備することを令した。然るに藩の士人の能(よ)くこれを遵行(じゅんこう)するものは少 い。概(おおむ)ね皆衣食だに給せざるを以て、これに及ぶに遑(いとま)あらざるのである。宜(よろし)く現に甲冑を有せざるものには、金十八両を貸与 してこれが貲(し)に充(み)てしめ、年賦に依って還納せしむべきである。かつ今より後毎年一度甲冑改(あらため)を行い、手入(ていれ)を怠らしめざ るようにせられたいというのである。順承はこれを可とした。  この進言が抽斎の意より出(い)で、兼松三郎がこれを承(う)けて案を具し、両用人の賛同を得て呈せられたということは、闔藩(こうはん)皆これを知 っていた。三郎は石居(せききょ)と号した。その隆準(りゅうじゅん)なるを以ての故に、抽斎は天狗(てんぐ)と呼んでいた。佐藤一斎、古賀 ※(「にんべん+同」、第3水準1-14-23) 庵(こがとうあん)の門人で、学殖儕輩(せいはい)を超(こ)え、かつて昌平黌(しょうへいこう)の舎長となったこともある。当時弘前吏胥(りしょ)中 の識者として聞えていた。  抽斎は天下多事の日に際会して、言(こと)偶(たまたま)政事に及び、武備に及んだが、此(かく)の如きは固(もと)よりその本色(ほんしょく)では なかった。抽斎の旦暮(たんぼ)力を用いる所は、古書を講窮し、古義を闡明(せんめい)するにあった。彼は弘前藩士たる抽斎が、外来の事物に応じて動作 した一時のレアクションである。此(これ)は学者たる抽斎が、終生従事していた不朽の労作である。  抽斎の校勘の業はこの頃着々進陟(しんちょく)していたらしい。森枳園が明治十八年に書いた『経籍訪古志』の跋(ばつ)に、緑汀会(りょくていかい) の事を記(しる)して、三十年前だといってある。緑汀とは多紀 ※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13) 庭(たきさいてい)が本所緑町の別荘である。 ※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13) 庭は毎月(まいげつ)一、二次、抽斎、枳園、柏軒、舟庵、海保漁村らを此(ここ)に集(つど)えた。諸子は環坐して古本(こほん)を披閲し、これが論定 をなした。会の後(のち)には宴を開いた。さて二州橋上酔(にしゅうきょうじょうえい)に乗じて月を踏み、詩を詠じて帰ったというのである。同じ書に、 ※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13) 庭がこの年安政二年より一年の後に書いた跋があって、諸子 ※(「褒」の「保」に代えて「臾−人」、第4水準2-88-19) 録(ほうろく)惟(こ)れ勤め、各部頓(とみ)に成るといってあるのを見れば、論定に継ぐに編述を以てしたのも、また当時の事であったと見える。  わたくしはこの年の地震の事を語るに先(さきだ)って、台所町の渋江の家に座敷牢(ざしきろう)があったということに説き及ぼすのを悲(かなし)む。 これは二階の一室(いっしつ)を繞(めぐら)すに四目格子(よつめごうし)を以てしたもので、地震の日には工事既に竣(おわ)って、その中はなお空虚で あった。もし人がその中にいたならば、渋江の家は死者を出(いだ)さざることを得なかったであろう。  座敷牢は抽斎が忍びがたきを忍んで、次男優善(やすよし)がために設けたものであった。 その四十七  抽斎が岡西氏徳(とく)に生(うま)せた三人の子の中(うち)、ただ一人(ひとり)生き残った次男優善は、少時(しょうじ)放恣(ほうし)佚楽(いつ らく)のために、頗(すこぶ)る渋江一家(いっか)を困(くるし)めたものである。優善には塩田良三(しおだりょうさん)という遊蕩(ゆうとう)夥伴( なかま)があった。良三はかの蘭軒門下で、指の腹に杖(つえ)を立てて歩いたという楊庵(ようあん)が、家附(いえつき)の女(むすめ)に生せた嫡子で ある。  わたくしは前に優善が父兄と嗜(たしみ)を異にして、煙草を喫(の)んだということを言った。しかし酒はこの人の好む所でなかった。優善も良三も、共 に涓滴(けんてき)の量なくして、あらゆる遊戯に耽(ふけ)ったのである。  抽斎が座敷牢を造った時、天保六年生(うまれ)の優善は二十一歳になっていた。そしてその密友たる良三は天保八年生で、十八歳になっていた。二人は影 の形に従う如く、須臾(しゅゆ)も相離るることがなかった。  或時優善は松川飛蝶(まつかわひちょう)と名告(なの)って、寄席(よせ)に看板を懸けたことがある。良三は松川酔蝶(すいちょう)と名告って、共に 高座に登った。鳴物入(なりものいり)で俳優の身振(みぶり)声色(こわいろ)を使ったのである。しかも優善はいわゆる心打(しんうち)で、良三はその 前席を勤めたそうである。また夏になると、二人は舟を藉(か)りて墨田川(すみだがわ)を上下(じょうか)して、影芝居(かげしばい)を興行した。一人 は津軽家の医官矢島氏の当主、一人は宗家の医官塩田氏の若檀那(わかだんな)である。中にも良三の父は神田松枝町(まつえだちょう)に開業して、市人に 頓才(とんさい)のある、見立(みたて)の上手な医者と称せられ、その肥胖(ひはん)のために瞽者(こしゃ)と看錯(みあやま)らるる面(おもて)をば 汎(ひろ)く識(し)られて、家は富み栄えていた。それでいて二人共に、高座(こうざ)に顔を ※(「日+麗」、第4水準2-14-21) (さら)すことを憚(はばか)らなかったのである。  二人は酒量なきにかかわらず、町々の料理屋に出入(いでいり)し、またしばしば吉原に遊んだ。そして借財が出来ると、親戚(しんせき)故旧をして償( つぐの)わしめ、度重(たびかさな)って償う道が塞(ふさ)がると、跡を晦(くら)ましてしまう。抽斎が優善のために座敷牢を作らせたのは、そういう失 踪(しっそう)の間の事で、その早晩還(かえ)り来(きた)るを候(うかが)ってこの中(うち)に投ぜようとしたのである。  十月二日は地震の日である。空は陰(くも)って雨が降ったり歇(や)んだりしていた。抽斎はこの日観劇に往った。周茂叔連(しゅうもしゅくれん)にも 逐次に人の交迭(こうてつ)があって、豊芥子(ほうかいし)や抽斎が今は最年長者として推されていたことであろう。抽斎は早く帰って、晩酌をして寝た。 地震は亥(い)の刻に起った。今の午後十時である。二つの強い衝突を以て始まって、震動が漸(ようや)く勢(いきおい)を増した。寝間(ねま)にどてら を著(き)て臥(ふ)していた抽斎は、撥(は)ね起きて枕元(まくらもと)の両刀を把(と)った。そして表座敷へ出ようとした。  寝間と表座敷との途中に講義室があって、壁に沿うて本箱が堆(うずたか)く積み上げてあった。抽斎がそこへ来掛かると、本箱が崩れ墜(お)ちた。抽斎 はその間に介(はさ)まって動くことが出来なくなった。  五百(いお)は起きて夫の後(うしろ)に続こうとしたが、これはまだ講義室に足を投ぜぬうちに倒れた。  暫くして若党仲間(ちゅうげん)が来て、夫妻を扶(たす)け出した。抽斎は衣服の腰から下が裂け破れたが、手は両刀を放たなかった。  抽斎は衣服を取り繕う暇(ひま)もなく、馳(は)せて隠居信順(のぶゆき)を柳島の下屋敷に慰問し、次いで本所二つ目の上屋敷に往った。信順は柳島の 第宅(ていたく)が破損したので、後に浜町(はまちょう)の中屋敷に移った。当主順承(ゆきつぐ)は弘前にいて、上屋敷には家族のみが残っていたのであ る。  抽斎は留守居比良野貞固(さだかた)に会って、救恤(きゅうじゅつ)の事を議した。貞固は君侯在国の故を以て、旨(むね)を承(う)くるに遑(いとま )あらず、直ちに廩米(りんまい)二万五千俵を発して、本所の窮民を賑(にぎわ)すことを令した。勘定奉行平川半治(ひらかわはんじ)はこの議に与(あ ずか)らなかった。平川は後に藩士が悉(ことごと)く津軽に遷(うつ)るに及んで、独り永(なが)の暇(いとま)を願って、深川(ふかがわ)に米店(こ めみせ)を開いた人である。 その四十八  抽斎が本所二つ目の津軽家上屋敷から、台所町に引き返して見ると、住宅は悉く傾(かたぶ)き倒れていた。二階の座敷牢は粉韲(ふんせい)せられて迹( あと)だに留(とど)めなかった。対門(たいもん)の小姓組番頭(ばんがしら)土屋(つちや)佐渡守邦直(くになお)の屋敷は火を失していた。  地震はその夜(よ)歇(や)んでは起り、起っては歇(や)んだ。町筋ごとに損害の程度は相殊(あいことな)っていたが、江戸の全市に家屋土蔵の無瑕( むきず)なものは少かった。上野の大仏は首が砕け、谷中(やなか)天王寺(てんのうじ)の塔は九輪(くりん)が落ち、浅草寺の塔は九輪が傾(かたぶ)い た。数十カ所から起った火は、三日の朝辰の刻に至って始て消された。公(おおやけ)に届けられた変死者が四千三百人であった。  三日以後にも昼夜数度の震動があるので、第宅(ていたく)のあるものは庭に小屋掛(こやがけ)をして住み、市民にも露宿するものが多かった。将軍家定 は二日の夜(よる)吹上(ふきあげ)の庭にある滝見茶屋(たきみぢゃや)に避難したが、本丸の破損が少かったので翌朝帰った。  幕府の設けた救小屋(すくいごや)は、幸橋(さいわいばし)外に一カ所、上野に二カ所、浅草に一カ所、深川に二カ所であった。  この年抽斎は五十一歳、五百(いお)は四十歳になって、子供には陸(くが)、水木(みき)、専六、翠暫(すいざん)の四人がいた。矢島優善(やすよし )の事は前に言った。五百の兄広瀬栄次郎がこの年四月十八日に病死して、その父の妾(しょう)牧は抽斎の許(もと)に寄寓(きぐう)した。  牧は寛政二年生(うまれ)で、初(はじめ)五百の祖母が小間使(こまづかい)に雇った女である。それが享和三年に十四歳で五百の父忠兵衛の妾になった 。忠兵衛が文化七年に紙問屋(かみどいや)山一(やまいち)の女くみを娶(めと)った時、牧は二十一歳になっていた。そこへ十八歳ばかりのくみは来たの である。くみは富家(ふうか)の懐子(ふところご)で、性質が温和であった。後に五百と安とを生んでから、気象の勝った五百よりは、内気な安の方が、母 の性質を承(う)け継いでいると人に言われたのに徴しても、くみがどんな女であったかと言うことは想い遣られる。牧は特に悍(かん)と称すべき女でもな かったらしいが、とにかく三つの年上であって、世故(せいこ)にさえ通じていたから、くみが啻(ただ)にこれを制することが難かったばかりでなく、動( やや)もすればこれに制せられようとしたのも、固(もと)より怪(あやし)むに足らない。  既にしてくみは栄次郎を生み、安を生み、五百を生んだが、次(つい)で文化十四年に次男某を生むに当って病に罹(かか)り、生れた子と倶(とも)に世 を去った。この最後の産の前後の事である。くみは血行の変動のためであったか、重聴(じゅうちょう)になった。その時牧がくみの事を度々(たびたび)聾 者(つんぼ)と呼んだのを、六歳になった栄次郎が聞き咎(とが)めて、後(のち)までも忘れずにいた。  五百は六、七歳になってから、兄栄次郎にこの事を聞いて、ひどく憤(いきどお)った。そして兄にいった。「そうして見ると、わたしたちには親の敵(か たき)がありますね。いつか兄(に)いさんと一しょに敵(かたき)を討とうではありませんか」といった。その後(のち)五百は折々箒(ほうき)に塵払( ちりはらい)を結び附けて、双手(そうしゅ)の如くにし、これに衣服を纏(まと)って壁に立て掛け、さてこれを斫(き)る勢(いきおい)をなして、「お のれ、母の敵(かたき)、思い知ったか」などと叫ぶことがあった。父忠兵衛も牧も、少女の意の斥(さ)す所を暁(さと)っていたが、父は憚(はばか)っ て肯(あえ)て制せず、牧は懾(おそ)れて咎めることが出来なかった。  牧は奈何(いか)にもして五百の感情を和(やわ)げようと思って、甘言を以てこれを誘(いざな)おうとしたが、五百は応ぜなかった。牧はまた忠兵衛に 請うて、五百に己(おのれ)を母と呼ばせようとしたが、これは忠兵衛が禁じた。忠兵衛は五百の気象を知っていて、此(かく)の如き手段のかえってその反 抗心を激成するに至らんことを恐れたのである。  五百が早く本丸に入(い)り、また藤堂家に投じて、始終家に遠(とおざ)かっているようになったのは、父の希望があり母の遺志があって出来た事ではあ るが、一面には五百自身が牧と倶(とも)に起臥(おきふし)することを快(こころよ)からず思って、余所(よそ)へ出て行くことを喜んだためもある。  こういう関係のある牧が、今寄辺(よるべ)を失って、五百の前に首(こうべ)を屈し、渋江氏の世話を受けることになったのである。五百は怨(うらみ) に報ゆるに恩を以てして、牧の老(おい)を養うことを許した。 その四十九  安政三年になって、抽斎は再び藩の政事に喙(くちばし)を容(い)れた。抽斎の議の大要はこうである。弘前藩は須(すべから)く当主順承(ゆきつぐ) と要路の有力者数人とを江戸に留(とど)め、隠居信順(のぶゆき)以下の家族及家臣の大半を挙げて帰国せしむべしというのである。その理由の第一は、時 勢既に変じて多人数(たにんず)の江戸詰(づめ)はその必要を認めないからである。何故(なにゆえ)というに、原(もと)諸侯の参勤、及これに伴う家族 の江戸における居住は、徳川家に人質を提供したものである。今将軍は外交の難局に当って、旧慣を棄(す)て、冗費を節することを謀(はか)っている。諸 侯に土木の手伝(てつだい)を命ずることを罷(や)め、府内を行くに家に窓蓋(まどぶた)を設(もうく)ることを止(とど)めたのを見ても、その意向を 窺(うかが)うに足る。縦令(たとい)諸侯が家族を引き上げたからといって、幕府は最早(もはや)これを抑留することはなかろう。理由の第二は、今の多 事の時に方(あた)って、二、三の有力者に託するに藩の大事を以てし、これに掣肘(せいちゅう)を加うることなく、当主を輔佐して臨機の処置に出(い) でしむるを有利とするからである。由来弘前藩には悪習慣がある。それは事あるごとに、藩論が在府党と在国党とに岐(わか)れて、荏苒(じんぜん)決せざ ることである。甚だしきに至っては、在府党は郷国の士を罵(ののし)って国猿(くにざる)といい、その主張する所は利害を問わずして排斥する。此(かく )の如きは今の多事の時に処する所以(ゆえん)の道でないというのである。  この議は同時に二、三主張するものがあって、是非の論が盛(さかん)に起った。しかし後にはこれに左袒(さたん)するものも多くなって、順承が聴納( ていのう)しようとした。浜町の隠居信順がこれを見て大いに怒(いか)った。信順は平素国猿を憎悪することの尤(もっと)も甚(はなはだ)しい一人(い ちにん)であった。  この議に反対したものは、独(ひとり)浜町の隠居のみではなかった。当時江戸にいた藩士の殆(ほとん)ど全体は弘前に往(ゆ)くことを喜ばなかった。 中にも抽斎と親善(しんぜん)であった比良野貞固(さだかた)は、抽斎のこの議を唱うるを聞いて、馳(は)せ来(きた)って論難した。議善(よ)からざ るにあらずといえども、江戸に生れ江戸に長じたる士人とその家族とをさえ、悉(ことごと)く窮北の地に遷(うつ)そうとするは、忍べるの甚しきだという のである。抽斎は貞固の説を以て、情に偏し義に失するものとなして聴かなかった。貞固はこれがために一時抽斎と交(まじわり)を絶つに至った。  この頃国勝手(くにがって)の議に同意していた人々の中(うち)、津軽家の継嗣問題のために罪を獲たものがあって、彼(かの)議を唱えた抽斎らは肩身 の狭い念(おもい)をした。継嗣問題とは当主順承(ゆきつぐ)が肥後国熊本の城主細川越中守斉護(なりもり)の子寛五郎(のぶごろう)承昭(つぐてる) を養おうとするに起った。順承は女(むすめ)玉姫(たまひめ)を愛して、これに壻を取って家を護ろうとしていると、津軽家下屋敷の一つなる本所大川端( おおかわばた)邸が細川邸と隣接しているために、斉護と親しくなり、遂に寛五郎を養子に貰(もら)い受けようとするに至った。罪を獲た数人は、血統を重 んずる説を持して、この養子を迎うることを拒もうとし、順承はこれを迎うるに決したからである。即ち側用人(そばようにん)加藤清兵衛、用人兼松伴大夫 (はんたゆう)は帰国の上(うえ)隠居謹慎、兼松三郎は帰国の上永(なが)の蟄居(ちっきょ)を命ぜられた。  石居(せききょ)即ち兼松三郎は後に夢醒(むせい)と題して七古(しちこ)を作った。中(うち)に「又憶世子即世後(またおもうせいしそくせいののち )、継嗣未定物議伝(けいしいまださだまらずぶつぎつたう)、不顧身分有所建(みぶんをかえりみずけんずるところあり)、因冒譴責坐北遷(よりてけんせ きをおかしてほくせんにざす)」の句がある。その咎(とがめ)を受けて江戸を発する時、抽斎は四言十二句を書して贈った。中に「菅公遇譖(かんこうたま たまそしられ)、屈原独清(くつげんはひとりきよし)、」という語があった。  この年抽斎の次男矢島優善(やすよし)は、遂に素行修まらざるがために、表医者(おもていしゃ)を貶(へん)して小普請(こぶしん)医者とせられ、抽 斎もまたこれに連繋(れんけい)して閉門三日(さんじつ)に処せられた。 その五十  優善の夥伴(なかま)になっていた塩田良三(りょうさん)は、父の勘当を蒙(こうむ)って、抽斎の家の食客(しょっかく)となった。我子の乱行(らん ぎょう)のために譴(せめ)を受けた抽斎が、その乱行を助長した良三の身の上を引き受けて、家におらせたのは、余りに寛大に過ぎるようであるが、これは 才を愛する情が深いからの事であったらしい。抽斎は人の寸長(すんちょう)をも見 ※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56) (みのが)さずに、これに保護(ほうご)を加えて、幾(ほとん)どその瑕疵(かし)を忘れたるが如くであった。年来森枳園(きえん)を扶掖(ふえき)し ているのもこれがためである。今良三を家に置くに至ったのも、良三に幾分の才気のあるのを認めたからであろう。固(もと)より抽斎の許(もと)には、常 に数人の諸生が養われていたのだから、良三はただこの群(むれ)に新(あらた)に来(きた)り加わったに過ぎない。  数月(すうげつ)の後(のち)に、抽斎は良三を安積艮斎(あさかごんさい)の塾に住み込ませた。これより先艮斎は天保十三年に故郷に帰って、二本松( にほんまつ)にある藩学の教授になったが、弘化元年に再び江戸に来て、嘉永二年以来昌平黌(しょうへいこう)の教授になっていた。抽斎は彼(か)の終始 濂渓(れんけい)の学を奉じていた艮斎とは深く交らなかったのに、これに良三を託したのは、良三の吏材(りさい)たるべきを知って、これを培養すること を謀(はか)ったのであろう。  抽斎の先妻徳の里方(さとかた)岡西氏では、この年七月二日に徳の父栄玄が歿し、次いで十一月十一日に徳の兄玄亭が歿した。  栄玄は医を以て阿部家に仕えた。長子玄亭が蘭軒門下の俊才であったので、抽斎はこれと交(まじわり)を訂し、遂にその妹徳を娶(めと)るに至ったので ある。徳の亡くなった後(のち)も、次男優善がその出(しゅつ)であるので、抽斎一家(いっけ)は岡西氏と常に往来していた。  栄玄は樸直(ぼくちょく)な人であったが、往々性癖のために言行の規矩(きく)を踰(こ)ゆるを見た。かつて八文の煮豆を買って鼠不入(ねずみいらず )の中に蔵し、しばしばその存否を検したことがある。また或日海 ※(「魚+二点しんにょうの連」、第4水準2-93-72) (ぶり)一尾を携え来って、抽斎に遺(おく)り、帰途に再び訪(と)わんことを約して去った。五百はために酒饌(しゅぜん)を設けようとして頗(すこぶ )る苦心した。それは栄玄が饌(ぜん)に対して奢侈(しゃし)を戒めたことが数次であったからである。抽斎は遺られた所の海 ※(「魚+二点しんにょうの連」、第4水準2-93-72) を饗(きょう)することを命じた。栄玄は来て饗を受けたが、色(いろ)悦ばざるものの如く、遂に「客にこんな馳走(ちそう)をすることは、わたしの内( うち)ではない」といった。五百が「これはお持たせでございます」といったが、栄玄は聞えぬふりをしていた。調理法が好過(よす)ぎたのであろう。  尤(もっと)も抽斎をして不平に堪えざらしめたのは、栄玄が庶子苫(とま)を遇することの甚だ薄かったことである。苫は栄玄が厨下(ちゅうか)の婢( ひ)に生せた女(むすめ)である。栄玄はこれを認めて子としたのに、「あんなきたない子は畳の上には置かれない」といって、板の間(ま)に蓙(ござ)を 敷いて寝させた。当時栄玄の妻は既に歿していたから、これは河東(かとう)の獅子吼(ししく)を恐れたのではなく、全く主人の性癖のためであった。抽斎 は五百に議(はか)って苫を貰い受け、後下総(しもうさ)の農家に嫁せしめた。  栄玄の子で、父に遅るること僅(わずか)に四月(しげつ)にして歿した玄亭は、名を徳瑛(とくえい)、字(あざな)を魯直(ろちょく)といった。抽斎 の友である。玄亭には二男一女があった。長男は玄庵、次男は養玄である。女(むすめ)は名を初(はつ)といった。  この年抽斎は五十二歳、五百は四十一歳であった。抽斎が平生(へいぜい)の学術上研鑽(けんさん)の外に最も多く思(おもい)を労したのは何事かと問 うたなら、恐らくはその五十二歳にして提起した国勝手(くにがって)の議だといわなくてはなるまい。この議のまさに及ぼすべき影響の大きさと、この議の 打ち克(か)たなくてはならぬ抗抵の強さとは、抽斎の十分に意識していた所であろう。抽斎はまた自己がその位(くらい)にあらずして言うことの不利なる をも知らなかったのではあるまい。然るに抽斎のこれを敢(あえ)てしたのは、必ず内にやむことをえざるものがあって敢てしたのであろう。憾(うら)むら くは要路に取ってこれを用いる手腕のある人がなかったために、弘前は遂に東北諸藩の間において一頭地を抜いて起(た)つことが出来なかった。また遂に勤 王の旗幟(きし)を明(あきらか)にする時期の早きを致すことが出来なかった。 その五十一  安政四年には抽斎の七男成善(しげよし)が七月二十六日を以て生れた。小字(おさなな)は三吉(さんきち)、通称は道陸(どうりく)である。即ち今の 保(たもつ)さんで、父は五十三歳、母は四十二歳の時の子である。  成善の生れた時、岡西玄庵が胞衣(えな)を乞いに来た。玄庵は父玄亭に似て夙慧(しゅくけい)であったが、嘉永三、四年の頃癲癇(てんかん)を病んで 、低能の人と化していた。天保六年の生(うまれ)であったから、病を発したのが十六、七歳の時で、今は二十三歳になっている。胞衣を乞うのは、癲癇の薬 方(やくほう)として用いんがためであった。  抽斎夫婦は喜んでこれに応じたので、玄庵は成善の胞衣を持って帰った。この時これを惜んで一夜(ひとよ)を泣き明したのは、昔抽斎の父允成(ただしげ )の茶碗の余瀝(よれき)を舐(ねぶ)ったという老尼妙了(みょうりょう)である。妙了は年久しく渋江の家に寄寓していて、毎(つね)に小児(しょうに )の世話をしていたが、中にも抽斎の三女棠(とう)を愛し、今また成善の生れたのを見て、大いにこれを愛していた。それゆえ胞衣を玄庵に与えることを嫌 った。俗説に胞衣を人に奪われた子は育たぬというからである。  この年前(さき)に貶黜(へんちつ)せられた抽斎の次男矢島優善(やすよし)は、纔(わずか)に表医者(おもていしゃ)介(すけ)を命ぜられて、半( なかば)その位地を回復した。優善の友塩田良三(りょうさん)は安積艮斎(あさかごんさい)の塾に入れられていたが、或日師の金百両を懐(ふところ)に して長崎に奔(はし)った。父楊庵は金を安積氏に還(かえ)し、人を九州に遣(や)って子を連れ戻した。良三はまだ残(のこり)の金を持っていたので、 迎えに来た男を随(したが)えて東上するのに、駅々で人に傲(おご)ること貴公子の如くであった。この時肥後国熊本の城主細川越中守斉護(なりもり)の 四子寛五郎(のぶごろう)は、津軽順承(ゆきつぐ)の女壻(じょせい)にせられて東上するので、途中良三と旅宿を同じうすることがあった。斉護は子をし て下情(かじょう)に通ぜしめんことを欲し、特に微行を命じたので、寛五郎と従者とは始終質素を旨としていた。驕子(きょうし)良三は往々五十四万石の 細川家から、十万石の津軽家に壻入する若殿を凌(しの)いで、旅中下風(かふう)に立っている少年の誰(たれ)なるかを知らずにいた。寛五郎は今の津軽 伯で、当時裁(わずか)に十七歳であった。  小野氏ではこの年令図(れいと)が致仕して、子富穀(ふこく)が家督した。令図は小字(おさなな)を慶次郎(けいじろう)という。抽斎の祖父本皓(ほ んこう)の庶子で、母を横田氏よのという。よのは武蔵国川越(かわごえ)の人某の女(むすめ)である。令図は出(い)でて同藩の医官二百石小野道秀(お のどうしゅう)の末期(まつご)養子となり、有尚(ゆうしょう)と称し、後(のち)また道瑛(どうえい)と称し、累進して近習医者に至った。天明三年十 一月二十六日生(うまれ)で、致仕の時七十五歳になっていた。令図に一男一女があって、男(だん)を富穀(ふこく)といい、女(じょ)を秀(ひで)とい った。  富穀、通称は祖父と同じく道秀といった。文化四年の生(うまれ)である。十一歳にして、森枳園(きえん)と共に抽斎の弟子(ていし)となった。家督の 時は表医者であった。令図、富穀の父子は共に貨殖に長じて、弘前藩定府(じょうふ)中の富人(ふうじん)であった。妹秀は長谷川町(はせがわちょう)の 外科医鴨池道碩(かもいけどうせき)に嫁した。  多紀氏ではこの年二月十四日に、矢の倉の末家(ばつけ)の ※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13) 庭(さいてい)が六十三歳で歿し、十一月に向(むこう)柳原(やなぎはら)の本家の暁湖が五十二歳で歿した。わたくしの所蔵の安政四年「武鑑」は、 ※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13) 庭が既に逝(ゆ)いて、暁湖がなお存していた時に成ったもので、 ※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13) 庭の子安琢(あんたく)が多紀安琢二百俵、父楽春院(らくしゅんいん)として載せてあり、暁湖は旧に依(よ)って多紀安良(あんりょう)法眼(ほうげん )二百俵、父安元(あんげん)として載せてある。 ※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13) 庭の楽真院を、「武鑑」には前から楽春院に作ってある。その何(なん)の故なるを詳(つまびらか)にしない。 その五十二   ※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13) 庭(さいてい)、名は元堅(げんけん)、字(あざな)は亦柔(えきじゅう)、一に三松(さんしょう)と号す。通称は安叔(あんしゅく)、後(のち)楽真 院また楽春院という。寛政七年に桂山(けいざん)の次男に生れた。幼時犬を闘(たたか)わしむることを好んで、学業を事としなかったが、人が父兄に若( し)かずというを以て責めると、「今に見ろ、立派な医者になって見せるから」といっていた。幾(いくばく)もなくして節を折って書を読み、精力衆(しゅ う)に踰(こ)え、識見人(ひと)を驚かした。分家した初(はじめ)は本石町(ほんこくちょう)に住していたが、後に矢の倉に移った。侍医に任じ、法眼 に叙せられ、次で法印に進んだ。秩禄(ちつろく)は宗家(そうか)と同じく二百俵三十人扶持である。   ※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13) 庭は治を請うものがあるときは、貧家といえども必ず応じた。そして単に薬餌(やくじ)を給するのみでなく、夏は蚊 ※(「巾+廚」、第4水準2-12-1) (かや)を貽(おく)り、冬は布団(ふとん)を遣(おく)った。また三両から五両までの金を、貧窶(ひんる)の度に従って与えたこともある。   ※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13) 庭は抽斎の最も親しい友の一人(ひとり)で、二家(にか)の往来は頻繁(ひんぱん)であった。しかし当時法印の位は太(はなは)だ貴(とうと)いもので 、 ※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13) 庭が渋江の家に来ると、茶は台のあり蓋(ふた)のある茶碗に注(つ)ぎ、菓子は高坏(たかつき)に盛って出した。この器(うつわ)は大名と多紀法印とに 茶菓(ちゃか)を呈する時に限って用いたそうである。 ※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13) 庭の後(のち)は安琢(あんたく)が嗣(つ)いだ。  暁湖、名は元 ※(「日+斤」、第3水準1-85-14) 、字は兆寿(ちょうじゅ)、通称は安良(あんりょう)であった。桂山の孫、柳 ※(「さんずい+片」、第3水準1-86-57) (りゅうはん)の子である。文化三年に生れ、文政十年六月三日に父を喪(うしな)って、八月四日に宗家を継承した。暁湖の後(のち)を襲(つ)いだのは 養子元佶(げんきつ)で、実は季(すえ)の弟である。  安政五年には二月二十八日に、抽斎の七男成善(しげよし)が藩主津軽順承(ゆきつぐ)に謁した。年甫(はじめ)て二歳、今の齢(よわい)を算する法に 従えば、生れて七カ月であるから、人に懐(いだ)かれて謁した。しかし謁見は八歳以上と定められていたので、この日だけは八歳と披露したのだそうである 。  五月十七日には七女幸(さき)が生れた。幸は越えて七月六日に早世した。  この年には七月から九月に至るまで虎列拉(コレラ)が流行した。徳川家定は八月二日に、「少々御勝不被遊(おんすぐれあそばされず)」ということであ ったが、八日には忽(たちま)ち薨去(こうきょ)の公報が発せられ、家斉(いえなり)の孫紀伊宰相慶福(よしとみ)が十三歳で嗣立(しりつ)した。家定 の病は虎列拉であったそうである。  この頃抽斎は五百(いお)にこういう話をした。「己(おれ)は公儀へ召されることになるそうだ。それが近い事で公方様(くぼうさま)の喪が済み次第仰 付(おおせつ)けられるだろうということだ。しかしそれをお請(うけ)をするには、どうしても津軽家の方を辞せんではいられない。己は元禄以来重恩の主 家(しゅうけ)を棄(す)てて栄達を謀(はか)る気にはなられぬから、公儀の方を辞するつもりだ。それには病気を申立てる。そうすると、津軽家の方で勤 めていることも出来ない。己は隠居することに極(き)めた。父は五十九歳で隠居して七十四歳で亡くなったから、己も兼(かね)て五十九歳になったら隠居 しようと思っていた。それがただ少しばかり早くなったのだ。もし父と同じように、七十四歳まで生きていられるものとすると、これから先まだ二十年ほどの 月日がある。これからが己の世の中だ。己は著述をする。先ず『老子(ろうし)』の註を始(はじめ)として、迷庵 ※(「木+夜」、第3水準1-85-76) 斎(えきさい)に誓った為事(しごと)を果して、それから自分の為事に掛かるのだ」といった。公儀へ召されるといったのは、奥医師などに召し出されるこ とで、抽斎はその内命を受けていたのであろう。然るに運命は抽斎をしてこのヂレンマの前に立たしむるに至らなかった。また抽斎をして力を述作に肆(ほし いまま)にせしむるに至らなかった。 その五十三  八月二十二日に抽斎は常の如く晩餐(ばんさん)の饌(ぜん)に向った。しかし五百が酒を侑(すす)めた時、抽斎は下物(げぶつ)の魚膾(さしみ)に箸 (はし)を下(くだ)さなかった。「なぜ上(あが)らないのです」と問うと、「少し腹工合が悪いからよそう」といった。翌二十三日は浜町中屋敷の当直の 日であったのを、所労を以て辞した。この日に始て嘔吐(おうど)があった。それから二十七日に至るまで、諸証は次第に険悪になるばかりであった。  多紀安琢(あんたく)、同(おなじく)元佶(げんきつ)、伊沢柏軒、山田椿庭(ちんてい)らが病牀(びょうしょう)に侍して治療の手段を尽したが、功 を奏せなかった。椿庭、名は業広(ぎょうこう)、通称は昌栄(しょうえい)である。抽斎の父允成(ただしげ)の門人で、允成の歿後抽斎に従学した。上野 国(こうずけのくに)高崎の城主松平右京亮(うきょうのすけ)輝聡(てるとし)の家来で、本郷弓町(ゆみちょう)に住んでいた。  抽斎は時々(じじ)譫語(せんご)した。これを聞くに、夢寐(むび)の間(あいだ)に『医心方』を校合(きょうごう)しているものの如くであった。  抽斎の病況は二十八日に小康を得た。遺言(ゆいごん)の中(うち)に、兼て嗣子と定めてあった成善(しげよし)を教育する方法があった。経書(けいし ょ)を海保漁村に、筆札(ひっさつ)を小島成斎に、『素問(そもん)』を多紀安琢に受けしめ、機を看(み)て蘭語(らんご)を学ばしめるようにというの である。  二十八日の夜丑(うし)の刻に、抽斎は遂に絶息した。即ち二十九日午前二時である。年は五十四歳であった。遺骸(いがい)は谷中(やなか)感応寺に葬 られた。  抽斎の歿した跡には、四十三歳の未亡人(びぼうじん)五百を始として、岡西氏の出(しゅつ)次男矢島優善(やすよし)二十四歳、四女陸(くが)十二歳 、六女水木(みき)六歳、五男専六(せんろく)五歳、六男翠暫(すいざん)四歳、七男成善(しげよし)二歳の四子二女が残った。優善を除く外は皆山内氏 五百の出(しゅつ)である。  抽斎の子にして父に先(さきだ)って死んだものは、尾島氏の出(しゅつ)長男恒善(つねよし)、比良野氏の出馬場玄玖(げんきゅう)妻長女純(いと) 、岡西氏の出二女好(よし)、三男八三郎、山内氏の出三女山内棠(とう)、四男幻香、五女癸巳(きし)、七女幸(さき)の三子五女である。  矢島優善はこの年二月二十八日に津軽家の表医者にせられた。初(はじめ)の地位に復したのである。  五百の姉壻長尾宗右衛門は、抽斎に先(さきだ)つこと一月(いちげつ)、七月二十日に同じ病を得て歿した。次で十一月十五日の火災に、横山町の店も本 町の宅も皆焼けたので、塗物問屋(ぬりものどいや)の業はここに廃絶した。跡に遣(のこ)ったのは未亡人安四十四歳、長女敬(けい)二十一歳、次女銓( せん)十九歳の三人である。五百は台所町の邸(やしき)の空地(くうち)に小さい家を建ててこれを迎え入れた。五百は敬に壻を取って長尾氏の祀(まつり )を奉ぜしめようとして、安に説き勧めたが、安は猶予して決することが出来なかった。  比良野貞固(さだかた)は抽斎の歿した直後から、連(しきり)に五百に説いて、渋江氏の家を挙げて比良野邸に寄寓せしめようとした。貞固はこういった 。自分は一年前(ぜん)に抽斎と藩政上の意見を異にして、一時絶交の姿になっていた。しかし抽斎との情誼(じょうぎ)を忘るることなく、早晩疇昔(ちゅ うせき)の親(したし)みを回復しようと思っているうちに、図らずも抽斎に死なれた。自分はどうにかして旧恩に報いなくてはならない。自分の邸宅には空 室(くうしつ)が多い。どうぞそこへ移って来て、我家(わがいえ)に住む如くに住んでもらいたい。自分は貧(まずし)いが、日々(にちにち)の生計には 余裕がある。決して衣食の価(あたい)は申し受けない。そうすれば渋江一家(いっけ)は寡婦孤児として受くべき侮(あなどり)を防ぎ、無用の費(ついえ )を節し、安んじて子女の成長するのを待つことが出来ようといったのである。 その五十四  比良野貞固は抽斎の遺族を自邸に迎えようとして、五百に説いた。しかしそれは五百を識(し)らぬのであった。五百は人の廡下(ぶか)に倚(よ)ること を甘んずる女ではなかった。渋江一家の生計は縮小しなくてはならぬこと勿論(もちろん)である。夫の存命していた時のように、多くの奴婢(ぬひ)を使い 、食客(しょっかく)を居(お)くことは出来ない。しかし譜代の若党や老婦にして放ち遣るに忍びざるものもある。寄食者の中(うち)には去らしめように も往(ゆ)いて投ずべき家のないものもある。長尾氏の遺族の如きも、もし独立せしめようとしたら、定めて心細く思うことであろう。五百は己(おのれ)が 人に倚(よ)らんよりは、人をして己に倚らしめなくてはならなかった。そして内に恃(たの)む所があって、敢(あえ)て自らこの衝(しょう)に当ろうと した。貞固の勧誘の功を奏せなかった所以(ゆえん)である。  森枳園(きえん)はこの年十二月五日に徳川家茂(いえもち)に謁した。寿蔵碑には「安政五年戊午(ぼご)十二月五日、初謁見将軍徳川家定公」と書して あるが、この年月日(ねんげつじつ)は家定が薨(こう)じてから四月(しげつ)の後(のち)である。その枳園自撰の文なるを思えば、頗(すこぶ)る怪( あやし)むべきである。枳園が謁したはずの家茂は十三歳の少年でなくてはならない。家定はこれに反して、薨ずる時三十五歳であった。  この年の虎列拉(コレラ)は江戸市中において二万八千人の犠牲を求めたのだそうである。当時の聞人(ぶんじん)でこれに死したものには、岩瀬京山(い わせけいざん)、安藤広重(あんどうひろしげ)、抱一(ほういつ)門の鈴木必庵(すずきひつあん)等がある。市河米庵(いちかわべいあん)も八十歳の高 齢ではあったが、同じ病であったかも知れない。渋江氏とその姻戚(いんせき)とは抽斎、宗右衛門の二人(ににん)を喪(うしな)って、五百、安の姉妹が 同時に未亡人となったのである。  抽斎の著(あらわ)す所の書には、先ず『経籍訪古志』と『留真譜(りゅうしんふ)』とがあって、相踵(あいつ)いで支那人の手に由(よ)って刊行せら れた。これは抽斎とその師、その友との講窮し得たる果実で、森枳園が記述に与(あずか)ったことは既にいえるが如くである。抽斎の考証学の一面はこの二 書が代表している。徐承祖(じょしょうそ)が『訪古志』に序して、「大抵論繕写刊刻之工(たいていはぜんしゃかんこくのこうをろんじ)、拙於考証(こう しょうにつたなく)、不甚留意(はなはだしくはりゅういせず)」といっているのは、我国において初(はじめ)て手を校讐(こうしゅう)の事に下(くだ) した抽斎らに対して、備わるを求むることの太(はなは)だ過ぎたるものではなかろうか。  我国における考証学の系統は、海保漁村に従えば、吉田篁 ※(「土へん+敦」、第3水準1-15-63) (よしだこうとん)が首唱し、狩谷 ※(「木+夜」、第3水準1-85-76) 斎(えきさい)がこれに継いで起り、以て抽斎と枳園とに及んだものである。そして篁 ※(「土へん+敦」、第3水準1-15-63) の傍系には多紀桂山があり、 ※(「木+夜」、第3水準1-85-76) 斎の傍系には市野迷庵、多紀 ※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13) 庭(さいてい)、伊沢蘭軒、小島宝素(こじまほうそ)があり、抽斎と枳園との傍系には多紀暁湖、伊沢柏軒、小島抱沖(ほうちゅう)、堀川舟庵と漁村自己 とがあるというのである。宝素は元表医師百五十俵三十人扶持小島春庵で、和泉橋通(いずみばしどおり)に住していた。名は尚質(しょうしつ)、一字(じ )は学古(がくこ)である。抱沖はその子春沂(しゅんき)で、百俵寄合(よりあい)医師から出て父の職を襲(つ)ぎ、家は初め下谷(したや)二長町(に ちょうまち)、後日本橋(にほんばし)榑正町(くれまさちょう)にあった。名は尚真(しょうしん)である。春沂の後(のち)は春澳(しゅんいく)、名は 尚絅(しょうけい)が嗣(つ)いだ。春澳の子は現に北海道室蘭(むろらん)にいる杲一(こういち)さんである。陸実(くがみのる)が新聞『日本』に抽斎 の略伝を載せた時、誤って宝素を小島成斎とし、抱沖を成斎の子としたが、今に ※(「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53) (いた)るまで誰(たれ)もこれを匡(ただ)さずにいる。またこの学統について、長井金風(ながいきんぷう)さんは篁 ※(「土へん+敦」、第3水準1-15-63) の前に井上蘭台(いのうえらんだい)と井上金峨(きんが)とを加えなくてはならぬといっている。要するにこれらの諸家が新に考証学の領域を開拓して、抽 斎が枳園と共に、まさに纔(わずか)に全著を成就するに至ったのである。  わたくしは『訪古志』と『留真譜』との二書は、今少し重く評価して可なるものであろうと思う。そして頃日(けいじつ)国書刊行会が『訪古志』を『解題 叢書』中に収めて縮刷し、その伝を弘むるに至ったのを喜ぶのである。 その五十五  抽斎の医学上の著述には、『素問識小(そもんしきしょう)』、『素問校異』、『霊枢(れいすう)講義』がある。就中(なかんずく)『素問』は抽斎の精 を殫(つく)して研窮した所である。海保漁村撰の墓誌に、抽斎が『説文(せつもん)』を引いて『素問』の陰陽結斜は結糾(けつきゅう)の訛(か)なりと 説いたことが載せてある。また七損八益を説くに、『玉房秘訣(ぎょくぼうひけつ)』を引いて説いたことが載せてある。『霊枢』の如きも「不精則不正当人 言亦人人異(せいならざればすなわちせいとうたらずじんげんまたじんじんことなる)」の文中、抽斎が正当を連文(れんぶん)となしたのを賞してある。抽 斎の説には発明極(きわめ)て多く、此(かく)の如き類はその一斑(いっぱん)に過ぎない。  抽斎遺す所の手沢本(しゅたくぼん)には、往々欄外書のあるものを見る。此の如き本には『老子』がある。『難経(なんけい)』がある。  抽斎の詩はその余事に過ぎぬが、なお『抽斎吟稿』一巻が存している。以上は漢文である。 『護痘要法』は抽斎か池田京水(けいすい)の説を筆受(ひつじゅ)したもので、抽斎の著述中江戸時代に刊行せられた唯一の書である。  雑著には『晏子(あんし)春秋筆録』、『劇神仙話』、『高尾考(たかおこう)』がある。『劇神仙話』は長島五郎作の言(こと)を録したものである。『 高尾考』は惜(おし)むらくは完書をなしていない。 『※語(えいご)[#「衛/心」、U+39A3、165-14]』は抽斎が国文を以て学問の法程を記(き)して、及門(きゅうもん)の子弟に示す小冊子 に命じた名であろう。この文の末尾に「天保辛卯(しんぼう)季秋(きしゅう)抽斎酔睡(すいすい)中に※言(えいげん)[#「衛/心」、U+39A3、 165-15]す」と書してある。辛卯は天保二年で、抽斎が二十七歳の時である。しかし現存している一巻には、この国文八枚が紅色(こうしょく)の半紙 に写してあって、その前に白紙に写した漢文の草稿二十九枚が合綴(ごうてつ)してある。その目(もく)を挙ぐれば、煩悶異文弁(はんもんいぶんべん)、 仏説阿弥陀経碑(ぶっせつあみだきょうひ)、春秋外伝国語跋(ばつ)、荘子注疏(そうしちゅうそ)跋、儀礼跋、八分書孝経(はちふんしょこうきょう)跋 、橘録(きつろく)跋、冲虚至徳真経釈文(ちゅうきょしとくしんきょうしゃくぶん)跋、青帰(せいき)書目蔵書目録跋、活字板左伝(さでん)跋、宋本校 正病源候論跋、元板(げんはん)再校千金方(せんきんほう)跋、書医心方後(いしんほうののちにしょす)、知久吉正翁墓碣(ちくよしまさおうぼけつ)、 駱駝考(らくだこう)、 ※(「やまいだれ+(攤−てへん)」、第3水準1-88-63) ※(「やまいだれ+奐」、第4水準2-81-62) (たんたん)、論語義疏跋、告蘭軒先生之霊(らんけんせんせいのれいにつぐ)の十八篇である。この一冊は表紙に「※[#「衛/心」、U+39A3、16 6-6]語、抽斎述」の五字が篆文(てんぶん)で題してあって、首尾渾(すべ)て抽斎の自筆である。徳富蘇峰(とくとみそほう)さんの蔵本になっている のを、わたくしは借覧した。  抽斎随筆、雑録、日記、備忘録の諸冊中には、今已(すで)に佚亡(いつぼう)したものもある。就中(なかんずく)日記は文政五年から安政五年に至るま での三十七年間にわたる記載であって、 ※(「褒」の「保」に代えて「臾−人」、第4水準2-88-19) 然(ほうぜん)たる大冊数十巻をなしていた。これは上(かみ)直(ただ)ちに天明四年から天保八年に至るまでの五十四年間の允成(ただしげ)の日記に接 して、その中間の文政五年から天保八年に至るまでの十六年間は父子の記載が並存していたのである。この一大記録は明治八年二月に至るまで、保(たもつ) さんが蔵していた。然るに保さんは東京(とうけい)から浜松県に赴任するに臨んで、これを両掛(りょうがけ)に納めて、親戚の家に託した。親戚はその貴 重品たるを知らざるがために、これに十分の保護(ほうご)を加うることを怠った。そして悉(ことごと)くこれを失ってしまった。両掛の中にはなお前記の 抽斎随筆等十余冊があり、また允成の著(あらわ)す所の『定所(ていしょ)雑録』等約三十冊があった。想(おも)うにこの諸冊は既に屏風(びょうぶ)襖 (ふすま)葛籠(つづら)等の下貼(したばり)の料となったであろうか。それとも何人(なにひと)かの手に帰して、何処(どこ)かに埋没しているであろ うか。これを捜討(そうとう)せんと欲するに、由るべき道がない。保さんは今に ※(「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53) るまで歎惜して已(や)まぬのである。 『直舎(ちょくしゃ)伝記抄』八冊は今富士川游君が蔵している。中に題号を闕(か)いたものが三冊交っているが、主に弘前医官の宿直部屋の日記を抄写し たものである。上(かみ)は宝永元年から下(しも)は天保九年に至る。所々(しょしょ)に善(ぜん)云(いわく)と低書(ていしょ)した註がある。宝永 元年から天明五年に至る最古の一冊は題号がなく、引用書として『津軽一統志』、『津軽軍記』、『津陽(しんよう)開記』、『御系図(ごけいず)三通』、 『歴年亀鑑(きかん)』、『孝公行実(こうこうぎょうじつ)』、『常福寺由緒書(ゆいしょがき)』、『津梁(しんりょう)院過去帳抄』、『伝聞(でんぶ ん)雑録』、『東藩(とうはん)名数』、『高岡霊験記(たかおかれいげんき)』、『諸書案文(あんもん)』、『藩翰譜(はんかんぷ)』が挙げてある。こ れは諸書について、主に弘前医官に関する事を抄出したものであろう。 『四(よ)つの海』は抽斎の作った謡物(うたいもの)の長唄(ながうた)である。これは書と称すべきものではないが、前に挙げた『護痘要法』と倶(とも )に、江戸時代に刊行せられた二、三葉の綴文(とじぶみ)である。 『仮面の由来』、これもまた片々(へんぺん)たる小冊子である。 その五十六 『呂后千夫(りょこうせんふ)』は抽斎の作った小説である。庚寅(かのえとら)の元旦に書いたという自序があったそうであるから、その前年に成ったもの で、即ち文政十二年二十五歳の時の作であろう。この小説は五百(いお)が来り嫁した頃には、まだ渋江の家にあって、五百は数遍(すへん)読過したそうで ある。或時それを筑山左衛門(ちくさんさえもん)というものが借りて往った。筑山は下野国(しもつけのくに)足利(あしかが)の名主だということであっ た。そして終(つい)に還(かえ)さずにしまった。以上は国文で書いたものである。  この著述の中(うち)刊行せられたものは『経籍訪古志』、『留真譜』、『護痘要法』、『四つの海』の四種に過ぎない。その他は皆写本で、徳富蘇峰さん の所蔵の『※語(えいご)[#「衛/心」、U+39A3、168-8]』、富士川游さんの所蔵の『直舎(ちょくしゃ)伝記抄』及(および)已(すで)に 散佚(さんいつ)した諸書を除く外は、皆保(たもつ)さんが蔵している。  抽斎の著述は概(おおむ)ね是(かく)の如きに過ぎない。致仕した後(のち)に、力を述作に肆(ほしいまま)にしようと期していたのに、不幸にして疫 癘(えきれい)のために命(めい)を隕(おと)し、かつて内に蓄うる所のものが、遂に外(ほか)に顕(あらわ)るるに及ばずして已(や)んだのである。  わたくしは此(ここ)に抽斎の修養について、少しく記述して置きたい。考証家の立脚地から観(み)れば、経籍は批評の対象である。在来の文を取って渾 侖(こんろん)に承認すべきものではない。是(ここ)において考証家の末輩(まつばい)には、破壊を以て校勘の目的となし、毫(ごう)もピエテエの迹( あと)を存せざるに至るものもある。支那における考証学亡国論の如きは、固(もと)より人文(じんぶん)進化の道を蔽塞(へいそく)すべき陋見(ろうけ ん)であるが、考証学者中に往々修養のない人物を出(い)だしたという暗黒面は、その存在を否定すべきものではあるまい。  しかし真の学者は考証のために修養を廃するような事はしない。ただ修養の全(まった)からんことを欲するには、考証を闕(か)くことは出来ぬと信じて いる。何故(なにゆえ)というに、修養には六経(りくけい)を窮めなくてはならない。これを窮むるには必ず考証に須(ま)つことがあるというのである。  抽斎はその『※語(えいご)[#「衛/心」、U+39A3、169-9]』中にこういっている。「凡(およ)そ学問の道は、六経(りくけい)を治め聖 人(せいじん)の道を身に行ふを主とする事は勿論(もちろん)なり。扨(さて)其(その)六経を読み明(あきら)めむとするには必ず其一言(いちげん) 一句をも審(つまびらか)に研究せざるべからず。一言一句を研究するには、文字(もんじ)の音義を詳(つまびらか)にすること肝要なり。文字の音義を詳 にするには、先(ま)づ善本を多く求めて、異同を比讐(ひしゅう)し、謬誤(びゅうご)を校正し、其字句を定めて後(のち)に、小学に熟練して、義理始 て明了なることを得(う)。譬(たと)へば高きに登るに、卑(ひく)きよりし、遠きに至るに近きよりするが如く、小学を治め字句を校讐するは、細砕(さ いさい)の末業(まつぎょう)に似たれども、必ずこれをなさざれば、聖人の大道微意を明むること能(あた)はず。(中略)故に百家の書読まざるべきもの なく、さすれば人間一生の内になし得がたき大業(たいぎょう)に似たれども、其内主(しゅ)とする所の書を専(もっぱ)ら読むを緊務とす。それはいづれ にも師とする所の人に随(したが)ひて教(おしえ)を受くべき所なり。さて斯(かく)の如く小学に熟練して後に、六経を窮めたらむには、聖人の大道微意 に通達すること必ず成就すべし」といっている。  これは抽斎の本領を道破したもので、考証なしには六経に通ずることが出来ず、六経に通ずることが出来なくては、何に縁(よ)って修養して好(い)いか 分からぬことになるというのである。さて抽斎の此(かく)の如き見解は、全く師市野迷庵の教(おしえ)に本づいている。 その五十七  迷庵の考証学が奈何(いか)なるものかということは、『読書指南』について見るべきである。しかしその要旨は自序一篇に尽されている。迷庵はこういっ た。「孔子(こうし)は堯舜(ぎょうしゅん)三代の道を述べて、其(その)流義を立て給(たま)へり。堯舜より以下を取れるは、其事の明(あきらか)に 伝はれる所なればなり。されども春秋の比(ころ)にいたりて、世変り時遷(うつ)りて、其道一向に用ゐられず。孔子も遣(や)つては見給へども、遂に行 かず。終(つい)に魯(ろ)に還(かえ)り、六経を修めて後世に伝へらる。これその堯舜三代の道を認めたまふゆゑなり。儒者は孔子をまもりて其経を修む るものなり。故に儒者の道を学ばむと思はゞ、先づ文字を精出(せいだ)して覚ゆるがよし。次に九経(きゅうけい)をよく読むべし。漢儒の注解はみな古( いにしえ)より伝受あり。自分の臆説(おくせつ)をまじへず。故に伝来を守るが儒者第一の仕事なり。(中略)宋の時程頤(ていい)、朱熹(しゅき)等( ら)己(おの)が学を建てしより、近来伊藤源佐(いとうげんさ)、荻生惣右衛門(おぎゅうそうえもん)などと云(い)ふやから、みな己(おのれ)の学を 学とし、是非を争ひてやまず。世の儒者みな真闇(まっくら)になりてわからず。余も亦(また)少(わか)かりしより此(この)事を学びしが、迷ひてわか らざりし。ふと解する所あり。学令の旨(むね)にしたがひて、それ/″\の古書をよむがよしと思へり」といった。  要するに迷庵も抽斎も、道に至るには考証に由(よ)って至るより外ないと信じたのである。固(もと)よりこれは捷径(しょうけい)ではない。迷庵が精 出して文字を覚えるといい、抽斎が小学に熟練するといっているこの事業は、これがために一人(いちにん)の生涯を費(ついや)すかも知れない。幾多のジ ェネラションのこの間に生じ来り滅し去ることを要するかも知れない。しかし外に手段の由るべきものがないとすると、学者は此(ここ)に従事せずにはいら れぬのである。  然らば学者は考証中に没頭して、修養に遑(いとま)がなくなりはせぬか。いや。そうではない。考証は考証である。修養は修養である。学者は考証の長途 を歩みつつ、不断の修養をなすことが出来る。  抽斎はそれをこう考えている。百家の書に読まないで好(い)いものはない。十三経(ぎょう)といい、九経といい、六経という。列(なら)べ方はどうで も好いが、秦火(しんか)に焚(や)かれた楽経(がくけい)は除くとして、これだけは読破しなくてはならない。しかしこれを読破した上は、大いに功を省 くことが出来る。「聖人の道と事々(ことごと)しく云(い)へども、前に云へる如く、六経を読破したる上にては、論語、老子の二書にて事足るなり。其中 にも過猶不及(すぎたるはなおおよばざるがごとし)を身行(しんこう)の要とし、無為不言(ぶいふげん)を心術の掟(おきて)となす。此二書をさへ能( よ)く守ればすむ事なり」というのである。  抽斎は百尺竿頭(ひゃくせきかんとう)更に一歩を進めてこういっている。「但(ただし)論語の内には取捨すべき所あり。王充(おうじゅう)書(しょ) の問孔篇(もんこうへん)及迷庵師の論語数条を論じたる書あり。皆参考すべし」といっている。王充のいわゆる「夫聖賢下筆造文(それせいけんのふでをく だしぶんをつくるや)、用意詳審(いをもちいてくわしくつまびらかにするも)、尚未可謂尽得実(なおいまだことごとくはじつをうというべからず)、況倉 卒吐言(いわんやそうそつのとげん)、安能皆是(いずくんぞよくみなぜならんや)」という見識である。  抽斎が『老子』を以て『論語』と並称するのも、師迷庵の説に本づいている。「天は蒼々(そうそう)として上(かみ)にあり。人は両間(りょうかん)に 生れて性皆相近し。習(ならい)相遠きなり。世の始より性なきの人なし。習なきの俗なし。世界万国皆其国々の習ありて同じからず。其習は本性の如く人に しみ附きて離れず。老子は自然と説く。其(そ)れ是(これ)歟(か)。孔子曰(いわく)。述而不作(のべてつくらず)。信而好古(しんじていにしえをこ のむ)。窃比我於老彭(ひそかにわれをろうほうにひす)。かく宣給(のたも)ふときは、孔子の意も亦(また)自然に相近し」といったのが即ちこれである 。 その五十八  抽斎は『老子』を尊崇(そんそう)せんがために、先ずこれをヂスクレヂイに陥(おとし)いれた仙術を、道教の畛域(しんいき)外に逐(お)うことを謀 (はか)った。これは早く清(しん)の方維甸(ほういでん)が嘉慶板(かけいばん)の『抱朴子(ほうぼくし)』に序して弁じた所である。さてこの洗冤( せんえん)を行(おこな)った後(のち)にこういっている。「老子の道は孔子と異なるに似たれども、その帰する所は一意なり。不患人不己知(ひとのおの れをしらざるをうれえず)及曾子(そうし)の有若無(あれどもなきがごとく)実若虚(じつなれどもきょなるがごとし)などと云(い)へる、皆老子の意に 近し。且(かつ)自然と云ふこと、万事にわたりて然らざることを得ず。(中略)又仏家(ぶっか)に漠然(まくねん)に帰すると云ふことあり。是(こ)れ 空(くう)に体する大乗の教(おしえ)なり。自然と云ふより一層あとなき言(こと)なり。その小乗の教は一切の事皆式に依りて行へとなり。孔子の道も孝 悌(こうてい)仁義(じんぎ)より初めて諸礼法は仏家の小乗なり。その一以貫之(いつもってこれをつらぬく)は此教を一にして執中(しっちゅう)に至り 初て仏家大乗の一場(いちじょう)に至る。執中以上を語れば、孔子釈子同じ事なり」といっている。  抽斎は終(つい)に儒、道、釈の三教の帰一に到着した。もしこの人が旧新約書を読んだなら、あるいはその中(うち)にも契合点(けいごうてん)を見出 だして、彼(か)の安井息軒(やすいそっけん)の『弁妄(べんもう)』などと全く趣を殊(こと)にした書を著(あらわ)したかも知れない。  以上は抽斎の手記した文について、その心術身行(しんこう)の由(よ)って来(きた)る所を求めたものである。この外、わたくしの手元には一種の語録 がある。これは五百(いお)が抽斎に聞き、保さんが五百に聞いた所を、頃日(このごろ)保さんがわたくしのために筆に上(のぼ)せたのである。わたくし は今漫(みだり)に潤削を施すことなしに、これを此(ここ)に収めようと思う。  抽斎は日常宋儒のいわゆる虞廷(ぐてい)の十六字を口にしていた。彼(か)の「人心惟危(じんしんこれあやうく)、道心惟微(どうしんこれびなり)、 惟精惟一(これせいこれいつ)、允執厥中(まことにそのちゅをとる)[#ルビの「まことにそのちゅをとる」はママ]」の文である。上(かみ)の三教帰一 の教は即ちこれである。抽斎は古文尚書の伝来を信じた人ではないから、これを以て堯の舜に告げた言(こと)となしたのでないことは勿論である。そのこれ を尊重したのは、古言(こげん)古義として尊重したのであろう。そして惟精惟一(これせいこれいつ)の解釈は王陽明(おうようめい)に従うべきだといっ ていたそうである。  抽斎は『礼(れい)』の「清明在躬(せいめいみにあれば)、志気如神(しきしんのごとし)」の句と、『素問(そもん)』の上古天真論(じょうこてんし んろん)の「恬 ※(「りっしんべん+炎」、第3水準1-84-52) 虚無(てんたんとしてきょむならば)、真気従之(しんきこれにしたがう)、精神内守(せいしんうちにまもれば)、病安従来(やまいいずくんぞしたがいき たらん)」の句とを誦(しょう)して、修養して心身の康寧(こうねい)を致すことが出来るものと信じていた。抽斎は眼疾を知らない。歯痛を知らない。腹 痛は幼い時にあったが、壮年に及んでからは絶(たえ)てなかった。しかし虎列拉(コレラ)の如き細菌の伝染をば奈何(いかん)ともすることを得なかった 。  抽斎は自ら戒め人を戒むるに、しばしば沢山咸(たくざんかん)の「九四爻(きゅうしこう)」を引いていった。学者は仔細(しさい)に「憧憧往来(しょ うしょうとしておうらいすれば)、朋従爾思(ともはなんじのおもいにしたがう)」という文を味(あじわ)うべきである。即ち「君子素其位而行(くんしは そのくらいにそしておこない)、不願乎其外(そのほかをねがわず)」の義である。人はその地位に安んじていなくてはならない。父允成(ただしげ)がおる 所の室(しつ)を容安室(ようあんしつ)と名づけたのは、これがためである。医にして儒を羨(うらや)み、商にして士を羨むのは惑えるものである。「天 下何思何慮(てんかなにをかおもいなにをかおもんぱからん)、天下同帰而殊塗(てんかきをおなじくしてみちをことにし)、一致而百慮(ちをいつにしてり ょをひゃくにす)」といい、「日往則月来(ひゆけばすなわちつききたり)、月往則日来(つきゆかばすなわちひきたり)、日月相推而明生焉(じつげつあい おしてひかりうまる)、寒往則暑来(かんゆけばすなわちしょきたり)、暑往則寒来(しょゆけばすなわちかんきたり)、寒暑相推而歳成焉(かんしょあいお してとしなる)」というが如く、人の運命にもまた自然の消長がある。須(すべから)く自重して時の到(いた)るを待つべきである。 「尺蠖之屈(せきかくのくっするは)、以求信也(もってのびんことをもとむるなり)、龍蛇之蟄(りょうだのかくるるは)、以存身也(もってみをながらえ るなり)」とはこれの謂(いい)であるといった。五百の兄広瀬栄次郎が已(すで)に町人を罷(や)めて金座(きんざ)の役人となり、その後(のち)久し く金(かね)の吹替(ふきかえ)がないのを見て、また業を更(あらた)めようとした時も、抽斎はこの爻(こう)を引いて諭(さと)した。 その五十九  抽斎はしばしば地雷復(ちらいふく)の初九爻(しょきゅうこう)を引いて人を諭した。「不遠復无祗悔(とおからずしてかえるくいにいたることなし)」 の爻である。過(あやまち)を知って能(よ)く改むる義で、顔淵(がんえん)の亜聖たる所以(ゆえん)は此(ここ)に存するというのである。抽斎はいつ もその跡で言い足した。しかし顔淵の好処(こうしょ)は啻(ただ)にこれのみではない。「回之為人也(かいのひととなりや)、択乎中庸(ちゅうようをえ らび)、得一善(いちぜんをうれば)、則拳拳服膺(すなわちけんけんふくようして)、而弗失之矣(これをうしなわず)」というのがこれである。孔子が子 貢(しこう)にいった語に、顔淵を賞して、「吾与汝(われとなんじと)、弗如也(しかざるなり)」といったのも、これがためであるといった。  抽斎はかつていった。「為政以徳(まつりごとをなすにとくをもってすれば)、譬如北辰(たとえばほくしんの)、居其所(そのところにいて)、而衆星共 之(しゅうせいのこれにむかうがごとし)」というのは、独(ひとり)君道を然(しか)りとなすのみではない。人は皆奈何(いかに)したら衆星が己(おの れ)に共(むか)うだろうかと工夫しなくてはならない。能(よ)くこれを致すものは即ち「 ※(「禊のつくり」の「大」に代えて「糸」、第3水準1-90-4) 矩之道(けっくのみち)」である。韓退之(かんたいし)は「其責己也重以周(そのおのれをせむるやおもくしてもってあまねく)、其待人也軽以約(そのひ とをまつやかるくしてもってやくす)」といった。人と交(まじわ)るには、その長を取って、その短を咎(とが)めぬが好(い)い。「無求備於一人(いち にんにそなわるをもとむるなかれ)」といい、「及其使人也器之(そのひとをつかうにおよびてやこれをきとす)」というは即ちこれである。これを推し広め て言えば、『老子』の「治大国(たいこくをおさむるは)、若烹小鮮(しょうせんをにるごとし)」という意に帰著(きちゃく)する。「大道廃有仁義(だい どうすたれてじんぎあり)」といい、「聖人不死(せいじんはしせざれば)、大盗不止(たいとうはやまず)」というのも、その反面を指(ゆびさ)して言っ たのである。己(おれ)も往事を顧(かえりみ)れば、動(やや)もすれば ※(「禊のつくり」の「大」に代えて「糸」、第3水準1-90-4) 矩(けっく)の道において闕(か)くる所があった。妻(さい)岡西氏徳(とく)を疎(うと)んじたなどもこれがためである。幸(さいわい)に父に匡救( きょうきゅう)せられて悔い改むることを得た。平井東堂(ひらいとうどう)は学あり識ある傑物である。然るにその父は用人たることを得て、己(おのれ) は用人たることを得ない。己(おれ)はその何故(なにゆえ)なるを知らぬが、修養の足らざるのもまた一因をなしているだろう。比良野助太郎は才に短であ るが、人はかえってこれに服する。賦性が自(おのずか)ら ※(「禊のつくり」の「大」に代えて「糸」、第3水準1-90-4) 矩の道に ※(「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1-84-56) (かな)っているのであるといった。  抽斎はまたいった。『孟子(もうし)』の好処は尽心(じんしん)の章にある。「君子有三楽(くんしさんらくあり)、而王天下(しかもてんかにおうたる は)、不与存焉(あずかりそんぜず)、父母倶存(ふぼともにそんし)、兄弟無故(けいていことなきは)、一楽也(いちらくなり)、仰不愧於天(あおぎて てんにはじず)、俯不 ※(「りっしんべん+乍」、第3水準1-84-42) 於人(ふしてひとにはじざるは)、二楽也(にらくなり)、得天下英才(てんかのえいさいをえて)、而教育之(これをきょういくするは)、三楽也(さんら くなり)」というのがこれである。『韓非子(かんぴし)』は主道、揚権(ようけん)、解老(かいろう)、喩老(ゆろう)の諸篇が好(い)いといった。  これらの言(こと)を聞いた後(のち)に、抽斎の生涯を回顧すれば、誰人(たれひと)もその言行一致を認めずにはいられまい。抽斎は内(うち)徳義を 蓄え、外(ほか)誘惑を却(しりぞ)け、恒(つね)に己(おのれ)の地位に安んじて、時の到るを待っていた。我らは抽斎の一たび徴(め)されて起(た) ったのを見た。その躋寿館(せいじゅかん)の講師となった時である。我らは抽斎のまさに再び徴(め)されて辞せんとするのを見た。恐らくはそのまさに奥 医師たるべき時であっただろう。進むべくして進み、辞すべくして辞する、その事に処するに、綽々(しゃくしゃく)として余裕があった。抽斎の咸(かん) の九四(きゅうし)を説いたのは虚言ではない。  抽斎の森枳園(きえん)における、塩田良三(りょうさん)における、妻岡西氏における、その人を待つこと寛宏(かんこう)なるを見るに足る。抽斎は ※(「禊のつくり」の「大」に代えて「糸」、第3水準1-90-4) 矩の道において得る所があったのである。  抽斎の性行とその由って来(きた)る所とは、ほぼ上述の如くである。しかしここにただ一つ剰(あま)す所の問題がある。嘉永安政の時代は天下の士人を して悉(ことごと)く岐路に立たしめた。勤王に之(ゆ)かんか、佐幕に之かんか。時代はその中間において鼠(ねずみ)いろの生を偸(ぬす)むことを容( ゆる)さなかった。抽斎はいかにこれに処したか。  この問題は抽斎をして思慮を費(ついや)さしむることを要せなかった。何故(なにゆえ)というに、渋江氏の勤王は既に久しく定まっていたからである。 その六十  渋江氏の勤王はその源委(げんい)を詳(つまびらか)にしない。しかし抽斎の父允成に至って、師柴野栗山(しばのりつざん)に啓発せられたことは疑を 容(い)れない。允成が栗山に従学した年月は明(あきらか)でないが、栗山が五十三歳で幕府の召(めし)に応じて江戸に入(い)った天明八年には、允成 が丁度二十五歳になっていた。家督してから四年の後(のち)である。允成が栗山の門に入ったのは、恐らくはその後(ご)久しきを経ざる間の事であっただ ろう。これは栗山が文化四年十二月朔(さく)に七十二歳で歿したとして推算したものである。  允成の友にして抽斎の師たりし市野迷庵が勤王家であったことは、その詠史の諸作に徴して知ることが出来る。この詩は維新後森枳園(きえん)が刊行した 。抽斎は啻(ただ)に家庭において王室を尊崇(そんそう)する心を養成せられたのみでなく、また迷庵の説を聞いて感奮したらしい。  抽斎の王室における、常に耿々(こうこう)の心を懐(いだ)いていた。そしてかつて一たびこれがために身命を危(あやう)くしたことがある。保さんは これを母五百に聞いたが、憾(うら)むらくはその月日を詳にしない。しかし本所においての出来事で、多分安政三年の頃であったらしいということである。  或日手島良助(てじまりょうすけ)というものが抽斎に一の秘事を語った。それは江戸にある某貴人(きにん)の窮迫の事であった。貴人は八百両の金がな いために、まさに苦境に陥らんとしておられる。手島はこれを調達せんと欲して奔走しているが、これを獲(う)る道がないというのであった。抽斎はこれを 聞いて慨然として献金を思い立った。抽斎は自家の窮乏を口実として、八百両を先取(さきどり)することの出来る無尽講(むじんこう)を催した。そして親 戚故旧を会して金を醵出(きょしゅつ)せしめた。  無尽講の夜(よる)、客が已(すで)に散じた後(のち)、五百は沐浴(もくよく)していた。明朝(みょうちょう)金を貴人の許(もと)に齎(もたら) さんがためである。この金を上(たてまつ)る日は予(あらかじ)め手島をして貴人に稟(もう)さしめて置いたのである。  抽斎は忽(たちま)ち剥啄(はくたく)の声を聞いた。仲間(ちゅうげん)が誰何(すいか)すると、某貴人の使(つかい)だといった。抽斎は引見した。 来たのは三人の侍(さぶらい)である。内密に旨(むね)を伝えたいから、人払(ひとばらい)をしてもらいたいという。抽斎は三人を奥の四畳半に延(ひ) いた。三人の言う所によれば、貴人は明朝を待たずして金を獲ようとして、この使を発したということである。  抽斎は応ぜなかった。この秘事に与(あずか)っている手島は、貴人の許(もと)にあって職を奉じている。金は手島を介して上(たてまつ)ることを約し てある。面(おもて)を識(し)らざる三人に交付することは出来ぬというのである。三人は手島の来ぬ事故(じこ)を語った。抽斎は信ぜないといった。  三人は互(たがい)に目語(もくご)して身を起し、刀の ※(「木+覊」の「馬」に代えて「月」、第4水準2-15-85) (つか)に手を掛けて抽斎を囲んだ。そしていった。我らの言(こと)を信ぜぬというは無礼である。かつ重要の御使(おんつかい)を承わってこれを果さず に還(かえ)っては面目(めんぼく)が立たない。主人はどうしても金をわたさぬか。すぐに返事をせよといった。  抽斎は坐したままで暫(しばら)く口を噤(つぐ)んでいた。三人が偽(いつわり)の使だということは既に明(あきらか)である。しかしこれと格闘する ことは、自分の欲せざる所で、また能(あた)わざる所である。家には若党がおり諸生がおる。抽斎はこれを呼ぼうか、呼ぶまいかと思って、三人の気色(け しき)を覗(うかが)っていた。  この時廊下に足音がせずに、障子(しょうじ)がすうっと開(あ)いた。主客は斉(ひとし)く愕(おどろ)き ※(「目+台」、第3水準1-88-79) (み)た。 その六十一  刀の ※(「木+覊」の「馬」に代えて「月」、第4水準2-15-85) (つか)に手を掛けて立ち上った三人の客を前に控えて、四畳半の端(はし)近く坐していた抽斎は、客から目を放さずに、障子の開いた口を斜(ななめ)に 見遣(みや)った。そして妻五百の異様な姿に驚いた。  五百は僅(わずか)に腰巻(こしまき)一つ身に著(つ)けたばかりの裸体であった。口には懐剣を銜(くわ)えていた。そして閾際(しきいぎわ)に身を 屈(かが)めて、縁側に置いた小桶(こおけ)二つを両手に取り上げるところであった。小桶からは湯気(ゆげ)が立ち升(のぼ)っている。縁側(えんがわ )を戸口まで忍び寄って障子を開く時、持って来た小桶を下に置いたのであろう。  五百は小桶を持ったまま、つと一間(ひとま)に進み入って、夫を背にして立った。そして沸き返るあがり湯を盛った小桶を、右左の二人の客に投げ附け、 銜えていた懐剣を把(と)って鞘(さや)を払った。そして床(とこ)の間(ま)を背にして立った一人の客を睨(にら)んで、「どろぼう」と一声叫んだ。  熱湯を浴びた二人(ふたり)が先に、 ※(「木+覊」の「馬」に代えて「月」、第4水準2-15-85) (つか)に手を掛けた刀をも抜かずに、座敷から縁側へ、縁側から庭へ逃げた。跡の一人も続いて逃げた。  五百は仲間や諸生の名を呼んで、「どろぼう/\」という声をその間に挟んだ。しかし家に居合せた男らの馳(は)せ集るまでには、三人の客は皆逃げてし まった。この時の事は後々(のちのち)まで渋江の家の一つ話になっていたが、五百は人のその功を称するごとに、慙(は)じて席を遁(のが)れたそうであ る。五百は幼くて武家奉公をしはじめた時から、匕首(ひしゅ)一口(いっこう)だけは身を放さずに持っていたので、湯殿(ゆどの)に脱ぎ棄てた衣類の傍 (そば)から、それを取り上げることは出来たが、衣類を身に纏(まと)う遑(いとま)はなかったのである。  翌朝(よくちょう)五百は金を貴人の許(もと)に持って往った。手島の言(こと)によれば、これは献金としては受けられぬ、唯借上(かりあげ)になる のであるから、十カ年賦で返済するということであった。しかし手島が渋江氏を訪(と)うて、お手元(てもと)不如意(ふにょい)のために、今年(こんね ん)は返金せられぬということが数度あって、維新の年に至るまでに、還された金は些(すこし)ばかりであった。保さんが金を受け取りに往ったこともある そうである。  この一条は保さんもこれを語ることを躊躇(ちゅうちょ)し、わたくしもこれを書くことを躊躇した。しかし抽斎の誠心(まごころ)をも、五百の勇気をも 、かくまで明(あきらか)に見ることの出来る事実を湮滅(いんめつ)せしむるには忍びない。ましてや貴人は今は世に亡き御方(おんかた)である。あから さまにその人を斥(さ)さずに、ほぼその事を記(しる)すのは、あるいは妨(さまたげ)がなかろうか。わたくしはこう思惟(しゆい)して、抽斎の勤王を 説くに当って、遂にこの事に言い及んだ。  抽斎は勤王家ではあったが、攘夷家ではなかった。初め抽斎は西洋嫌(ぎらい)で、攘夷に耳を傾(かたぶ)けかねぬ人であったが、前にいったとおりに、 安積艮斎(あさかごんさい)の書を読んで悟る所があった。そして窃(ひそか)に漢訳の博物窮理の書を閲(けみ)し、ますます洋学の廃すべからざることを 知った。当時の洋学は主に蘭学であった。嗣子の保さんに蘭語を学ばせることを遺言したのはこれがためである。  抽斎は漢法医で、丁度蘭法医の幕府に公認せられると同時に世を去ったのである。この公認を贏(か)ち得るまでには、蘭法医は社会において奮闘した。そ して彼らの攻撃の衝に当ったものは漢法医である。その応戦の跡は『漢蘭酒話』、『一夕(いっせき)医話』等の如き書に徴して知ることが出来る。抽斎は敢 (あえ)て言(げん)をその間に挟(さしはさ)まなかったが、心中これがために憂え悶(もだ)えたことは、想像するに難からぬのである。 その六十二  わたくしは幕府が蘭法医を公認すると同時に抽斎が歿したといった。この公認は安政五年七月初(はじめ)の事で、抽斎は翌八月の末(すえ)に歿した。  これより先幕府は安政三年二月に、蕃書調所(ばんしょしらべしょ)を九段(くだん)坂下(さかした)元小姓組番頭格(ばんがしらかく)竹本主水正(も んどのしょう)正懋(せいぼう)の屋敷跡に創設したが、これは今の外務省の一部に外国語学校を兼(かね)たようなもので、医術の事には関せなかった。越 えて安政五年に至って、七月三日に松平薩摩守(さつまのかみ)斉彬(なりあきら)家来戸塚静海(とつかせいかい)、松平肥前守斉正(なりまさ)家来伊東 玄朴(いとうげんぼく)、松平三河守慶倫(よしとも)家来遠田澄庵(とおだちょうあん)、松平駿河守勝道(かつつね)家来青木春岱(しゅんたい)に奥医 師を命じ、二百俵三人扶持を給した。これが幕府が蘭法医を任用した権輿(けんよ)で、抽斎の歿した八月二十八日に先(さきだ)つこと、僅に五十四日であ る。次いで同じ月の六日に、幕府は御(おん)医師即ち官医中有志のものは「阿蘭(オランダ)医術兼学致(いたし)候とも不苦(くるしからず)候」と令し た。翌日また有馬左兵衛佐(さひょうえのすけ)道純(みちずみ)家来竹内玄同(たけうちげんどう)、徳川賢吉(けんきち)家来伊東貫斎(かんさい)が奥 医師を命ぜられた。この二人(ににん)もまた蘭法医である。  抽斎がもし生きながらえていて、幕府の聘(へい)を受けることを肯(がえん)じたら、これらの蘭法医と肩を比(くら)べて仕えなくてはならなかったで あろう。そうなったら旧思想を代表すべき抽斎は、新思想を齎(もたら)し来(きた)った蘭法医との間に、厭(いと)うべき葛藤(かっとう)を生ずること を免れなかったかも知れぬが、あるいはまた彼(か)の多紀 ※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13) 庭(さいてい)の手に出(い)でたという無名氏の『漢蘭酒話』、平野革谿(ひらのかくけい)の『一夕医話』等と趣を殊(こと)にした、真面目(しんめん ぼく)な漢蘭医法比較研究の端緒が此(ここ)に開かれたかも知れない。  抽斎の日常生活に人に殊なる所のあったことは、前にも折に触れて言ったが、今遺(のこ)れるを拾って二、三の事を挙げようと思う。抽斎は病を以て防ぎ 得べきものとした人で、常に摂生に心を用いた。飯は朝午(あさひる)各(おのおの)三椀(さんわん)、夕二椀半と極(き)めていた。しかもその椀の大き さとこれに飯を盛る量とが厳重に定めてあった。殊に晩年になっては、嘉永二年に津軽信順(のぶゆき)が抽斎のこの習慣を聞き知って、長尾宗右衛門に命じ て造らせて賜わった椀のみを用いた。その形は常の椀よりやや大きかった。そしてこれに飯を盛るに、婢(ひ)をして盛らしむるときは、過不及(かふきゅう )を免れぬといって、飯を小さい櫃(ひつ)に取り分けさせ、櫃から椀に盛ることを、五百の役目にしていた。朝の未醤汁(みそしる)も必ず二椀に限ってい た。  菜蔬(さいそ)は最も莱 ※(「くさかんむり/服」、第4水準2-86-29) (だいこん)を好んだ。生で食うときは大根(だいこ)おろしにし、烹(に)て食うときはふろふきにした。大根おろしは汁を棄てず、醤油(しょうゆ)など を掛けなかった。  浜名納豆(はまななっとう)は絶やさずに蓄えて置いて食べた。  魚類(ぎょるい)では方頭魚(あまだい)の未醤漬(みそづけ)を嗜(たし)んだ。畳鰯(たたみいわし)も喜んで食べた。鰻(うなぎ)は時々食べた。  間食は殆(ほとん)ど全く禁じていた。しかし稀(まれ)に飴(あめ)と上等の煎餅(せんべい)とを食べることがあった。  抽斎が少壮時代に毫(ごう)も酒を飲まなかったのに、天保八年に三十三歳で弘前に往ってから、防寒のために飲みはじめたことは、前にいったとおりであ る。さて一時は晩酌の量がやや多かった。その後(のち)安政元年に五十歳になってから、猪口(ちょく)に三つを踰(こ)えぬことにした。猪口は山内忠兵 衛の贈った品で、宴に赴くにはそれを懐(ふところ)にして家を出た。  抽斎は決して冷酒(れいしゅ)を飲まなかった。然(しか)るに安政二年に地震に逢(あ)って、ふと冷酒を飲んだ。その後(ご)は偶(たまたま)飲むこ とがあったが、これも三杯の量を過さなかった。 その六十三  鰻を嗜(たし)んだ抽斎は、酒を飲むようになってから、しばしば鰻酒ということをした。茶碗に鰻の蒲焼(かばやき)を入れ、些(すこ)しのたれを注ぎ 、熱酒(ねつしゅ)を湛(たた)えて蓋(ふた)を覆(おお)って置き、少選(しばらく)してから飲むのである。抽斎は五百(いお)を娶(めと)ってから 、五百が少しの酒に堪えるので、勧めてこれを飲ませた。五百はこれを旨(うま)がって、兄栄次郎と妹壻長尾宗右衛門とに侑(すす)め、また比良野貞固( さだかた)に飲ませた。これらの人々は後に皆鰻酒を飲むことになった。  飲食を除いて、抽斎の好む所は何かと問えば、読書といわなくてはならない。古刊本、古抄本を講窮することは抽斎終生の事業であるから、ここに算せない 。医書中で『素問(そもん)』を愛して、身辺を離さなかったこともまた同じである。次は『説文(せつもん)』である。晩年には毎月(まいげつ)説文会を 催して、小島成斎、森枳園(きえん)、平井東堂、海保竹逕(ちくけい)、喜多村栲窓(きたむらこうそう)、栗本鋤雲(じょうん)等を集(つど)えた。竹 逕は名を元起(げんき)、通称を弁之助(べんのすけ)といった。本(もと)稲村(いなむら)氏で漁村の門人となり、後に養われて子となったのである。文 政七年の生(うまれ)で、抽斎の歿した時、三十五歳になっていた。栲窓は名を直寛(ちょくかん)、字(あざな)を士栗(しりつ)という。通称は安斎(あ んさい)、後(のち)父の称安政(あんせい)を襲(つ)いだ。香城(こうじょう)はその晩年の号である。経(けい)を安積艮斎(あさかごんさい)に受け 、医を躋寿館(せいじゅかん)に学び、父槐園(かいえん)の後(のち)を承(う)けて幕府の医官となり、天保十二年には三十八歳で躋寿館の教諭になって いた。栗本鋤雲は栲窓の弟である。通称は哲三(てつぞう)、栗本氏に養わるるに及んで、瀬兵衛(せへえ)と改め、また瑞見(ずいけん)といった。嘉永三 年に二十九歳で奥医師になっていた。  説文会には島田篁村(こうそん)も時々列席した。篁村は武蔵国大崎(おおさき)の名主(なぬし)島田重規(ちょうき)の子である。名は重礼(ちょうれ い)、字は敬甫(けいほ)、通称は源六郎(げんろくろう)といった。艮斎、漁村の二家に従学していた。天保九年生であるから、嘉永、安政の交(こう)に はなお十代の青年であった。抽斎の歿した時、豊村は丁度二十一になっていたのである。  抽斎の好んで読んだ小説は、赤本(あかほん)、菎蒻本(こんにゃくぼん)、黄表紙(きびょうし)の類(るい)であった。想(おも)うにその自ら作った 『呂后千夫(りょこうせんふ)』は黄表紙の体(たい)に倣(なら)ったものであっただろう。  抽斎がいかに劇を好んだかは、劇神仙の号を襲(つ)いだというを以て、想見することが出来る。父允成(ただしげ)がしばしば戯場(ぎじょう)に出入( しゅつにゅう)したそうであるから、殆ど遺伝といっても好(よ)かろう。然るに嘉永二年に将軍に謁見した時、要路の人が抽斎に忠告した。それは目見(め みえ)以上の身分になったからは、今より後(のち)市中の湯屋に往(ゆ)くことと、芝居小屋に立ち入ることとは遠慮するが宜(よろ)しいというのであっ た。渋江の家には浴室の設(もうけ)があったから、湯屋に往くことは禁ぜられても差支(さしつかえ)がなかった。しかし観劇を停(とど)められるのは、 抽斎の苦痛とする所であった。抽斎は隠忍して姑(しばら)く忠告に従っていた。安政二年の地震の日に観劇したのは、足掛七年ぶりであったということであ る。  抽斎は森枳園と同じく、七代目市川団十郎を贔屓(ひいき)にしていた。家に伝わった俳名三升(さんしょう)、白猿(はくえん)の外に、夜雨庵(やうあ ん)、二九亭、寿海老人と号した人で、葺屋町(ふきやちょう)の芝居茶屋丸屋(まるや)三右衛門(さんえもん)の子、五世団十郎の孫である。抽斎より長 ずること十四年であったが、抽斎に一年遅れて、安政六年三月二十三日に六十九歳で歿した。  次に贔屓にしたのは五代目沢村宗十郎(さわむらそうじゅうろう)である。源平(げんべえ)、源之助、訥升(とつしょう)、宗十郎、長十郎、高助(たか すけ)、高賀(こうが)と改称した人で、享和二年に生れ、嘉永六年十一月十五日に五十二歳で歿した。抽斎より長ずること三年であった。四世宗十郎の子、 脱疽(だっそ)のために脚を截(き)った三世田之助(たのすけ)の父である。 その六十四  劇を好む抽斎はまた照葉狂言(てりはきょうげん)をも好んだそうである。わたくしは照葉狂言というものを知らぬので、青々園(せいせいえん)伊原(い はら)さんに問いに遣った。伊原さんは喜多川季荘(きたがわきそう)の『近世風俗志』に、この演戯の起原沿革の載せてあることを報じてくれた。  照葉狂言は嘉永の頃大阪の蕩子(とうし)四、五人が創意したものである。大抵能楽の間(あい)の狂言を模し、衣裳(いしょう)は素襖(すおう)、上下 (かみしも)、熨斗目(のしめ)を用い、科白(かはく)には歌舞伎(かぶき)狂言、俄(にわか)、踊等の状(さま)をも交え取った。安政中江戸に行われ て、寄場(よせば)はこれがために雑沓(ざっとう)した。照葉とは天爾波(てには)俄(にわか)の訛略(かりゃく)だというのである。  伊原さんはこの照葉の語原は覚束(おぼつか)ないといっているが、いかにも輒(すなわ)ち信じがたいようである。  能楽は抽斎の楽(たのし)み看(み)る所で、少(わか)い頃謡曲を学んだこともある。偶(たまたま)弘前の人村井宗興(そうこう)と相逢うことがある と、抽斎は共に一曲を温習した。技の妙が人の意表に出たそうである。  俗曲は少しく長唄を学んでいたが、これは謡曲の妙に及ばざること遠かった。  抽斎は鑑賞家として古画を翫(もてあそ)んだが、多く買い集むることをばしなかった。谷文晁(たにぶんちょう)の教(おしえ)を受けて、実用の図を作 る外に、往々自ら人物山水をも画(えが)いた。 「古武鑑」、古江戸図、古銭は抽斎の聚珍家(しゅうちんか)として蒐集(しゅうしゅう)した所である。わたくしが初め「古武鑑」に媒介せられて抽斎を識 (し)ったことは、前にいったとおりである。  抽斎は碁を善くした。しかし局に対することが少(まれ)であった。これは自ら ※(「にんべん+敬」、第3水準1-14-42) (いまし)めて耽(ふけ)らざらんことを欲したのである。  抽斎は大名の行列を観(み)ることを喜んだ。そして家々の鹵簿(ろぼ)を記憶して忘れなかった。「新武鑑」を買って、その図に着色して自ら娯(たのし )んだのも、これがためである。この嗜好(しこう)は喜多静廬(せいろ)の祭礼を看ることを喜んだのと頗(すこぶ)る相類(あいるい)している。  角兵衛獅子(かくべえじし)が門に至れば、抽斎が必ず出て看たことは、既に言った。  庭園は抽斎の愛する所で、自ら剪刀(はさみ)を把(と)って植木の苅込(かりこみ)をした。木の中では御柳(ぎょりゅう)を好んだ。即ち『爾雅(じが )』に載せてある ※(「木+蟶のつくり」、第3水準1-86-19) (てい)である。雨師(うし)、三春柳(さんしゅんりゅう)などともいう。これは早く父允成の愛していた木で、抽斎は居を移すにも、遺愛の御柳だけは常 におる室(しつ)に近い地に栽(う)え替えさせた。おる所を観柳書屋(かんりゅうしょおく)と名づけた柳字も、楊柳(ようりゅう)ではない、 ※(「木+蟶のつくり」、第3水準1-86-19) 柳である。これに反して柳原(りゅうげん)書屋の名は、お玉が池の家が柳原(やなぎはら)に近かったから命じたのであろう。  抽斎は晩年に最も雷(かみなり)を嫌った。これは二度まで落雷に遭(あ)ったからであろう。一度は新(あらた)に娶(めと)った五百と道を行く時の事 であった。陰(くも)った日の空が二人(ふたり)の頭上において裂け、そこから一道(いちどう)の火が地上に降(くだ)ったと思うと、忽(たちま)ち耳 を貫く音がして、二人は地に僵(たお)れた。一度は躋寿館(せいじゅかん)の講師の詰所(つめしょ)に休んでいる時の事であった。詰所に近い厠(かわや )の前の庭へ落雷した。この時厠に立って小便をしていた伊沢柏軒は、前へ倒れて、門歯二枚を朝顔(あさがお)に打ち附けて折った。此(かく)の如くに反 覆して雷火に脅(おびや)されたので、抽斎は雷声を悪(にく)むに至ったのであろう。雷が鳴り出すと、蚊 ※(「巾+廚」、第4水準2-12-1) (かや)の中(うち)に坐して酒を呼ぶことにしていたそうである。  抽斎のこの弱点は偶(たまたま)森枳園がこれを同じうしていた。枳園の寿蔵碑の後(のち)に門人青山(あおやま)道醇(どうじゅん)らの書した文に、 「夏月畏雷震(かげつらいしんをおそれ)、発声之前必先知之(はっせいのまえかならずさきにこれをしる)」といってある。枳園には今一つ厭(いや)なも のがあった。それは蛞蝓(なめくじ)であった。夜(よる)行くのに、道に蛞蝓がいると、闇中(あんちゅう)においてこれを知った。門人の随(したが)い 行くものが、燈火(ともしび)を以て照し見て驚くことがあったそうである。これも同じ文に見えている。 その六十五  抽斎は平姓(へいせい)で、小字(おさなな)を恒吉(つねきち)といった。人と成った後(のち)の名は全善(かねよし)、字(あざな)は道純(どうじ ゅん)、また子良(しりょう)である。そして道純を以て通称とした。その号抽斎の抽字は、本(もと)※(ちゅう)[#「箝」の「甘」に代えて「澑のつく り」、U+7C52、192-1]に作った。※[#「箝」の「甘」に代えて「澑のつくり」、U+7C52、192-1]、※(ちゅう)[#「てへん+澑 のつくり」、U+3A45、192-1]、抽の三字は皆相通ずるのである。抽斎の手沢本(しゅたくぼん)には※[#「箝」の「甘」に代えて「澑のつくり 」、U+7C52、192-2]斎校正の篆印(てんいん)が殆(ほとん)ど必ず捺(お)してある。  別号には観柳書屋、柳原(りゅうげん)書屋、三亦堂(さんえきどう)、目耕肘(もくこうちゅう)書斎、今未是翁(こんみぜおう)、不求甚解(ふきゅう じんかい)翁等がある。その三世劇神仙(げきしんせん)と称したことは、既にいったとおりである。  抽斎はかつて自ら法諡(ほうし)を撰んだ。容安院(ようあんいん)不求甚解居士(ふきゅうじんかいこじ)というのである。この字面(じめん)は妙なら ずとはいいがたいが、余りに抽象的である。これに反して抽斎が妻五百(いお)のために撰んだ法諡は妙極(きわ)まっている。半千院(はんせんいん)出藍 終葛大姉(しゅつらんしゅうかつだいし)というのである。半千は五百、出藍は紺屋町(こんやちょう)に生れたこと、終葛は葛飾郡(かつしかごおり)で死 ぬることである。しかし世事(せいじ)の転変は逆覩(げきと)すべからざるもので、五百は本所(ほんじょ)で死ぬることを得なかった。  この二つの法諡はいずれも石に彫(え)られなかった。抽斎の墓には海保漁村の文を刻した碑が立てられ、また五百の遺骸は抽斎の墓穴(ぼけつ)に合葬せ られたからである。  大抵伝記はその人の死を以て終るを例とする。しかし古人を景仰(けいこう)するものは、その苗裔(びょうえい)がどうなったかということを問わずには いられない。そこでわたくしは既に抽斎の生涯を記(しる)し畢(おわ)ったが、なお筆を投ずるに忍びない。わたくしは抽斎の子孫、親戚、師友等のなりゆ きを、これより下(しも)に書き附けて置こうと思う。  わたくしはこの記事を作るに許多(あまた)の障礙(しょうがい)のあることを自覚する。それは現存の人に言い及ぼすことが漸(ようや)く多くなるに従 って、忌諱(きき)すべき事に撞着(とうちゃく)することもまた漸く頻(しきり)なることを免れぬからである。この障礙は上(かみ)に抽斎の経歴を叙し て、その安政中の末路に近づいた時、早く既に頭(こうべ)を擡(もたげ)げて来た。これから後(のち)は、これが弥(いよいよ)筆端に纏繞(てんじょう )して、厭(いと)うべき拘束を加えようとするであろう。しかしわたくしはよしや多少の困難があるにしても、書かんと欲する事だけは書いて、この稿を完 (まっと)うするつもりである。  渋江の家には抽斎の歿後に、既にいうように、未亡人五百、陸(くが)、水木(みき)、専六、翠暫(すいざん)、嗣子成善(しげよし)と矢島氏を冒した 優善(やすよし)とが遺っていた。十月朔(さく)に才(わずか)に二歳で家督相続をした成善と、他の五人の子との世話をして、一家(いっか)の生計を立 てて行かなくてはならぬのは、四十三歳の五百であった。  遺子六人の中で差当り問題になっていたのは、矢島優善の身の上である。優善は不行跡(ふぎょうせき)のために、二年前(ぜん)に表医者から小普請医者 に貶(へん)せられ、一年前(ぜん)に表医者介(すけ)に復し、父を喪う年の二月に纔(わずか)に故(もと)の表医者に復することが出来たのである。  しかし当時の優善の態度には、まだ真に改悛(かいしゅん)したものとは看做(みな)しにくい所があった。そこで五百(いお)は旦暮(たんぼ)周密にそ の挙動を監視しなくてはならなかった。  残る五人の子の中(うち)で、十二歳の陸、六歳の水木、五歳の専六はもう読書、習字を始めていた。陸や水木には、五百が自ら句読(くとう)を授け、手 跡(しゅせき)は手を把(と)って書かせた。専六は近隣の杉四郎(すぎしろう)という学究の許(もと)へ通っていたが、これも五百が復習させることに骨 を折った。また専六の手本は平井東堂が書いたが、これも五百が臨書だけは手を把って書かせた。午餐後(ごさんご)日の暮れかかるまでは、五百は子供の背 後(うしろ)に立って手習(てならい)の世話をしたのである。 その六十六  邸内に棲(すま)わせてある長尾の一家(いっけ)にも、折々多少の風波(ふうは)が起る。そうすると必ず五百(いお)が調停に往(ゆ)かなくてはなら なかった。その争(あらそい)は五百が商業を再興させようとして勧めるのに、安(やす)が躊躇(ちゅうちょ)して決せないために起るのである。宗右衛門 (そうえもん)の長女敬(けい)はもう二十一歳になっていて、生得(しょうとく)やや勝気なので、母をして五百の言(こと)に従わしめようとする。母は これを拒みはせぬが、さればとて実行の方へは、一歩も踏み出そうとはしない。ここに争は生ずるのであった。  さてこれが鎮撫(ちんぶ)に当るものが五百でなくてはならぬのは、長尾の家でまだ宗右衛門が生きていた時からの習慣である。五百の言(こと)には宗右 衛門が服していたので、その妻や子もこれに抗することをば敢(あえ)てせぬのである。  宗右衛門が妻(さい)の妹の五百を、啻(ただ)抽斎の配偶として尊敬するのみでなく、かくまでに信任したには、別に来歴がある。それは或時宗右衛門が 家庭のチランとして大いに安を虐待して、五百の厳(きびし)い忠告を受け、涙を流して罪を謝したことがあって、それから後(のち)は五百の前に項(うな じ)を屈したのである。  宗右衛門は性質亮直(りょうちょく)に過ぐるともいうべき人であったが、癇癪持(かんしゃくもち)であった。今から十二年前(ぜん)の事である。宗右 衛門はまだ七歳の銓(せん)に読書を授け、この子が大きくなったなら士(さむらい)の女房(にょうぼう)にするといっていた。銓は記性(きせい)があっ て、書を善く読んだ。こういう時に、宗右衛門が酒気を帯びていると、銓を側に引き附けて置いて、忍耐を教えるといって、戯(たわむれ)のように煙管(キ セル)で頭を打つことがある。銓は初め忍んで黙っているが、後(のち)には「お父(と)っさん、厭(いや)だ」といって、手を挙げて打つ真似(まね)を する。宗右衛門は怒(いか)って「親に手向(てむかい)をするか」といいつつ、銓を拳(こぶし)で乱打する。或日こういう場合に、安が停(と)めようと すると、宗右衛門はこれをも髪を攫(つか)んで拉(ひ)き倒して乱打し、「出て往(ゆ)け」と叫んだ。  安は本(もと)宗右衛門の恋女房である。天保五年三月に、当時阿部家に仕えて金吾(きんご)と呼ばれていた、まだ二十歳の安が、宿に下(さが)って堺 町(さかいちょう)の中村座へ芝居を看(み)に往った。この時宗右衛門は安を見初(みそ)めて、芝居がはねてから追尾(ついび)して行って、紺屋町の日 野屋に入るのを見極めた。同窓の山内栄次郎の家である。さては栄次郎の妹であったかというので、直ちに人を遣(や)って縁談を申し込んだのである。  こうしたわけで貰(もら)われた安も、拳の下(もと)に崩れた丸髷(まるまげ)を整える遑(いとま)もなく、山内へ逃げ帰る。栄次郎の忠兵衛は広瀬を 名告(なの)る前の頃で、会津屋(あいづや)へ調停に往くことを面倒がる。妻はおいらん浜照(はまてる)がなれの果で何の用にも立たない。そこで偶(た またま)渋江の家から来合せていた五百に、「どうかして遣ってくれ」という。五百は姉を宥(なだ)め賺(すか)して、横山町へ連れて往った。  会津屋に往って見れば、敬はうろうろ立ち廻っている。銓はまだ泣いている。妻(さい)の出た跡で、更に酒を呼んだ宗右衛門は、気味の悪い笑顔(えがお )をして五百を迎える。五百は徐(しずか)に詫言(わびごと)を言う。主人はなかなか聴(き)かない。暫(しばら)く語を交えている間に、主人は次第に 饒舌(じょうぜつ)になって、光 ※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64) 万丈(こうえんばんじょう)当るべからざるに至った。宗右衛門は好んで故事を引く。偽書(ぎしょ)『孔叢子(こうそうし)』の孔氏三世妻を出(いだ)し たという説が出る。祭仲(さいちゅう)の女(むすめ)雍姫(ようき)が出る。斎藤太郎左衛門(さいとうたろうざえもん)の女(むすめ)が出る。五百はこ れを聞きつつ思案した。これは負けていては際限がない。例(ためし)を引いて論ずることなら、こっちにも言分(いいぶん)がないことはない。そこで五百 も論陣を張って、旗鼓(きこ)相当(あいあた)った。公父(こうふ)文伯(ぶんはく)の母季敬姜(きけいきょう)を引く。顔之推(がんしすい)の母を引 く。終(つい)に「大雅思斉(たいがしせい)」の章の「刑干寡妻(かさいをただし)、至干兄弟(けいていにいたり)、以御干家邦(もってかほうをぎょす )」を引いて、宗右衛門が ※(「廱−广」、第4水準2-91-84) 々(ようよう)の和を破るのを責め、声色(せいしょく)共に ※(「厂+萬」、第3水準1-14-84) (はげ)しかった。宗右衛門は屈服して、「なぜあなたは男に生れなかったのです」といった。  長尾の家に争が起るごとに、五百が来なくてはならぬということになるには、こういう来歴があったのである。 その六十七  抽斎の歿した翌年安政六年には、十一月二十八日に矢島優善(やすよし)が浜町中屋敷詰の奥通(おくどおり)にせられた。表医者の名を以て信順(のぶゆ き)の側(かたわら)に侍することになったのである。今なお信頼しがたい優善が、責任ある職に就(つ)いたのは、五百のために心労を増す種であった。  抽斎の姉須磨(すま)の生んだ長女延(のぶ)の亡くなったのは、多分この年の事であっただろう。允成(ただしげ)の実父稲垣清蔵の養子が大矢清兵衛( おおやせいべえ)で、清兵衛の子が飯田良清(いいだよしきよ)で、良清の女(むすめ)がこの延である。容貌(ようぼう)の美しい女で、小舟町(こぶねち ょう)の鰹節問屋(かつおぶしどいや)新井屋半七(あらいやはんしち)というものに嫁していた。良清の長男直之助(なおのすけ)は早世して、跡には養子 孫三郎(まござぶろう)と、延の妹路(みち)とが残った。孫三郎の事は後に見えている。  抽斎歿後の第二年は万延(まんえん)元年である。成善(しげよし)はまだ四歳であったが、夙(はや)くも浜町中屋敷の津軽信順(のぶゆき)に近習とし て仕えることになった。勿論(もちろん)時々機嫌を伺いに出るに止(とど)まっていたであろう。この時新に中小姓になって中屋敷に勤める矢川文一郎(や がわぶんいちろう)というものがあって、穉(おさな)い成善の世話をしてくれた。  矢川には本末(ほんばつ)両家がある。本家は長足流(ちょうそくりゅう)の馬術を伝えていて、世文内(よよぶんない)と称した。先代文内の嫡男与四郎 (よしろう)は、当時順承(ゆきつぐ)の側用人になって、父の称を襲(つ)いでいた。妻児玉(こだま)氏は越前国敦賀(つるが)の城主酒井(さかい)右 京亮(うきょうのすけ)忠 ※(「田+比」、第3水準1-86-44) (ただやす)の家来某の女(むすめ)であった。二百石八人扶持の家である。与四郎の文内に弟があり、妹があって、彼を宗兵衛(そうべえ)といい、此(こ れ)を岡野(おかの)といった。宗兵衛は分家して、近習小姓倉田小十郎(こじゅうろう)の女(むすめ)みつを娶(めと)った。岡野は順承附の中臈(ちゅ うろう)になった。実は妾(しょう)である。  文一郎はこの宗兵衛の長子である。その母の姉妹には林有的(はやしゆうてき)の妻、佐竹永海(さたけえいかい)の妻などがある。佐竹は初め山内氏五百 を娶らんとして成らず、遂に矢川氏を納(い)れた。某(それ)の年の元日に佐竹は山内へ廻礼に来て、庭に立っていた五百の手を※(と)[#「てへん+參 」、U+647B、198-15]ろうとすると、五百はその手を強く引いて放した。佐竹は庭の池に墜(お)ちた。山内では佐竹に栄次郎の衣服を著(き) せて帰した。五百は後に抽斎に嫁してから、両国中村楼の書画会に往って、佐竹と邂逅(かいこう)した。そして佐竹の数人の芸妓(げいぎ)に囲まれている のを見て、「佐竹さん、相変らず英雄色(いろ)を好むとやらですね」といった。佐竹は頭を掻(か)いて苦笑したそうである。  文一郎の父は早く世を去って、母みつは再嫁した。そこで文一郎は津軽家に縁故のある浅草常福寺(じょうふくじ)にあずけられた。これは嘉永四年の事で 、天保十二年生(うまれ)の文一郎は十一歳になっていた。  文一郎は寺で人と成って、渋江家で抽斎の亡くなった頃、本家の文内の許(もと)に引き取られた。そして成善が近習小姓を仰付けられる少し前に、二十歳 で信順の中小姓になったのである。  文一郎は頗(すこぶ)る姿貌(しぼう)があって、心自(みずか)らこれを恃(たの)んでいた。当時吉原(よしわら)の狎妓(こうぎ)の許に足繁(あし しげ)く通って、遂に夫婦の誓(ちかい)をした。或夜文一郎はふと醒(さ)めて、傍(かたわら)に臥(ふ)している女を見ると、一眼(いちがん)を大き く ※(「目+爭」、第3水準1-88-85) 開(みひら)いて眠っている。常に美しいとばかり思っていた面貌の異様に変じたのに驚いて、肌(はだ)に粟(あわ)を生じたが、忽(たちまち)また魘夢 (えんむ)に脅(おびやか)されているのではないかと疑って、急に身を起した。女が醒めてどうしたのかと問うた。文一郎が答はいまだ半(なかば)ならざ るに、女は満臉(まんけん)に紅(こう)を潮(ちょう)して、偏盲(へんもう)のために義眼を装っていることを告げた。そして涙を流しつつ、旧盟を破ら ずにいてくれと頼んだ。文一郎は陽にこれを諾して帰って、それきりこの女と絶ったそうである。 その六十八  わたくしは少時の文一郎を伝うるに、辞(ことば)を費すことやや多きに至った。これは単に文一郎が穉(おさな)い成善(しげよし)を扶掖(ふえき)し たからではない。文一郎と渋江氏との関係は、後に漸(ようや)く緊密になったからである。文一郎は成善の姉壻になったからである。文一郎さんは赤坂台町 (あかさかだいまち)に現存している人ではあるが、恐(おそら)くは自ら往事を談ずることを喜ばぬであろう。その少時の事蹟には二つの活(い)きた典拠 がある。一つは矢川文内の二女お鶴(つる)さんの話で、一つは保さんの話である。文内には三子二女があった。長男俊平(しゅんぺい)は宗家を嗣(つ)い で、その子蕃平(しげへい)さんが今浅草向柳原町(むこうやなぎはらちょう)に住しているそうである。俊平の弟は鈕平(ちゅうへい)、録平(ろくへい) である。女子は長を鉞(えつ)といい、次(つぎ)を鑑(かん)という。鑑は後に名を鶴と更(あらた)めた。中村勇左衛門即ち今弘前桶屋町(おけやまち) にいる範一(はんいち)さんの妻で、その子の範(すすむ)さんとわたくしとは書信の交通をしているのである。  成善はこの年十月朔(ついたち)に海保漁村と小島成斎との門に入(い)った。海保の塾は下谷(したや)練塀小路(ねりべいこうじ)にあった。いわゆる 伝経廬(でんけいろ)である。下谷は卑※(ひしつ)[#「さんずい+(一/(幺+幺)/土)」、U+6EBC、201-2]の地なるにもかかわらず、庭 には梧桐(ごとう)が栽(う)えてあった。これは漁村がその師大田錦城(おおたきんじょう)の風(ふう)を慕って栽えさせたのである。当時漁村は六十二 歳で、躋寿館(せいじゅかん)の講師となっていた。また陸奥国(むつのくに)八戸(はちのへ)の城主南部(なんぶ)遠江守(とうとうみのかみ)信順(の ぶゆき)と越前国鯖江(さばえ)の城主間部(まなべ)下総守詮勝(あきかつ)とから五人扶持ずつの俸を受けていた。しかし躋寿館においても、家塾におい ても、大抵養子竹逕(ちくけい)が代講をしていたのである。  小島成斎は藩主阿部正寧(まさやす)の世には、辰(たつ)の口(くち)の老中屋敷にいて、安政四年に家督相続をした賢之助(けんのすけ)正教(まさの り)の世になってから、昌平橋内(うち)の上屋敷にいた。今の神田淡路町(あわじちょう)である。手習に来る児童の数は頗(すこぶ)る多く、二階の三室 に机を並べて習うのであった。成善が相識の兄弟子には、嘉永二年生(うまれ)で十二歳になる伊沢鉄三郎(いさわてつさぶろう)がいた。柏軒の子で、後に 徳安(とくあん)と称し、維新後に磐(いわお)と更(あらた)めた人である。成斎は手に鞭(むち)を執って、正面に坐していて、筆法を誤ると、鞭の尖( さき)で指(ゆびさ)し示した。そして児童を倦(う)ましめざらんがためであろうか、諧謔(かいぎゃく)を交えた話をした。その相手は多く鉄三郎であっ た。成善はまだ幼いので、海保へ往くにも、小島へ往くにも若党に連れられて行った。鉄三郎にも若党が附いて来たが、これは父が奥詰(おくづめ)医師にな っているので、従者らしく附いて来たのである。  抽斎の墓碑が立てられたのもこの年である。海保漁村の墓誌はその文が頗る長かったのを、豊碑(ほうひ)を築き起して世に傲(おご)るが如き状(じょう )をなすは、主家に対して憚(はばかり)があるといって、文字(もんじ)を識(し)る四、五人の故旧が来て、胥議(あいぎ)して斧鉞(ふえつ)を加えた 。その文の事を伝えて完(まった)からず、また間(まま)実に悖(もと)るものさえあるのは、この筆削のためである。  建碑の事が畢(おわ)ってから、渋江氏は台所町の邸を引き払って亀沢町(かめさわちょう)に移った。これは淀川過書船支配(よどがわかしょぶねしはい )角倉与一(すみのくらよいち)の別邸を買ったのである。角倉の本邸は飯田町(いいだまち)黐木坂下(もちのきざかした)にあって、主人は京都で勤めて いた。亀沢町の邸には庭があり池があって、そこに稲荷(いなり)と和合神(わごうじん)との祠(ほこら)があった。稲荷は亀沢稲荷といって、初午(はつ うま)の日には参詣人(さんけいにん)が多く、縁日商人(あきうど)が二十余(あまり)の浮舗(やたいみせ)を門前に出すことになっていた。そこで角倉 は邸を売るに、初午の祭をさせるという条件を附けて売った。今相生(あいおい)小学校になっている地所である。  これまで渋江の家に同居していた矢島優善が、新に本所緑町に一戸を構えて分立したのは、亀沢町の家に渋江氏の移るのと同時であった。 その六十九  矢島優善をして別に一家(いっか)をなして自立せしめようということは、前年即ち安政六年の末(すえ)から、中丸昌庵(なかまるしょうあん)が主とし て勧説した所である。昌庵は抽斎の門人で、多才能弁を以て儕輩(せいはい)に推されていた。文政元年生(うまれ)であるから、当時四十三歳になって、食 禄二百石八人扶持、近習医者の首位におった。昌庵はこういった。「優善さんは一時の心得違(ちがえ)から貶黜(へんちつ)を受けた。しかし幸(さいわい )に過(あやまち)を改めたので、一昨年故(もと)の地位に複(かえ)り、昨年は奥通(おくどおり)をさえ許された。今は抽斎先生が亡くなられてから、 もう二年立って、優善さんは二十六歳になっている。わたくしは去年からそう思っているが、優善さんの奮って自ら新(あらた)にすべき時は今である。それ には一家を構えて、責(せめ)を負って事に当らなくてはならない」といった。既にして二、三のこれに同意を表するものも出来たので、五百(いお)は危( あやぶ)みつつこの議を納(い)れたのである。比良野貞固(さだかた)は初め昌庵に反対していたが、五百が意を決したので、復(また)争わなくなった。  優善の移った緑町の家は、渾名(あだな)を鳩(はと)医者と呼ばれた町医佐久間(さくま)某の故宅である。優善は妻鉄(てつ)を家に迎え取り、下女( げじょ)一人(いちにん)を雇って三人暮しになった。  鉄は優善の養父矢島玄碩(げんせき)の二女である。玄碩、名を優 ※(「鷂のへん+系」、第3水準1-90-20) (やすしげ)といった。本(もと)抽斎の優善に命じた名は允善(ただよし)であったのを、矢島氏を冒すに及んで、養父の優字を襲用したのである。玄碩の 初(はじめ)の妻(さい)某氏には子がなかった。後妻(こうさい)寿美(すみ)は亀高村喜左衛門(かめたかむらきざえもん)というものの妹で、仮親(か りおや)は上総国(かずさのくに)一宮(いちのみや)の城主加納(かのう)遠江守久徴(ひさあきら)の医官原芸庵(はらうんあん)である。寿美が二女を 生んだ。長を環(かん)といい、次を鉄という。嘉永四年正月二十三日に寿美が死し、五月二十四日に九歳の環が死し、六月十六日に玄碩が死し、跡には僅( わずか)に六歳の鉄が遺(のこ)った。  優善はこの時矢島氏に入(い)って末期養子(まつごようし)となったのである。そしてその媒介者は中丸昌庵であった。  中丸は当時その師抽斎に説くに、頗る多言を費(ついや)し、矢島氏の祀(まつり)を絶つに忍びぬというを以て、抽斎の情誼(じょうぎ)に愬(うった) えた。なぜというに、抽斎が次男優善をして矢島氏の女壻たらしむるのは大いなる犠牲であったからである。玄碩の遺した女(むすめ)鉄は重い痘瘡(とうそ う)を患(うれ)えて、瘢痕(はんこん)満面、人の見るを厭(いと)う醜貌であった。  抽斎は中丸の言(こと)に動(うごか)されて、美貌の子優善を鉄に与えた。五百(いお)は情として忍びがたくはあったが、事が夫の義気に出(い)でて いるので、強いて争うことも出来なかった。  この事のあった年、五百は二月四日に七歳の棠(とう)を失い、十五日に三歳の癸巳(きし)を失っていた。当時五歳の陸(くが)は、小柳町(こやなぎち ょう)の大工の棟梁(とうりょう)新八が許(もと)に里に遣られていたので、それを喚(よ)び帰そうと思っていると、そこへ鉄が来て抱かれて寝ることに なり、陸は翌年まで里親の許に置かれた。  棠は美しい子で、抽斎の女(むすめ)の中(うち)では純(いと)と棠との容姿が最も人に褒(ほ)められていた。五百の兄栄次郎は棠の踊を看(み)る度 に、「食い附きたいような子だ」といった。五百も余り棠の美しさを云々(うんぬん)するので、陸は「お母(か)あ様の姉(ね)えさんを褒めるのを聞いて いると、わたしなんぞはお化(ばけ)のような顔をしているとしか思われない」といい、また棠の死んだ時、「大方お母あ様はわたしを代(かわり)に死なせ たかったのだろう」とさえいった。 その七十  女(むすめ)棠(とう)が死んでから半年(はんねん)の間、五百(いお)は少しく精神の均衡を失して、夕暮になると、窓を開けて庭の闇(やみ)を凝視 していることがしばしばあった。これは何故(なにゆえ)ともなしに、闇の裏(うち)に棠の姿が見えはせぬかと待たれたのだそうである。抽斎は気遣(きづ か)って、「五百、お前にも似ないじゃないか、少ししっかりしないか」と飭(いまし)めた。  そこへ矢島玄碩の二女、優善(やすよし)の未来の妻たる鉄が来て、五百に抱かれて寝ることになった、 ※(「虫+果」、第4水準2-87-59) ※(「羸」の「羊」に代えて「虫」、第4水準2-87-91) (から)の母は情を矯(た)めて、 ※(「日+匿」、第4水準2-14-16) (なじみ)のない人の子を賺(すか)しはぐくまなくてはならなかったのである。さて眠っているうちに、五百はいつか懐(ふところ)にいる子が棠だと思っ て、夢現(ゆめうつつ)の境にその体を撫(な)でていた。忽(たちま)ち一種の恐怖に襲われて目を開(あ)くと、痘痕(とうこん)のまだ新しい、赤く引 き弔(つ)った鉄の顔が、触れ合うほど近い所にある。五百は覚えず咽(むせ)び泣いた。そして意識の明(あきらか)になると共に、「ほんに優善は可哀( かわい)そうだ」とつぶやくのであった。  緑町の家へ、優善がこの鉄を連れてはいった時は、鉄はもう十五歳になっていた。しかし世馴(よな)れた優善は鉄を子供扱(あつかい)にして、詞(こと ば)をやさしくして宥(なだ)めていたので、二人の間には何の衝突も起らずにいた。  これに反して五百の監視の下(もと)を離れた優善は、門を出(い)でては昔の放恣(ほうし)なる生活に立ち帰った。長崎から帰った塩田良三(りょうさ ん)との間にも、定めて聯絡(れんらく)が附いていたことであろう。この人たちは啻(ただ)に酒家妓楼(ぎろう)に出入(いでいり)するのみではなく、 常に無頼(ぶらい)の徒と会して袁耽(えんたん)の技を闘わした。良三の如きは頭を一つ竈(べっつい)にしてどてらを被(き)て街上(かいじょう)を闊 歩(かっぽ)したことがあるそうである。優善の背後には、もうネメシスの神が逼(せま)り近づいていた。  渋江氏が亀沢町に来る時、五百はまた長尾一族のために、本(もと)の小家(こいえ)を新しい邸に徙(うつ)して、そこへ一族を棲(すま)わせた。年月 (ねんげつ)は詳(つまびらか)にせぬが、長尾氏の二女の人に嫁したのは、亀沢町に来てからの事である。初め長女敬が母と共に坐食するに忍びぬといって 、媒(なかだち)するもののあるに任せて、猿若町(さるわかちょう)三丁目守田座附(もりたざつき)の茶屋三河屋力蔵(みかわやりきぞう)に嫁し、次で 次女銓(せん)も浅草須賀町(すがちょう)の呉服商桝屋儀兵衛(ますやぎへえ)に嫁した。未亡人は筆算が出来るので、敬の夫力蔵に重宝(ちょうほう)が られて、茶屋の帳場にすわることになった。  抽斎の蔵書は兼て三万五千部あるといわれていたが、この年亀沢町に徙(うつ)って検すると、既に一万部に満たなかった。矢島優善が台所町の土蔵から書 籍を搬出するのを、当時まだ生きていた兄恒善(つねよし)が見附けて、奪い還(かえ)したことがある。しかし人目に触れずに、どれだけ出して売ったかわ からない。或時は二階から本を索(なわ)に繋(つな)いで卸すと、街上に友人が待ち受けていて持ち去ったそうである。安政三年以後、抽斎の時々(じじ) 病臥(びょうが)することがあって、その間には書籍の散佚(さんいつ)することが殊(こと)に多かった。また人に貸して失った書も少くない。就中(なか んずく)森枳園(きえん)とその子養真とに貸した書は多く還らなかった。成善(しげよし)が海保の塾に入(い)った後には、海保竹逕(ちくけい)が数( しばしば)渋江氏に警告して、「大分御(ご)蔵書印のある本が市中に見えるようでございますから、御注意なさいまし」といった。  抽斎の心に懸けて死んだ躋寿館校刻の『医心方』は、この年完成して、森枳園らは白銀若干を賞賜せられた。  抽斎に洋学の必要を悟らせた安積艮斎(あさかごんさい)は、この年十一月二十二日に七十一歳で歿した。艮斎の歿した時の齢(よわい)は諸書に異同があ って、中に七十一としたものと七十六としたものとが多い。鈴木春浦(しゅんぽ)さんに頼んで、妙源寺の墓石と過去帖とを検してもらったが、並(ならび) に皆これを記していない。しかし文集を閲(けみ)するに、故郷の安達太郎山(あだたらやま)に登った記に、干支と年齢のおおよそとが書してあって、万延 元年に七十六に満たぬことは明白である。子文九郎重允(ぶんくろうちょういん)が家を嗣いだ。少(わか)い時疥癬(かいせん)のために衰弱したのを、父 が温泉に連れて往って治(ち)したことが、文集に見えている。抽斎は艮斎のワシントンの論讃を読んで、喜んで反復したそうである。恐(おそら)くは『洋 外紀略』の「嗚呼(ああ)話聖東(ワシントンは)、雖生於戎羯(じゅうけつにうまるといえども)、其為人(そのひととなりや)、有足多者(たりておおき ものあり)」云々の一節であっただろう。 その七十一  抽斎歿後第三年は文久元年である。年の初(はじめ)に五百(いお)は大きい本箱三つを成善(しげよし)の部屋に運ばせて、戸棚の中に入れた。そしてこ ういった。 「これは日本に僅(わずか)三部しかない善(い)い版の『十三経註疏(ぎょうちゅうそ)』だが、お父(と)う様がお前のだと仰(おっしゃ)った。今年は もう三回忌の来る年だから、今からお前の傍(そば)に置くよ」といった。  数日の後に矢島優善(やすよし)が、活花(いけばな)の友達を集めて会をしたいが、緑町の家には丁度好(い)い座敷がないから、成善の部屋を借りたい といった。成善は部屋を明け渡した。  さて友達という数人が来て、汁粉(しるこ)などを食って帰った跡で、戸棚の本箱を見ると、その中は空虚であった。  三月六日に優善は「身持(みもち)不行跡不埒(ふらち)」の廉(かど)を以て隠居を命ぜられ、同時に「御憐憫(ごれんびん)を以て名跡(みょうせき) 御立被下置(おんたてくだされおく)」ということになって、養子を入れることを許された。  優善のまさに養うべき子を選ぶことをば、中丸昌庵が引き受けた。然るに中丸の歓心を得ている近習詰百五十石六人扶持の医者に、上原元永(うえはらげん えい)というものがあって、この上原が町医伊達周禎(だてしゅうてい)を推薦した。  周禎は同じ年の八月四日を以て家督相続をして、矢島氏の禄二百石八人扶持を受けることになった。養父優善は二十七歳、養子周禎は文化十四年生(うまれ )で四十五歳になっていた。  周禎の妻を高(たか)といって、已(すで)に四子を生んでいた。長男周碩(しゅうせき)、次男周策、三男三蔵、四男玄四郎が即ちこれである。周禎が矢 島氏を冒した時、長男周碩は生得(しょうとく)不調法(ぶちょうほう)にして仕宦(しかん)に適せぬと称して廃嫡を請い、小田原(おだわら)に往って町 医となった。そこで弘化二年生の次男周策が嗣子に定まった。当時十七歳である。  これより先(さき)優善が隠居の沙汰(さた)を蒙(こうむ)った時、これがために最も憂えたものは五百で、最も憤(いきどお)ったものは比良野貞固( さだかた)である。貞固は優善を面責(めんせき)して、いかにしてこの辱(はずかしめ)を雪(すす)ぐかと問うた。優善は山田昌栄の塾に入(い)って勉 学したいと答えた。  貞固は先ず優善が改悛(かいしゅん)の状を見届けて、然(しか)る後(のち)に入塾せしめるといって、優善と妻鉄(てつ)とを自邸に引き取り、二階に 住(すま)わせた。  さて十月になってから、貞固は五百(いお)を招いて、倶(とも)に優善を山田の塾に連れて往った。塾は本郷弓町にあった。  この塾の月俸は三分二朱であった。貞固のいうには、これは聊(いささか)の金ではあるが、矢島氏の禄を受くる周禎が当然支出すべきもので、また優善の 修行中その妻鉄をも周禎があずかるが好(い)いといった。そしてこの二件を周禎に交渉した。周禎はひどく迷惑らしい答をしたが、後に渋りながらも承諾し た。想うに上原は周禎を矢島氏の嗣となすに当って、株の売渡(うりわたし)のような形式を用いたのであろう。上原は渋江氏に対して余り同情を有せぬ人で 、優善には屁(へ)の糟(かす)という渾名(あだな)をさえ附けていたそうである。  山田の塾には当時門人十九人が寄宿していたが、いまだ幾(いくばく)もあらぬに梅林松弥(うめばやしまつや)というものと優善とが塾頭にせられた。梅 林は初め抽斎に学び、後(のち)此(ここ)に来たもので、維新後名を潔(けつ)と改め、明治二十一年一月十四日に陸軍一等軍医を以て終った。  比良野氏ではこの年同藩の物頭(ものがしら)二百石稲葉丹下(いなばたんげ)の次男房之助(ふさのすけ)を迎えて養子とした。これは貞固が既に五十歳 になったのに、妻かなが子を生まぬからであった。房之助は嘉永四年八月二日生(うまれ)で、当時十一歳になっていて、学問よりは武芸が好(すき)であっ た。 その七十二  矢川氏ではこの年文一郎が二十一歳で、本所二つ目の鉄物問屋(かなものどいや)平野屋の女(むすめ)柳(りゅう)を娶(めと)った。  石塚重兵衛の豊芥子(ほうかいし)は、この年十二月十五日に六十三歳で歿した。豊芥子が渋江氏の扶助を仰ぐことは、殆(ほとん)ど恒例の如くになって いた。五百(いお)は石塚氏にわたす金を記(しる)す帳簿を持っていたそうである。しかし抽斎はこの人の文字(もんじ)を識(し)って、広く市井の事に 通じ、また劇の沿革を審(つまびらか)にしているのを愛して、来(きた)り訪(と)うごとに歓び迎えた。今抽斎に遅るること三年で世を去ったのである。  人の死を説いて、直ちにその非を挙げんは、後言(しりうごと)めく嫌(きらい)はあるが、抽斎の蔵書をして散佚(さんいつ)せしめた顛末(てんまつ) を尋ぬるときは、豊芥子もまた幾分の責(せめ)を分たなくてはならない。その持ち去ったのは主に歌舞音曲(おんぎょく)の書、随筆小説の類である。その 他書画骨董(こっとう)にも、この人の手から商估(しょうこ)の手にわたったものがある。ここに保さんの記憶している一例を挙げよう。抽斎の遺物に円山 応挙(まるやまおうきょ)の画(え)百枚があった。題材は彼(か)の名高い七難七福の図に似たもので、わたくしはその名を保さんに聞いて記憶しているが 、少しくこれを筆にすることを憚(はばか)る。装 ※(「さんずい+(廣−广)」、第3水準1-87-13) (そうこう)頗る美にして桐の箱入になっていた。この画と木彫(もくちょう)の人形数箇とを、豊芥子は某会に出陳するといって借りて帰った。人形は六歌 仙と若衆(わかしゅ)とで、寛永時代の物だとかいうことであった。これは抽斎が「三坊(さんぼう)には雛(ひな)人形を遣らぬ代(かわり)にこれを遣る 」といったのだそうである。三坊とは成善(しげよし)の小字(おさなな)三吉(さんきち)である。五百は度々清助(せいすけ)という若党を、浅草諏訪町 (すわちょう)の鎌倉屋へ遣って、催促して還(かえ)させようとしたが、豊芥子は言(こと)を左右に託して、遂にこれを還さなかった。清助は本(もと) 京都の両替店(りょうがえてん)銭屋(ぜにや)の息子(むすこ)で、遊蕩(ゆうとう)のために親に勘当せられ、江戸に来て渋江氏へ若党に住み込んだ。手 跡がなかなか好(い)いので、豊芥子の筆耕に傭(やと)われることになっていた。それゆえ鎌倉屋への使に立ったのである。  森枳園(きえん)が小野富穀(おのふこく)と口論をしたという話があって、その年月を詳(つまびらか)にせぬが、わたくしは多分この年の頃であろうと 思う。場所は山城河岸(やましろがし)の津藤(つとう)の家であった。例の如く文人、画師(えし)、力士、俳優、幇間(ほうかん)、芸妓(げいぎ)等の 大一座で、酒酣(たけなわ)なる比(ころ)になった。その中に枳園、富穀、矢島優善(やすよし)、伊沢徳安(とくあん)などが居合せた。初め枳園と富穀 とは何事をか論じていたが、万事を茶にして世を渡る枳園が、どうしたわけか大いに怒(いか)って、七代目賽(もどき)のたんかを切り、胖大漢(はんだい かん)の富穀をして色を失って席を遁(のが)れしめたそうである。富穀もまた滑稽(こっけい)趣味においては枳園に劣らぬ人物で、臍(へそ)で烟草(タ バコ)を喫(の)むという隠芸(かくしげい)を有していた。枳園とこの人とがかくまで激烈に衝突しようとは、誰(たれ)も思い掛(か)けぬので、優善、 徳安の二人は永くこの喧嘩(けんか)を忘れずにいた。想うに貨殖(かしょく)に長じた富穀と、人の物と我物との別に重きを置かぬ、無頓着(むとんじゃく )な枳園とは、その性格に相容(あいい)れざる所があったであろう。津藤(つとう)即ち摂津国屋(つのくにや)藤次郎(とうじろう)は、名は鱗(りん) 、字は冷和(れいわ)、香以(こうい)、鯉角(りかく)、梅阿弥(ばいあみ)等と号した。その豪遊を肆(ほしいまま)にして家産を蕩尽(とうじん)した のは、世の知る所である。文政五年生(うまれ)で、当時四十歳である。  この年の抽斎が忌日(きにち)の頃であった。小島成斎は五百に勧めて、なお存している蔵書の大半を、中橋埋地(なかばしうめち)の柏軒が家にあずけた 。柏軒は翌年お玉が池に第宅(ていたく)を移す時も、家財と共にこれを新居に搬(はこ)び入れて、一年間位鄭重(ていちょう)に保護(ほうご)していた 。 その七十三  抽斎歿後の第四年は文久二年である。抽斎は世にある日、藩主に活版薄葉刷(うすようずり)の『医方類聚(いほうるいじゅ)』を献ずることにしていた。 書は喜多村栲窓(きたむらこうそう)の校刻する所で、月ごとに発行せられるのを、抽斎は生を終るまで次を逐(お)って上(たてまつ)った。成善(しげよ し)は父の歿後相継いで納本していたが、この年に至って全部を献じ畢(おわ)った。八月十五日順承(ゆきつぐ)は重臣を以て成善に「御召御紋御羽織並御 酒御吸物」を賞賜した。  成善は二年前(ぜん)から海保竹逕(ちくけい)に学んで、この年十二月二十八日に、六歳にして藩主順承(ゆきつぐ)から奨学金二百匹を受けた。主(お も)なる経史(けいし)の素読(そどく)を畢(おわ)ったためである。母五百(いお)は子女に読書習字を授けて半日を費(ついや)すを常としていたが、 毫(ごう)も成善の学業に干渉しなかった。そして「あれは書物が御飯より好(すき)だから、構わなくても好(い)い」といった。成善はまた善く母に事( つか)うるというを以て、賞を受くること両度に及んだ。  この年十月十八日に成善が筆札(ひっさつ)の師小島成斎が六十七歳で歿した。成斎は朝生徒に習字を教えて、次(つい)で阿部家の館(やかた)に出仕し 、午時(ごじ)公退して酒を飲み劇を談ずることを例としていた。阿部家では抽斎の歿するに先だつこと一年、安政四年六月十七日に老中(ろうじゅう)の職 におった伊勢守正弘が世を去って、越えて八月に伊予守正教(まさのり)が家督相続をした。成善が従学してからは、成斎は始終正教に侍していたのである。 後に至って成善は朝の課業の喧擾(けんじょう)を避け、午後に訪(と)うて単独に教(おしえ)を受けた。そこで成斎の観劇談を聴くことしばしばであった 。成斎は卒中(そっちゅう)で死んだ。正弘の老中たりし時、成斎は用人格(ようにんかく)に擢(ぬきん)でられ、公用人服部(はっとり)九十郎と名を斉 (ひとし)うしていたが、二人(ににん)皆同病によって命を隕(おと)した。成斎には二子三女があって、長男生輒(せいしょう)は早世し、次男信之(の ぶゆき)が家を継いだ。通称は俊治(しゅんじ)である。俊治の子は鎰之助(いつのすけ)、鎰之助の養嗣子は、今本郷区駒込(こまごめ)動坂町(どうざか ちょう)にいる昌吉(しょうきち)さんである。高足(こうそく)の一人小此木辰太郎(おこのぎたつたろう)は、明治九年に工務省雇(やとい)になり、十 八年内閣属に転じ、十九年十二月一日から二十七年三月二十九日まで職を学習院に奉じて、生徒に筆札を授けていたが、明治二十八年一月に歿した。  成善がこの頃母五百と倶(とも)に浅草永住町(ながすみちょう)の覚音寺(かくおんじ)に詣(もう)でたことがある。覚音寺は五百の里方山内氏の菩提 所(ぼだいしょ)である。帰途二人(ふたり)は蔵前通(くらまえどおり)を歩いて桃太郎団子の店の前に来ると、五百の相識の女に邂逅(かいこう)した。 これは五百と同じく藤堂家に仕えて、中老になっていた人である。五百は久しく消息の絶えていたこの女と話がしたいといって、ほど近い横町(よこちょう) にある料理屋誰袖(たがそで)に案内した。成善も跡に附いて往った。誰袖は当時川長(かわちょう)、青柳(あおやぎ)、大七(だいしち)などと並称せら れた家である。  三人の通った座敷の隣に大一座(おおいちざ)の客があるらしかった。しかし声高(こえたか)く語り合うこともなく、矧(まし)てや絃歌(げんか)の響 などは起らなかった。暫(しばら)くあってその座敷が遽(にわか)に騒がしく、多人数(たにんず)の足音がして、跡はまたひっそりとした。  給仕(きゅうじ)に来た女中に五百が問うと、女中はいった。「あれは札差(ふださし)の檀那衆(だんなしゅ)が悪作劇(いたずら)をしてお出(いで) なすったところへ、お辰(たつ)さんが飛び込んでお出なすったのでございます。蒔(ま)き散らしてあったお金をそのままにして置いて、檀那衆がお逃(に げ)なさると、お辰さんはそれを持ってお帰(かえり)なさいました」といった。お辰というのは、後(のち)盗(ぬすみ)をして捕えられた旗本青木弥太郎 (あおきやたろう)の妾(しょう)である。  女中の語り畢(おわ)る時、両刀を帯びた異様の男が五百らの座敷に闖入(ちんにゅう)して「手前(てまえ)たちも博奕(ばくち)の仲間だろう、金を持 っているなら、そこへ出してしまえ」といいつつ、刀(とう)を抜いて威嚇した。 「なに、この騙(かた)り奴(め)が」と五百は叫んで、懐剣を抜いて起(た)った。男は初(はじめ)の勢にも似ず、身を翻(ひるがえ)して逃げ去った。 この年五百はもう四十七歳になっていた。 その七十四  矢島優善(やすよし)は山田の塾に入(い)って、塾頭に推されてから、やや自重するものの如く、病家にも信頼せられて、旗下(はたもと)の家庭にして 、特に矢島の名を斥(さ)して招請するものさえあった。五百も比良野貞固(さだかた)もこれがために頗(すこぶ)る心を安んじた。  既にしてこの年二月の初午(はつうま)の日となった。渋江氏では亀沢稲荷の祭を行うといって、親戚故旧を集(つど)えた。優善も来て宴に列し、清元( きよもと)を語ったり茶番を演じたりした。五百はこれを見て苦々(にがにが)しくは思ったが、酒を飲まぬ優善であるから、よしや少しく興に乗じたからと いって、後(のち)に累(わずらい)を胎(のこ)すような事はあるまいと気に掛けずにいた。  優善が渋江の家に来て、その夕方に帰ってから、二、三日立った頃の事である。師山田椿庭(ちんてい)が本郷弓町から尋ねて来て、「矢島さんはこちらで すか、余り久しく御滞留になりますから、どうなされたかと存じて伺いました」といった。 「優善は初午の日にまいりましたきりで、あの日には晩の四つ頃に帰りましたが」と、五百は訝(いぶ)かしげに答えた。 「はてな。あれから塾へは帰られませんが。」椿庭はこういって眉(まゆ)を蹙(しか)めた。  五百は即時に人を諸方に馳(は)せて捜索せしめた。優善の所在はすぐに知れた。初午の夜(よ)に無銭で吉原に往(ゆ)き、翌日から田町(たまち)の引 手茶屋(ひきてぢゃや)に潜伏していたのである。  五百は金を償って優善を帰らせた。さて比良野貞固、小野富穀(ふこく)の二人(ふたり)を呼んで、いかにこれに処すべきかを議した。幼い成善も、戸主 だというので、その席に列(つらな)った。  貞固は暫く黙していたが、容(かたち)を改めてこういった。「この度の処分はただ一つしかないとわたくしは思う。玄碩(げんせき)さんはわたくしの宅 で詰腹(つめばら)を切らせます。小野さんも、お姉(あね)えさんも、三坊も御苦労ながらお立会(たちあい)下さい。」言い畢(おわ)って貞固は緊(き び)しく口を結んで一座を見廻した。優善は矢島氏を冒してから、養父の称を襲(つ)いで玄碩といっていた。三坊は成善の小字(おさなな)三吉である。  富穀(ふこく)は面色(めんしょく)土の如くになって、一語を発することも得なかった。  五百(いお)は貞固の詞(ことば)を予期していたように、徐(しずか)に答えた。「比良野様の御意見は御尤(ごもっとも)と存じます。度々の不始末で 、もうこの上何と申し聞けようもございません。いずれ篤(とく)と考えました上で、改めてこちらから申し上げましょう」といった。  これで相談は果てた。貞固は何事もないような顔をして、席を起(た)って帰った。富穀は跡に残って、どうか比良野を勘弁させるように話をしてくれと、 繰り返して五百に頼んで置いて、すごすご帰った。五百は優善(やすよし)を呼んで厳(おこそか)に会議の始末を言い渡した。成善はどうなる事かと胸を痛 めていた。  翌朝五百は貞固を訪(と)うて懇談した。大要はこうである。昨日(さくじつ)の仰(おおせ)は尤至極である。自分は同意せずにはいられない。これまで の行掛(ゆきがか)りを思えば、優善にこの上どうして罪を贖(あがな)わせようという道はない。自分も一死がその分であるとは信じている。しかし晴がま しく死なせることは、家門のためにも、君侯のためにも望ましくない。それゆえ切腹に代えて、金毘羅(こんぴら)に起請文(きしょうもん)を納めさせたい 。悔い改める望(のぞみ)のない男であるから、必ず冥々(めいめい)の裏(うち)に神罰を蒙(こうむ)るであろうというのである。  貞固はつくづく聞いて答えた。それは好(よ)いお思附(おもいつき)である。この度の事については、命乞(いのちごい)の仲裁なら決して聴くまいと決 心していたが、晴がましい死様(しにざま)をさせるには及ばぬというお考は道理至極である。然らばその起請文を書いて金毘羅に納めることは、姉上にお任 せするといった。 その七十五  五百(いお)は矢島優善(やすよし)に起請文を書かせた。そしてそれを持って虎(とら)の門(もん)の金毘羅へ納めに往った。しかし起請文は納めずに 、優善が行末(ゆくすえ)の事を祈念して帰った。  小野氏ではこの年十二月十二日に、隠居令図(れいと)が八十歳で歿した。五年前(ぜん)に致仕して富穀(ふこく)に家を継がせていたのである。小野氏 の財産は令図の貯(たくわ)えたのが一万両を超えていたそうである。  伊沢柏軒はこの年三月に二百俵三十人扶持の奥医師にせられて、中橋埋地からお玉が池に居を移した。この時新宅の祝宴に招かれた保さんが種々の事を記憶 している。柏軒の四女やすは保さんの姉水木(みき)と長唄の「老松(おいまつ)」を歌った。柴田常庵(しばたじょうあん)という肥え太った医師は、越中 褌(えっちゅうふんどし)一つを身に着けたばかりで、「棚の達磨(だるま)」を踊った。そして宴が散じて帰る途中で、保さんは陣幕久五郎(じんまくひさ ごろう)が小柳平助(こやなぎへいすけ)に負けた話を聞いた。  やすは柏軒の庶出(しょしゅつ)の女(むすめ)である。柏軒の正妻狩谷(かりや)氏俊(たか)の生んだ子は、幼くて死した長男棠助(とうすけ)、十八 、九歳になって麻疹(ましん)で亡くなった長女洲(しゅう)、狩谷 ※(「木+夜」、第3水準1-85-76) 斎(えきさい)の養孫、懐之(かいし)の養子三右衛門(さんえもん)に嫁した次女国(くに)の三人だけで、その他の子は皆妾(しょう)春の腹(はら)で ある。その順序を言えば、長男棠助、長女洲、次女国、三女北(きた)、次男磐(いわお)、四女やす、五女こと、三男信平(しんぺい)、四男孫助(まごす け)である。おやすさんは人と成って後田舎(いなか)に嫁したが、今は麻布(あざぶ)鳥居坂町(とりいざかちょう)の信平さんの許(もと)にいるそうで ある。  柴田常庵は幕府医官の一人(いちにん)であったそうである。しかしわたくしの蔵している「武鑑」には載せてない。万延元年の「武鑑」は、わたくしの蔵 本に正月、三月、七月の三種がある。柏軒は正月のにはまだ奥詰の部に出ていて、三月以下のには奥医師の部に出ている。柴田は三書共にこれを載せない。維 新後にこの人は狂言作者になって竹柴寿作(たけしばじゅさく)と称し、五世坂東彦三郎(ばんどうひこさぶろう)と親しかったということである。なお尋ね て見たいものである。  陣幕久五郎の負(まけ)は当時人の意料(いりょう)の外(ほか)に出た出来事である。抽斎は角觝(かくてい)を好まなかった。然るに保さんは穉(おさ な)い時からこれを看(み)ることを喜んで、この年の春場所をも、初日から五日目まで一日も闕(か)かさずに見舞った。さてその六日目が伊沢の祝宴であ った。子(ね)の刻を過ぎてから、保さんは母と姉とに連れられて伊沢の家を出て帰り掛かった。途中で若党清助が迎えて、保さんに「陣幕が負けました」と 耳語(じご)した。 「虚言(うそ)を衝(つ)け」と、保さんは叱(しっ)した。取組は前から知っていて、小柳(やなぎ)が陣幕の敵でないことを固く信じていたのである。 「いいえ、本当です」と、清助はいった。清助の言(こと)は事実であった。陣幕は小柳に負けた。そして小柳はこの勝の故を以て人に殺された。その殺され たのが九つ半頃であったというから、丁度保さんと清助とがこの応答をしていた時である。  陣幕の事を言ったから、因(ちなみ)に小錦(こにしき)の事をも言って置こう。伊沢のおかえさんに附けられていた松という少女があった。松は魚屋与助 (うおやよすけ)の女(むすめ)で、菊、京の二人(ふたり)の妹があった。この京が岩木川(いわきがわ)の種を宿して生んだのが小錦八十吉(やそきち) である。  保さんは今一つ、柏軒の奥医師になった時の事を記憶している。それは手習の師小島成斎が、この時柏軒の子鉄三郎に対する待遇を一変した事である。福山 侯の家来成斎が、いかに幕府の奥医師の子を尊敬しなくてはならなかったかという、当年の階級制度の画図(がと)が、明(あきらか)に穉(おさな)い成善 の目前に展開せられたのである。 その七十六  小島成斎が神田の阿部家の屋敷に住んで、二階を教場(きょうじょう)にして、弟子に手習をさせた頃、大勢の児童が机を並べている前に、手に鞭(むち) を執って坐し、筆法を正(ただ)すに鞭の尖(さき)を以て指(ゆびさ)し示し、その間には諧謔(かいぎゃく)を交えた話をしたことは、前に書いた。成斎 は話をするに、多く伊沢柏軒の子鉄三郎を相手にして、鉄坊々々と呼んだが、それが意あってか、どうか知らぬが、鉄砲々々と聞えた。弟子らもまた鉄三郎を 鉄砲さんと呼んだ。  成斎が鉄砲さんを揶揄(からか)えば、鉄砲さんも必ずしも師を敬ってばかりはいない。往々戯言(けげん)を吐いて尊厳を冒すことがある。成斎は「おの れ鉄砲奴(め)」と叫びつつ、鞭を揮(ふる)って打とうとする。鉄砲は笑って逃(にげ)る。成斎は追い附いて、鞭で頭を打つ。「ああ、痛い、先生ひどい じゃありませんか」と、鉄砲はつぶやく。弟子らは面白がって笑った。こういう事は殆(ほとん)ど毎日あった。  然るにこの年の三月になって、鉄砲さんの父柏軒が奥医師になった。翌日から成斎ははっきりと伊沢の子に対する待遇を改めた。例之(たとえ)ば筆法を正 すにも「徳安(とくあん)さん、その点はこうお打(うち)なさいまし」という。鉄三郎はよほど前に小字(おさなな)を棄(す)てて徳安と称していたので ある。この新(あらた)な待遇は、不思議にも、これを受ける伊沢の嫡男をして忽(たちま)ち態度を改めしめた。鉄三郎の徳安は甚だしく大人(おとな)し くなって、殆どはにかむように見えた。  この年の九月に柏軒はあずかっていた抽斎の蔵書を還(かえ)した。それは九月の九日に将軍家茂(いえもち)が明年二月を以て上洛(じょうらく)すると いう令を発して、柏軒はこれに随行する準備をしたからである。渋江氏は比良野貞固(さだかた)に諮(はか)って、伊沢氏から還された書籍の主なものを津 軽家の倉庫にあずけた。そして毎年二度ずつ虫干(むしぼし)をすることに定めた。当時作った目録によれば、その部数は三千五百余に過ぎなかった。  書籍が伊沢氏から還されて、まだ津軽家にあずけられぬほどの事であった。森枳園(きえん)が来て『論語』と『史記』とを借りて帰った。『論語』は乎古 止点(おことてん)を施した古写本で、松永久秀(まつながひさひで)の印記があった。『史記』は朝鮮板(ばん)であった。後(のち)明治二十三年に保さ んは島田篁村(しまだこうそん)を訪(と)うて、再びこの『論語』を見た。篁村はこれを細川十洲(ほそかわじっしゅう)さんに借りて閲(けみ)していた のである。  津軽家ではこの年十月十四日に、信順(のぶゆき)が浜町中屋敷において、六十三歳で卒した。保さんの成善(しげよし)は枕辺(まくらべ)に侍していた 。  この年十二月二十一日の夜(よ)、塙次郎(はなわじろう)が三番町(さんばんちょう)で刺客(せきかく)の刃(やいば)に命を隕(おと)した。抽斎は 常にこの人と岡本况斎(きょうさい)とに、国典の事を詢(と)うことにしていたそうである。次郎は温古堂(おんこどう)と号した。保己一(ほきいち)の 男(だん)、四谷(よつや)寺町(てらまち)に住む忠雄(ただお)さんの祖父である。当時の流言に、次郎が安藤対馬守信睦(のぶゆき)のために廃立の先 例を取り調べたという事が伝えられたのが、この横禍(おうか)の因をなしたのである。遺骸の傍(かたわら)に、大逆(たいぎゃく)のために天罰を加うと いう捨札(すてふだ)があった。次郎は文化十一年生(うまれ)で、殺された時が四十九歳、抽斎より少(わか)きこと九年であった。  この年六月中旬から八月下旬まで麻疹(ましん)が流行して、渋江氏の亀沢町の家へ、御柳(ぎょりゅう)の葉と貝多羅葉(ばいたらよう)とを貰(もら) いに来る人が踵(くびす)を接した。二樹(にじゅ)の葉が当時民間薬として用いられていたからである。五百は終日応接して、諸人(しょにん)の望に負( そむ)かざらんことを努めた。 その七十七  抽斎歿後の第五年は文久三年である。成善(しげよし)は七歳で、始(はじめ)て矢の倉の多紀安琢(たきあんたく)の許(もと)に通って、『素問(そも ん)』の講義を聞いた。  伊沢柏軒はこの年五十四歳で歿した。徳川家茂(いえもち)に随(したが)って京都に上り、病を得て客死(かくし)したのである。嗣子鉄三郎の徳安(と くあん)がお玉が池の伊沢氏の主人となった。  この年七月二十日に山崎美成(やまざきよししげ)が歿した。抽斎は美成と甚だ親しかったのではあるまい。しかし二家(にか)書庫の蔵する所は、互(た がい)に出(い)だし借すことを吝(おし)まなかったらしい。頃日(このごろ)珍書刊行会が『後昔物語(のちはむかしものがたり)』を刊したのを見るに 、抽斎の奥書(おくがき)がある。「右喜三二(きさじ)随筆後昔物語一巻。借好間堂蔵本(こうもんどうぞうほんをかり)。友人平伯民為予謄写(へいはく みんよがためにとうしゃす)。庚子孟冬(こうしもうとう)一校。抽斎。」庚子(こうし)は天保十一年で、抽斎が弘前から江戸に帰った翌年である。平伯民 (へいはくみん)は平井東堂だそうである。  美成、字は久卿(きゅうけい)、北峰(ほくほう)、好問堂(こうもんどう)等の号がある。通称は新兵衛(しんべえ)、後(のち)久作と改めた。下谷( したや)二長町(にちょうまち)に薬店を開いていて、屋号を長崎屋といった。晩年には飯田町(いいだまち)の鍋島(なべしま)というものの邸内にいたそ うである。黐木坂下(もちのきざかした)に鍋島穎之助(えいのすけ)という五千石の寄合(よりあい)が住んでいたから、定めてその邸であろう。  美成の歿した時の齢(よわい)を六十七歳とすると、抽斎より長ずること八歳であっただろう。しかし諸書の記載が区々(まちまち)になっていて、確(た しか)には定めがたい。  抽斎歿後の第六年は元治(げんじ)元年である。森枳園が躋寿館(せいじゅかん)の講師たるを以て、幕府の月俸を受けることになった。  第七年は慶応元年である。渋江氏では六月二十日に翠暫(すいざん)が十一歳で夭札(ようさつ)した。  比良野貞固(さだかた)はこの年四月二十七日に妻かなの喪に遭(あ)った。かなは文化十四年の生(うまれ)で四十九歳になっていた。内に倹素を忍んで 、外(ほか)に声望を張ろうとする貞固が留守居の生活は、かなの内助を待って始(はじめ)て保続せられたのである。かなの死後に、親戚僚属は頻(しきり )に再び娶(めと)らんことを勧めたが、貞固は「五十を踰(こ)えた花壻になりたくない」といって、久しくこれに応ぜずにいた。  第八年は慶応二年である。海保漁村が九年前(ぜん)に病に罹(かか)り、この年八月その再発に逢(あ)い、九月十八日に六十九歳で歿したので、十歳の 成善は改めてその子竹逕(ちくけい)の門人になった。しかしこれは殆ど名義のみの変更に過ぎなかった。何故(なにゆえ)というに、晩年の漁村が弟子(て いし)のために書を講じたのは、四九の日の午後のみで、その他授業は竹逕が悉(ことごと)くこれに当っていたからである。漁村の書を講ずる声は咳嗄(し わが)れているのに、竹逕は音吐(おんと)晴朗で、しかも能弁であった。後年に至って島田篁村の如きも、講壇に立つときは、人をして竹逕の口吻(こうふ ん)態度を学んでいはせぬかと疑わしめた。竹逕の養父に代って講説することは、啻(ただ)に伝経廬(でんけいろ)におけるのみではなかった。竹逕は弊衣 (へいい)を著(き)て塾を出(い)で、漁村に代って躋寿館に往(ゆ)き、間部家(まなべけ)に往き、南部家に往いた。勢(いきおい)此(かく)の如く であったので、漁村歿後に至っても、練塀小路(ねりべいこうじ)の伝経廬は旧に依(よ)って繁栄した。  多年渋江氏に寄食していた山内豊覚(やまのうちほうかく)の妾(しょう)牧(まき)は、この年七十七歳を以て、五百の介抱を受けて死んだ。 その七十八  抽斎の姉須磨(すま)が飯田良清(いいだよしきよ)に嫁して生んだ女(むすめ)二人(ふたり)の中で、長女延(のぶ)は小舟町(こぶねちょう)の新井 屋半七(あらいやはんしち)が妻となって死に、次女路(みち)が残っていた。路は痘瘡(とうそう)のために貌(かたち)を傷(やぶ)られていたのを、多 分この年の頃であっただろう、三百石の旗本で戸田某という老人が後妻に迎えた。戸田氏は旗本中に頗(すこぶ)る多いので、今考えることが出来にくい。良 清の家は、須磨の生んだ長男直之助(なおのすけ)が夭折した跡へ、孫三郎という養子が来て継いでから、もう久しうなっていた。飯田孫三郎は十年前(ぜん )の安政三年から、「武鑑」の徒目附(かちめつけ)の部に載せられている。住所は初め湯島(ゆしま)天沢寺前(てんたくじまえ)としてあって、後には湯 島天神裏門前としてある。保さんの記憶している家は麟祥院前(りんしょういんまえ)の猿飴(さるあめ)の横町であったそうである。孫三郎は維新後静岡県 の官吏になって、良政(よしまさ)と称し、後また東京に入(い)って、下谷(したや)車坂町(くるまざかちょう)で終ったそうである。  比良野貞固(さだかた)は妻かなが歿した後(のち)、稲葉氏から来た養子房之助(ふさのすけ)と二人で、鰥暮(やもめぐら)しをしていたが、無妻で留 守居を勤めることは出来ぬと説くものが多いので、貞固の心がやや動いた。この年の頃になって、媒人(なこうど)が表坊主(おもてぼうず)大須(おおす) というものの女(むすめ)照(てる)を娶(めと)れと勧めた。「武鑑」を検するに、慶応二年に勤めていたこの氏の表坊主父子がある。父は玄喜(げんき) 、子は玄悦(げんえつ)で、麹町(こうじまち)三軒家(さんげんや)の同じ家に住んでいた。照は玄喜の女(むすめ)で、玄悦の妹ではあるまいか。  貞固は津軽家の留守居役所で使っている下役(したやく)杉浦喜左衛門(すぎうらきざえもん)を遣(や)って、照を見させた。杉浦は老実な人物で、貞固 が信任していたからである。照に逢って来た杉浦は、盛んに照の美を賞して、その言語(げんぎょ)その挙止さえいかにもしとやかだといった。  結納(ゆいのう)は取換(とりかわ)された。婚礼の当日に、五百(いお)は比良野の家に往って新婦を待ち受けることになった。貞固と五百とが窓の下( もと)に対坐していると、新婦の轎(かご)は門内に舁(か)き入れられた。五百は轎を出る女を見て驚いた。身の丈(たけ)極(きわめ)て小さく、色は黒 く鼻は低い。その上口が尖(とが)って歯が出ている。五百は貞固を顧みた。貞固は苦笑(にがわら)をして、「お姉(あね)えさん、あれが花よめ御(ご) ですぜ」といった。  新婦が来てから杯(さかずき)をするまでには時が立った。五百は杉浦のおらぬのを怪(あやし)んで問うと、よめの来たのを迎えてすぐに、比良野の馬を 借りて、どこかへ乗って往ったということであった。  暫らくして杉浦は五百と貞固との前へ出て、 ※(「桑+頁」、第3水準1-94-2) (ひたい)の汗を拭(ぬぐ)いつついった。「実に分疏(もうしわけ)がございません。わたくしはお照殿にお近づきになりたいと、先方へ申し込んで、先方 からも委細承知したという返事があって参ったのでございます。その席へ立派にお化粧をして茶を運んで出て、暫時わたくしの前にすわっていて、時候の挨拶 (あいさつ)をいたしたのは、兼(かね)て申し上げたとおりの美しい女でございました。今日(こんにち)参ったよめ御(ご)は、その日に菓子鉢か何か持 って出て、閾(しきい)の内までちょっとはいったきりで、すぐに引き取りました。わたくしはよもやあれがお照殿であろうとは存じませなんだ。余りの間違 でございますので、お馬を借用して、大須家へ駆け付けて尋ねましたところが、御挨拶をさせた女は照のお引合せをいたさせた倅(せがれ)のよめでございま すという返答でございます。全くわたくしの粗忽(そこつ)で」といって、杉浦はまた ※(「桑+頁」、第3水準1-94-2) の汗を拭った。 その七十九  五百(いお)は杉浦喜左衛門の話を聞いて色を変じた。そして貞固に「どうなさいますか」と問うた。  杉浦は傍(かたわら)からいった。「御破談になさるより外ございますまい。わたくしがあの日に、あなたがお照様でございますねと、一言(いちごん)念 を押して置けば宜(よろ)しかったのでございます。全くわたくしの粗忽で」という、目には涙を浮べていた。  貞固は叉(こまぬ)いていた手をほどいていった。「お姉(あね)えさん御心配をなさいますな。杉浦も悔まぬが好(い)い。わたしはこの婚礼をすること に決心しました。お坊主を恐れるのではないが、喧嘩(けんか)を始めるのは面白くない。それにわたしはもう五十を越している。器量好みをする年でもない 」といった。  貞固は遂(つい)に照と杯(さかずき)をした。照は天保六年生(うまれ)で、嫁した時三十二歳になっていた。醜いので縁遠かったのであろう。貞固は妻 (さい)の里方と交(まじわ)るに、多く形式の外に出(い)でなかったが、照と結婚した後(のち)間もなくその弟玄琢(げんたく)を愛するようになった 。大須(おおす)玄琢は学才があるのに、父兄はこれに助力せぬので、貞固は書籍を買って与えた。中には八尾板(やおばん)の『史記』などのような大部の ものがあった。  この年弘前藩では江戸定府(じょうふ)を引き上げて、郷国に帰らしむることに決した。抽斎らの国勝手(くにがって)の議が、この時に及んで纔(わずか )に行われたのである。しかし渋江氏とその親戚とは先ず江戸を発する群(むれ)には入(い)らなかった。  抽斎歿後の第九年は慶応三年である。矢島優善(やすよし)は本所緑町の家を引き払って、武蔵国北足立郡(きたあだちごおり)川口(かわぐち)に移り住 んだ。知人(しるひと)があって、この土地で医業を営むのが有望だと勧めたからである。しかし優善が川口にいて医を業としたのは、僅(わずか)の間(あ いだ)である。「どうも独身で田舎にいて見ると、土臭い女がたかって来て、うるさくてならない」といって、亀沢町の渋江の家に帰って同居した。当時優善 は三十三歳であった。  比良野貞固の家では、この年後妻(こうさい)照が柳(りゅう)という女(むすめ)を生んだ。  第十年は明治元年である。伏見(ふしみ)、鳥羽(とば)の戦(たたかい)を以て始まり、東北地方に押し詰められた佐幕の余力(よりょく)が、春より秋 に至る間に漸(ようや)く衰滅に帰した年である。最後の将軍徳川慶喜(よしのぶ)が上野寛永寺に入(い)った後(のち)に、江戸を引き上げた弘前藩の定 府(じょうふ)の幾組かがあった。そしてその中に渋江氏がいた。  渋江氏では三千坪の亀沢町の地所と邸宅とを四十五両に売った。畳一枚の価(あたい)は二十四文であった。庭に定所(ていしょ)、抽斎父子の遺愛の木た る ※(「木+蟶のつくり」、第3水準1-86-19) 柳(ていりゅう)がある。神田の火に逢って、幹の二大枝(にだいし)に岐(わか)れているその一つが枯れている。神田から台所町へ、台所町から亀沢町へ 徙(うつ)されて、幸(さいわい)に凋(しお)れなかった木である。また山内豊覚が遺言(いげん)して五百に贈った石燈籠(いしどうろう)がある。五百 も成善(しげよし)も、これらの物を棄てて去るに忍びなかったが、さればとて木石を百八十二里の遠きに致さんことは、王侯富豪も難(かた)んずる所であ る。ましてや一身の安きをだに期しがたい乱世の旅である。母子はこれを奈何(いかん)ともすることが出来なかった。  食客は江戸若(もし)くはその界隈(かいわい)に寄るべき親族を求めて去った。奴婢(ぬひ)は、弘前に随(したが)い行(ゆ)くべき若党二人を除く外 、悉(ことごと)く暇(いとま)を取った。こういう時に、年老いたる男女の往(ゆ)いて投ずべき家のないものは、愍(あわれ)むべきである。山内氏から 来た牧は二年前(ぜん)に死んだが、跡にまだ妙了尼(みょうりょうに)がいた。  妙了尼の親戚は江戸に多かったが、この時になって誰(たれ)一人引き取ろうというものがなかった。五百(いお)は一時当惑した。 その八十  渋江氏が本所亀沢町の家を立ち退(の)こうとして、最も処置に因(くるし)んだのは妙了尼の身の上であった。この老尼は天明元年に生れて、已(すで) に八十八歳になっている。津軽家に奉公したことはあっても、生れてから江戸の土地を離れたことのない女である。それを弘前へ伴うことは、五百がためにも 望ましくない。また老いさらぼいたる本人のためにも、長途の旅をして知人(しるひと)のない遠国(えんごく)に往くのはつらいのである。  本(もと)妙了は特に渋江氏に縁故のある女ではない。神田豊島町(としまちょう)の古着屋の女(むすめ)に生れて、真寿院(しんじゅいん)の女小姓( おんなごしょう)を勤めた。さて暇(いとま)を取ってから人に嫁し、夫を喪(うしな)って剃髪(ていはつ)した。夫の弟が家を嗣(つ)ぐに及んで、初め 恋愛していたために今憎悪する戸主に虐遇せられ、それを耐え忍んで年を経た。亡夫の弟の子の代になって、虐遇は前に倍し、あまつさえ眼病を憂えた。これ が弘化二年で、妙了が六十五歳になった時である。  妙了は眼病の治療を請いに抽斎の許(もと)へ来た。前年に来(きた)り嫁した五百(いお)が、老尼の物語を聞いて気の毒がって、遂に食客にした。それ からは渋江の家にいて子供の世話をし、中にも棠(とう)と成善(しげよし)とを愛した。  妙了の最も近い親戚は、本所相生町(あいおいちょう)に石灰屋(しっくいや)をしている弟である。しかし弟は渋江氏の江戸を去るに当って、姉を引き取 ることを拒んだ。その外今川橋(いまがわばし)の飴屋(あめや)、石原(いしはら)の釘屋(くぎや)、箱崎(はこざき)の呉服屋、豊島町の足袋屋(たび や)なども、皆縁類でありながら、一人として老尼の世話をしようというものはなかった。  幸に妙了の女姪(めい)が一人富田十兵衛(とみたじゅうべえ)というものの妻(さい)になっていて、夫に小母(おば)の事を話すと、十兵衛は快く妙了 を引き取ることを諾した。十兵衛は伊豆国(いずのくに)韮山(にらやま)の某寺に寺男(てらおとこ)をしているので、妙了は韮山へ往った。  四月朔(さく)に渋江氏は亀沢町の邸宅を立ち退(の)いて、本所横川(よこかわ)の津軽家の中屋敷に徙(うつ)った。次で十一日に江戸を発した。この 日は官軍が江戸城を収めた日である。  一行(いっこう)は戸主成善十二歳、母五百(いお)五十三歳、陸(くが)二十二歳、水木(みき)十六歳、専六(せんろく)十五歳、矢島優善(やすよし )三十四歳の六人と若党二人(ににん)とである。若党の一人(ひとり)は岩崎駒五郎(こまごろう)という弘前のもので、今一人は中条勝次郎(ちゅうじょ うかつじろう)という常陸国(ひたちのくに)土浦(つちうら)のものである。  同行者は矢川文一郎(やかわぶんいちろう)と浅越一家(あさごえいっけ)とである。文一郎は七年前(ぜん)の文久元年に二十一歳で、本所二つ目の鉄物 問屋(かなものどいや)平野屋の女(むすめ)柳を娶(めと)って、男子(なんし)を一人もうけていたが、弘前行(ゆき)の事が極(き)まると、柳は江戸 を離れることを欲せぬので、子を連れて里方へ帰った。文一郎は江戸を立った時二十八歳である。  浅越一家は主人夫婦と女(むすめ)とで、若党一人を連れていた。主人は通称を玄隆(げんりゅう)といって、百八十石六人扶持の表医者である。玄隆は少 (わか)い時不行迹(ふぎょうせき)のために父永寿に勘当せられていたが、永寿の歿するに及んで末期(まつご)養子として後(のち)を承(う)け、次で 抽斎の門人となり、また抽斎に紹介せられて海保漁村の塾に入(い)った。天保九年の生れで、抽斎に従学した安政四年には二十歳であった。その後渋江氏と 親(したし)んでいて、共に江戸を立った時は三十一歳である。玄隆の妻よしは二十四歳、女(むすめ)ふくは当歳である。  ここにこの一行に加わろうとして許されなかったものがある。わたくしはこれを記(き)するに当って、当時の社会が今と殊(こと)なることの甚だしきを 感ずる。奉公人が臣僕の関係になっていたことは勿論(もちろん)であるが、出入(でいり)の職人商人(あきうど)もまた情誼(じょうぎ)が頗(すこぶ) る厚かった。渋江の家に出入(いでいり)する中で、職人には飾屋長八(かざりやちょうはち)というものがあり、商人には鮓屋久次郎(すしやきゅうじろう )というものがあった。長八は渋江氏の江戸を去る時墓木(ぼぼく)拱(きょう)していたが、久次郎は六十六歳の翁(おきな)になって生存(ながら)えて いたのである。 その八十一  飾屋長八は単に渋江氏の出入(でいり)だというのみではなかった。天保十年に抽斎が弘前から帰った時、長八は病んで治療を請うた。その時抽斎は長八が 病のために業を罷(や)めて、妻と三人の子とを養うことの出来ぬのを見て、長屋に住(すま)わせて衣食を給した。それゆえ長八は病が癒(い)えて業に就 (つ)いた後(のち)、長く渋江氏の恩を忘れなかった。安政五年に抽斎の歿した時、長八は葬式の世話をして家に帰り、例に依(よ)って晩酌の一合を傾け た。そして「あの檀那(だんな)様がお亡くなりなすって見れば、己(おれ)もお供をしても好(い)いな」といった。それから二階に上がって寝たが、翌朝 起きて来ぬので女房が往って見ると、長八は死んでいたそうである。  鮓屋久次郎は本(もと)ぼて振(ふり)の肴屋(さかなや)であったのを、五百(いお)の兄栄次郎が贔屓(ひいき)にして資本を与えて料理店を出させた 。幸に鮓久(すしきゅう)の庖丁(ほうちょう)は評判が好(よ)かったので、十ばかり年の少(わか)い妻を迎えて、天保六年に倅(せがれ)豊吉(とよき ち)をもうけた。享和三年生(うまれ)の久次郎は当時三十三歳であった。後(のち)九年にして五百が抽斎に嫁したので、久次郎は渋江氏にも出入(でいり )することになって、次第に親しくなっていた。  渋江氏が弘前に徙(うつ)る時、久次郎は切に供をして往(ゆ)くことを願った。三十四歳になった豊吉に、母の世話をさせることにして置いて、自分は単 身渋江氏の供に立とうとしたのである。この望を起すには、弘前で料理店を出そうという企業心も少し手伝っていたらしいが、六十六歳の翁(おきな)が二百 里足らずの遠路を供に立って行こうとしたのは、主(おも)に五百を尊崇(そんそう)する念から出たのである。渋江氏では故(ゆえ)なく久次郎の願(ねが い)を却(しりぞ)けることが出来ぬので、藩の当事者に伺ったが、当事者はこれを許すことを好まなかった。五百は用人河野六郎(こうのろくろう)の内意 を承(う)けて、久次郎の随行を謝絶した。久次郎はひどく落胆したが、翌年病に罹(かか)って死んだ。  渋江氏の一行は本所二つ目橋の畔(ほとり)から高瀬舟(たかせぶね)に乗って、竪川(たてかわ)を漕(こ)がせ、中川(なかがわ)より利根川(とねが わ)に出(い)で、流山(ながれやま)、柴又(しばまた)等を経て小山(おやま)に著(つ)いた。江戸を距(さ)ること僅(わずか)に二十一里の路に五 日を費(ついや)した。近衛家(このえけ)に縁故のある津軽家は、西館孤清(にしだてこせい)の斡旋(あっせん)に依って、既に官軍に加わっていたので 、路の行手(ゆくて)の東北地方は、秋田の一藩を除く外、悉(ことごと)く敵地である。一行の渋江、矢川(やがわ)、浅越(あさごえ)の三氏の中では、 渋江氏は人数(にんず)も多く、老人があり少年少女がある。そこで最も身軽な矢川文一郎と、乳飲子(ちのみご)を抱いた妻という累(わずらい)を有する に過ぎぬ浅越玄隆とをば先に立たせて、渋江一家が跡に残った。  五百らの乗った五挺(ちょう)の駕籠(かご)を矢島優善(やすよし)が宰領して、若党二人を連れて、石橋(いしばし)駅に掛かると、仙台藩の哨兵線( しょうへいせん)に出合った。銃を擬した兵卒が左右二十人ずつ轎(かご)を挟(さしはさ)んで、一つ一つ戸を開けさせて誰何(すいか)する。女の轎は仔 細(しさい)なく通過させたが、成善の轎に至って、審問に時を費した。この晩に宿に著いて、五百は成善に女装させた。  出羽(でわ)の山形は江戸から九十里で、弘前に至る行程の半(なかば)である。常の旅には此(ここ)に来ると祝う習(ならい)であったが、五百らはわ ざと旅店を避けて鰻屋(うなぎや)に宿を求めた。 その八十二  山形から弘前に往く順路は、小坂峠(こざかとうげ)を踰(こ)えて仙台に入(い)るのである。五百らの一行は仙台を避けて、板谷峠(いたやとうげ)を 踰えて米沢(よねざわ)に入(い)ることになった。しかしこの道筋も安全ではなかった。上山(かみのやま)まで往くと、形勢が甚だ不穏なので、数日間淹 留(えんりゅう)した。  五百らは路用の金が竭(つ)きた。江戸を発する時、多く金を携えて行くのは危険だといって、金銭を長持(ながもち)五十荷(か)余りの底に布(し)か せて舟廻(ふなまわ)しにしたからである。五百らは上山で、ようよう陸を運んで来た些(ちと)の荷物の過半を売った。これは金を得ようとしたばかりでは ない。間道(かんどう)を進むことに決したので、嵩高(かさだか)になる荷は持っていられぬからである。荷を売った銭は固(もと)より路用の不足を補う 額には上(のぼ)らなかった。幸に弘前藩の会計方に落ち合って、五百らは少しの金を借ることが出来た。  上山を発してからは人烟(じんえん)稀(まれ)なる山谷(さんこく)の間を過ぎた。縄梯子(なわばしご)に縋(すが)って断崖(だんがい)を上下(し ょうか)したこともある。夜(よる)の宿は旅人(りょじん)に餅(もち)を売って茶を供する休息所の類(たぐい)が多かった。宿で物を盗まれることも数 度に及んだ。  院内峠(いんないとうげ)を踰えて秋田領に入(い)った時、五百らは少しく心を安んずることを得た。領主佐竹右京大夫義堯(さたけうきょうのたゆうよ したか)は、弘前の津軽承昭(つぐてる)と共に官軍方(がた)になっていたからである。秋田領は無事に過ぎた。  さて矢立峠(やたてとうげ)を踰え、四十八川を渡って、弘前へは往くのである。矢立峠の分水線が佐竹、津軽両家の領地界(ざかい)である。そこを少し 下(くだ)ると、碇関(いかりがせき)という関があって番人が置いてある。番人は鑑札を検してから、始(はじめ)て慇懃(いんぎん)な詞(ことば)を使 うのである。人が雲表(うんぴょう)に聳(そび)ゆる岩木山(いわきやま)を指(ゆびさ)して、あれが津軽富士で、あの麓(ふもと)が弘前の城下だと教 えた時、五百らは覚えず涙を翻(こぼ)して喜んだそうである。  弘前に入(い)ってから、五百らは土手町(どてまち)の古着商伊勢屋の家に、藩から一人(いちにん)一日(いちじつ)金一分(いちぶ)の為向(しむけ )を受けて、下宿することになり、そこに半年余りいた。船廻しにした荷物は、ほど経て後(のち)に着いた。下宿屋から街(ちまた)に出(い)づれば、土 地の人が江戸子(えどこ)々々々と呼びつつ跡に附いて来る。当時髻(もとどり)を麻糸で結(ゆ)い、地織木綿(じおりもめん)の衣服を著(き)た弘前の 人々の中へ、江戸育(そだち)の五百らが交(まじ)ったのだから、物珍らしく思われたのも怪(あやし)むに足りない。殊(こと)に成善(しげよし)が江 戸でもまだ少かった蝙蝠傘(かわほりがさ)を差して出ると、看(み)るものが堵(と)の如くであった。成善は蝙蝠傘と、懐中時計とを持っていた。時計は 識(し)らぬ人さえ紹介を求めて見に来るので、数日のうちに弄(いじ)り毀(こわ)されてしまった。  成善は近習小姓の職があるので、毎日登城(とじょう)することになった。宿直は二カ月に三度位であった。  成善は経史(けいし)を兼松石居(かねまつせききょ)に学んだ。江戸で海保竹逕(かいほちくけい)の塾を辞して、弘前で石居の門を敲(たた)いたので ある。石居は当時既に蟄居(ちっきょ)を免(ゆる)されていた。医学は江戸で多紀安琢(たきあんたく)の教(おしえ)を受けた後(のち)、弘前では別に 人に師事せずにいた。  戦争は既に所々(しょしょ)に起って、飛脚が日ごとに情報を齎(もたら)した。共に弘前へ来た矢川文一郎は、二十八歳で従軍して北海道に向うことにな った。また浅越玄隆は南部方面に派遣せられた。この時浅越の下に附属せられたのが、新(あらた)に町医者から五人扶持の小普請医者に抱えられた蘭法医小 山内元洋(おさないげんよう)である。弘前ではこれより先藩学稽古館(けいこかん)に蘭学堂を設けて、官医と町医との子弟を教育していた。これを主宰し ていたのは江戸の杉田成卿(せいけい)の門人佐々木元俊(げんしゅん)である。元洋もまた杉田門から出た人で、後建(けん)と称して、明治十八年二月十 四日に中佐(ちゅうさ)相当陸軍一等軍医正(せい)を以て広島に終った。今の文学士小山内薫(おさないかおる)さんと画家岡田三郎助(おかださぶろうす け)さんの妻八千代(やちよ)さんとは建の遺子である。矢島優善(やすよし)は弘前に留(とど)まっていて、戦地から後送(こうそう)せられて来る負傷 者を治療した。 その八十三  渋江氏の若党の一人中条勝次郎は、弘前に来てから思いも掛けぬ事に遭遇した。  一行が土手町に下宿した後二(に)、三月(さんげつ)にして暴風雨があった。弘前の人は暴風雨を岩木山の神が祟(たたり)を作(な)すのだと信じてい る。神は他郷の人が来て土着するのを悪(にく)んで、暴風雨を起すというのである。この故に弘前の人は他郷の人を排斥する。就中(なかんずく)丹後(た んご)の人と南部の人とを嫌う。なぜ丹後の人を嫌うかというに、岩木山の神は古伝説の安寿姫(あんじゅひめ)で、己(おのれ)を虐使した山椒大夫(さん しょうたゆう)の郷人を嫌うのだそうである。また南部の人を嫌うのは、神も津軽人のパルチキュラリスムに感化せられているのかも知れない。  暴風雨の後(のち)数日にして、新に江戸から徙(うつ)った家々に沙汰(さた)があった。もし丹後、南部等の生(うまれ)のものが紛(まぎ)れ入(い )っているなら、厳重に取り糺(ただ)して国境の外に逐(お)えというのである。渋江氏の一行では中条が他郷のものとして目指(めざ)された。中条は常 陸(ひたち)生だといって申し解(と)いたが、役人は生国(しょうこく)不明と認めて、それに立退(たちのき)を諭(さと)した。五百はやむことをえず 、中条に路用の金を与えて江戸へ還らせた。  冬になってから渋江氏は富田新町(とみたしんまち)の家に遷(うつ)ることになった。そして知行(ちぎょう)は当分の内六分引(びけ)を以て給すると いう達しがあって、実は宿料食料の外(ほか)何の給与もなかった。これが後(のち)二年にして秩禄(ちつろく)に大削減を加えられる発端(ほったん)で あった。二年前(ぜん)から逐次に江戸を引き上げて来た定府(じょうふ)の人たちは、富田新町、新寺町(しんてらまち)新割町(しんわりちょう)、上白 銀町(かみしろかねちょう)、下(しも)白銀町、塩分町(しおわけちょう)、茶畑町(ちゃばたちょう)の六カ所に分れ住んだ。富田新町には江戸子町(え どこまち)、新寺町新割町には大矢場(おおやば)、上白銀町には新屋敷の異名がある。富田新町には渋江氏の外、矢川文一郎、浅越玄隆らがおり、新寺町新 割町には比良野貞固(さだかた)、中村勇左衛門らがおり、下白銀町には矢川文内らがおり、塩分町には平井東堂らがおった。  この頃五百は専六が就学(じゅがく)問題のために思(おもい)を労した。専六の性質は成善とは違う。成善は書を読むに人の催促を須(ま)たない。そし てその読む所の書は自ら択ぶに任せることが出来る。それゆえ五百は彼が兼松石居に従って経史を攻(おさ)めるのを見て、毫(ごう)も容喙(ようかい)せ ずにいた。成善が儒となるもまた可、医となるもまた不可なるなしとおもったのである。これに反して専六は多く書を読むことを好まない。書に対すれば、先 ず有用無用の詮議(せんぎ)をする。五百はこの子には儒となるべき素質がないと信じた。そこで意を決して剃髪せしめた。  五百は弘前の城下について、専六が師となすべき医家を物色した。そして親方町(おやかたちょう)に住んでいる近習医者小野元秀(おのげんしゅう)を獲 (え)た。 その八十四  小野元秀は弘前藩士対馬幾次郎(つしまいくじろう)の次男で、小字(おさなな)を常吉(つねきち)といった。十六、七歳の時、父幾次郎が急に病を発し た。常吉は半夜馳(は)せて医師某の許(もと)に往った。某は家にいたのに、来(きた)り診することを肯(がえん)ぜなかった。常吉はこの時父のために 憂え、某のために惜(おし)んで、心にこれを牢記(ろうき)していた。後に医となってから、人の病あるを聞くごとに、家の貧富を問わず、地の遠近を論ぜ ず、食(くら)うときには箸(はし)を投じ、臥(ふ)したるときには被(ひ)を蹴(け)て起(た)ち、径(ただ)ちに往(ゆ)いて診したのは、少時の苦 (にが)き経験を忘れなかったためだそうである。元秀は二十六歳にして同藩の小野秀徳(しゅうとく)の養子となり、その長女そのに配せられた。  元秀は忠誠にして廉潔であった。近習医に任ぜられてからは、詰所(つめしょ)に出入(いでいり)するに、朝(あした)には人に先んじて往(ゆ)き、夕 (ゆうべ)には人に後れて反(かえ)った。そして公退後には士庶の病人に接して、絶(たえ)て倦(う)む色がなかった。  稽古館教授にして、五十石町(ごじっこくまち)に私塾を開いていた工藤他山(くどうたざん)は、元秀と親善であった。これは他山がいまだ仕途に就(つ )かなかった時、元秀がその貧を知って、 ※(「米+胥」、第4水準2-83-94) (しょ)を受けずして懇(ねんごろ)に治療した時からの交(まじわり)である。他山の子外崎(とのさき)さんも元秀を識(し)っていたが、これを評して 温潤良玉の如き人であったといっている。五百が専六をして元秀に従学せしめたのは、実にその人を獲たものというべきである。  元秀の養子完造(かんぞう)は本(もと)山崎氏で、蘭法医伊東玄朴の門人である。完造の養子芳甫(ほうほ)さんは本(もと)鳴海(なるみ)氏で、今弘 前の北川端町(きたかわばたちょう)に住んでいる。元秀の実家の裔(すえ)は弘前の徒町(かちまち)川端町の対馬※蔵(しょうぞう)[#「金+蚣のつく り」、U+9206、243-12]さんである。  専六は元秀の如き良師を得たが、憾(うら)むらくは心、医となることを欲せなかった。弘前の人は毎(つね)に、円頂(えんちょう)の専六が筒袖(つつ そで)の衣(い)を著(き)、短袴(たんこ)を穿(は)き、赤毛布(あかもうふ)を纏(まと)って銃を負い、山野を跋渉(ばっしょう)するのを見た。こ れは当時の兵士の服装である。  専六は兵士の間に交(まじわり)を求めた。兵士らは呼ぶに医者銃隊の名を以てして、頗(すこぶ)るこれを愛好した。  時に弘前に徙(うつ)った定府(じょうふ)中に、山澄吉蔵(やまずみきちぞう)というものがあった。名を直清(なおきよ)といって、津軽藩が文久三年 に江戸に遣(や)った海軍修行生徒七人の中(うち)で、中小姓を勤めていた。築地(つきじ)海軍操練所で算数の学を修め、次で塾の教員の列に加わった。 弘前に徙って間もなく、山澄は熕隊(こうたい)司令官にせられた。兵士中身(み)を立てんと欲するものは、多くこの山澄を師として洋算(ようざん)を学 んだ。専六もまた藤田潜(ひそむ)、柏原櫟蔵(かしわばられきぞう)らと共に山澄の門に入(い)って、洋算簿記を学ぶこととなり、いつとなく元秀の講筵 (こうえん)には臨まなくなった。後(のち)山澄は海軍大尉を以て終り、柏原は海軍少将を以て終った。藤田さんは今攻玉(こうぎょく)社長(しゃちょう )をしている。攻玉社は後に近藤真琴(こんどうまこと)の塾に命ぜられた名である。初め麹町(こうじまち)八丁目の鳥羽(とば)藩主稲垣対馬守長和(な がかず)の邸内にあったのが、中ごろ築地海軍操練所内に移るに及んで、始めて攻玉塾と称し、次で芝(しば)神明町(しんめいちょう)の商船黌(しょうせ んこう)と、芝(しば)新銭座(しんせんざ)の陸地測量習練所とに分離し、二者の総称が攻玉社となり、明治十九年に至るまで、近藤自らこれを経営してい たのである。 その八十五  小野富穀(ふこく)とその子道悦(どうえつ)とが江戸を引き上げたのは、この年二月二十三日で、道中に二十五日を費(ついや)し、三月十八日に弘前に 著(つ)いた。渋江氏の弘前に入(い)るに先(さきだ)つこと二カ月足らずである。  矢島優善(やすゆき)が隠居させられた時、跡を襲(つ)いだ周禎(しゅうてい)の一家(いっけ)も、この年に弘前へ徙(うつ)ったが、その江戸を発す る時、三男三蔵(さんぞう)は江戸に留(とど)まった。前に小田原(おだわら)へ往った長男周碩(しゅうせき)と、この三蔵とは、後にカトリック教の宣 教師になったそうである。弘前へ往った周禎は表医者奥通(おくどおり)に進み、その次男で嗣子にせられた周策(しゅうさく)もまた目見(めみえ)の後( のち)表医者を命ぜられた。  抽斎の姉須磨の夫飯田良清(いいだよしきよ)の養子孫三郎は、この年江戸が東京と改称した後(のち)、静岡藩に赴いて官吏になった。  森枳園(きえん)はこの年七月に東京から福山に遷(うつ)った。当時の藩主は文久元年に伊予守正教(まさのり)の後(のち)を承(う)けた阿部(あべ )主計頭(かぞえのかみ)正方(まさかた)であった。  優善の友塩田良三(りょうさん)はこの年浦和(うらわ)県の官吏になった。これより先良三は、優善が山田椿庭(ちんてい)の塾に入(い)ったのと殆( ほとん)ど同時に、伊沢柏軒の塾に入(い)って、柏軒にその才の雋鋭(しゅんえい)なるを認められ、節(せつ)を折って書を読んだ。文久三年に柏軒が歿 してからは家に帰っていて、今仕宦(しかん)したのである。  この年箱館(はこだて)に拠(よ)っている榎本武揚(えのもとたけあき)を攻めんがために、官軍が発向する中に、福山藩の兵が参加していた。伊沢榛軒 の嗣子棠軒(とうけん)はこれに従って北に赴いた。そして渋江氏を富田新町に訪(と)うた。棠軒は福山藩から一粒金丹(いちりゅうきんたん)を買うこと を託せられていたので、この任を果たす傍(かたわら)、故旧の安否を問うたのである。棠軒、名は信淳(しんじゅん)、通称は春安(しゅんあん)、池田全 安(ぜんあん)が離別せられた後(のち)に、榛軒の女(じょ)かえの壻となったのである。かえは後に名をそのと更(あらた)めた。おそのさんは現存者で 、市谷(いちがや)富久町(とみひさちょう)の伊沢徳(めぐむ)さんの許(もと)にいる。徳さんは棠軒の嫡子である。  抽斎歿後の第十一年は明治二年である。抽斎の四女陸(くが)が矢川文一郎に嫁したのは、この年九月十五日である。  陸が生れた弘化四年には、三女棠(とう)がまだ三歳で、母の懐(ふところ)を離れなかったので、陸は生れ降(お)ちるとすぐに、小柳町(こやなぎちょ う)の大工の棟梁(とうりょう)新八というものの家へ里子(さとこ)に遣(や)られた。さて嘉永四年に棠が七歳で亡くなったので、母五百が五歳の陸を呼 び返そうとすると、偶(たまたま)矢島氏鉄が来たのを抱いて寝なくてはならなくなって、陸を還すことを見あわせた。翌五年にようよう還った陸は、色の白 い、愛らしい六歳の少女であった。しかし五百の胸をば棠を惜(おし)む情が全く占めていたので、陸は十分に母の愛に浴することが出来ずに、母に対しては 頗(すこぶ)る自ら抑遜(よくそん)していなくてはならなかった。  これに反して抽斎は陸を愛撫(あいぶ)して、身辺におらせて使役しつつ、或時五百にこういった。「己(おれ)はこんなに丈夫だから、どうもお前よりは 長く生きていそうだ。それだから今の内に、こうして陸を為込(しこ)んで置いて、お前に先へ死なれた時、この子を女房代りにするつもりだ。」  陸はまた兄矢島優善にも愛せられた。塩田良三もまた陸を愛する一人(いちにん)で、陸が手習をする時、手を把(と)って書かせなどした。抽斎が或日陸 の清書を見て、「良三さんのお清書が旨(うま)く出来たな」といって揶揄(からか)ったことがある。  陸は小さい時から長歌(ながうた)が好(すき)で、寒夜に裏庭の築山(つきやま)の上に登って、独り寒声(かんごえ)の修行をした。 その八十六  抽斎の四女陸はこの家庭に生長して、当時なおその境遇に甘んじ、毫(ごう)も婚嫁を急ぐ念がなかった。それゆえかつて一たび飯田寅之丞(とらのじょう )に嫁せんことを勧めたものもあったが、事が調(ととの)わなかった。寅之丞は当時近習小姓であった。天保十三年壬寅(じんいん)に生れたからの名であ る。即ち今の飯田巽(たつみ)さんで、巽の字は明治二年己巳(きし)に二十八になったという意味で選んだのだそうである。陸との縁談は媒(なこうど)が 先方に告げずに渋江氏に勧めたのではなかろうが、余り古い事なので巽さんは已(すで)に忘れているらしい。然るにこの度は陸が遂に文一郎の聘(へい)を 却(しりぞ)くることが出来なくなった。  文一郎は最初の妻柳(りゅう)が江戸を去ることを欲せぬので、一人の子を附けて里方へ還して置いて弘前へ立った。弘前に来た直後に、文一郎は二度目の 妻を娶(めと)ったが、いまだ幾(いくばく)ならぬにこれを去った。この女は西村与三郎の女(むすめ)作であった。次で箱館から帰った頃からであろう、 陸を娶ろうと思い立って、人を遣(つかわ)して請うこと数度に及んだ。しかし渋江氏では輒(すなわ)ち動かなかった。陸には旧に依(よ)って婚嫁を急ぐ 念がない。五百は文一郎の好人物なることを熟知していたが、これを壻にすることをば望まなかった。こういう事情の下(もと)に、両家の間にはやや久しく 緊張した関係が続いていた。  文一郎は壮年の時パッションの強い性質を有していた。その陸に対する要望はこれがために頗る熱烈であった。渋江氏では、もしその請(こい)を納(い) れなかったら、あるいは両家の間に事端(じたん)を生じはすまいかと慮(おもんぱか)った。陸が遂に文一郎に嫁したのは、この疑懼(ぎく)の犠牲になっ たようなものである。  この結婚は、名義からいえば、陸が矢川氏に嫁したのであるが、形迹(けいせき)から見れば、文一郎が壻入をしたようであった。式を行(おこな)った翌 日から、夫婦は終日渋江の家にいて、夜更(よふ)けて矢川の家へ寝に帰った。この時文一郎は新(あらた)に馬廻(うままわり)になった年で二十九歳、陸 は二十三歳であった。  矢島優善(やすよし)は、陸が文一郎の妻(さい)になった翌月、即ち十月に、土手町に家を持って、周禎の許(もと)にいた鉄を迎え入れた。これは行懸 (ゆきがか)りの上から当然の事で、五百は傍(はた)から世話を焼いたのである。しかし二十三歳になった鉄は、もう昔日の如く夫の甘言に賺(すか)され てはおらぬので、この土手町の住いは優善が身上(しんじょう)のクリジスを起す場所となった。  優善と鉄との間に、夫婦の愛情の生ぜぬことは、固(もと)より予期すべきであった。しかし啻(ただ)に愛情が生ぜざるのみではなく、二人は忽(たちま )ち讐敵(しゅうてき)となった。そしてその争うには、鉄がいつも攻勢を取り、物質上の利害問題を提(ひっさ)げて夫に当るのであった。「あなたがいく じがないばかりに、あの周禎のような男に矢島の家を取られたのです。」この句が幾度(いくたび)となく反復せられる鉄が論難の主眼であった。優善がこれ に答えると、鉄は冷笑する、舌打をする。  この争(あらそい)は週を累(かさ)ね月を累ねて歇(や)まなかった。五百らは百方調停を試みたが何の功をも奏せなかった。  五百はやむことをえぬので、周禎に交渉して再び鉄を引き取ってもらおうとした。しかし周禎は容易に応ぜなかった。渋江氏と周禎が方(かた)との間に、 幾度となく交換せられた要求と拒絶とは、押問答(おしもんどう)の姿になった。  この往反(おうへん)の最中に忽ち優善が失踪(しっそう)した。十二月二十八日に土手町の家を出て、それきり帰って来ぬのである。渋江氏では、優善が 悶(もん)を排せんがために酒色の境に遁(のが)れたのだろうと思って、手分(てわけ)をして料理屋と妓楼(ぎろう)とを捜索させた。しかし優善のあり かはどうしても知れなかった。 その八十七  比良野貞固(さだかた)は江戸を引き上げる定府(じょうふ)の最後の一組三十戸ばかりの家族と共に、前年五、六月の交(こう)安済丸(あんさいまる) という新造帆船(ほぶね)に乗った。然(しか)るに安済丸は海に泛(うか)んで間もなく、柁機(だき)を損じて進退の自由を失った。乗組員は某地より上 陸して、許多(あまた)の辛苦を甞(な)め、この年五月にようよう東京に帰った。  さて更に米艦スルタン号に乗って、この度は無事に青森に著(ちゃく)した。佐藤弥六(さとうやろく)さんは当時の同乗者の一人(いちにん)だそうであ る。  弘前にある渋江氏は、貞固が東京を発したことを聞いていたのに、いつまでも到著(とうちゃく)せぬので、どうした事かと案じていた。殊に比良野助太郎 と書した荷札が青森の港に流れ寄ったという流言などがあって、いよいよ心を悩まする媒(なかだち)となった。そのうちこの年十二月十日頃に青森から発し た貞固の手書(しゅしょ)が来た。その中(うち)には安済丸の故障のために一たび去った東京に引き返し、再び米艦に乗って来たことを言って、さて金を持 って迎えに来てくれといってあった。一年余の間無益な往反をして、貞固の盤纏(はんてん)は僅(わずか)に一分銀(いちぶぎん)一つを剰(あま)してい たのである。  弘前に来てから現金の給与を受けたことのない渋江氏では、この書を得て途方に暮れたが、船廻(ふなまわ)しにした荷の中(うち)に、刀剣のあったのを 三十五振(ふり)質に入れて、金二十五両を借り、それを持って往って貞固を弘前へ案内した。  貞固の養子房之助はこの年に手廻(てまわり)を命ぜられたが、藩制が改まったので、久しくこの職におることが出来なかった。  抽斎歿後の第十二年は明治三年である。六月十八日に弘前藩士の秩禄(ちつろく)は大削減を加えられ、更に医者の降等(こうとう)が令せられた。禄高( ろくだか)は十五俵より十九俵までを十五俵に、二十俵より二十九俵までを二十俵に、三十俵より四十九俵までを三十俵に、五十俵より六十九俵までを四十俵 に、七十俵より九十九俵までを六十俵に、百俵より二百四十九俵までを八十俵に、二百五十俵より四百九十九俵までを百俵に、五百俵より七百九十九俵までを 百五十俵に、八百俵以上を二百俵に減ぜられたのである。そして従来石高(こくだか)を以て給せられていたものは、そのまま俵と看做(みな)して同一の削 減を行われた。そして士分を上士(じょうし)、中士、下士に班(わか)って、各班に大少を置いた。二十俵を少下士(しょうかし)、三十俵を大下士、四十 俵を少中土、八十俵を大中士、百五十俵を少上土、二百俵を大上土とするというのである。  渋江氏は原禄三百石であるから、中の上に位するはずで、小禄の家に比ぶれば、受くる所の損失が頗る大きい。それでも渋江氏はこれを得て満足するつもり でいた。  然るに医者の降等の令が出て、それが渋江氏に適用せられることになった。本(もと)成善(しげよし)は医者の子として近習小姓に任ぜられているには違 (ちがい)ない。しかしいまだかつて医として仕えたことはない。しかのみならず令の出(い)づるに先だって、十四歳を以て藩学の助教にせられ、生徒に経 書(けいしょ)を授けている。これは師たる兼松石居が已(すで)に屏居(へいきょ)を免(ゆる)されて藩の督学を拝したので、その門人もまた挙用せられ たのである。かつ先例を按(あん)ずるに、歯科医佐藤春益(しゅんえき)の子は、単に幼くして家督したために、平士(へいし)にせられている。いわんや 成善は分明(ぶんめい)に儒職にさえ就いているのである。成善がこの令を己(おのれ)に適用せられようと思わなかったのも無理はない。  しかし成善は念のために大参事西館孤清(にしだてこせい)、少参事兼大隊長加藤武彦(たけひこ)の二人(ににん)を見て意見を叩(たた)いた。二人皆 成善は医として視(み)るべきものでないといった。武彦は前(さき)の側用人(そばようにん)兼用人清兵衛(せいべえ)の子である。何ぞ料(はか)らん 、成善は医者と看做(みな)されて降等に逢い、三十俵の禄を受くることとなり、あまつさえ士籍の外(ほか)にありなどとさえいわれたのである。成善は抗 告を試みたが、何の功をも奏せなかった。 その八十八  何故(なにゆえ)に儒を以て仕えている成善に、医者降等の令を適用したかというに、それは想像するに難くはない。渋江氏は世(よよ)儒を兼ねて、命を 受けて経(けい)を講じてはいたが、家は本(もと)医道の家である。成善に至っても、幼い時から多紀安琢の門に入(い)っていた。また已(すで)に弘前 に来た後(のち)も、医官北岡太淳(きたおかたいじゅん)、手塚元瑞(てづかげんずい)、今春碩(いまはるせき)らは成善に兼て医を以て仕えんことを勧 め、こういう事を言った。「弘前には少壮者中に中村春台(しゅんたい)、三上道春(みかみどうしゅん)、北岡有格(ゆうかく)、小野圭庵(おのけいあん )の如きものがある。その他小山内元洋(おさないげんよう)のように新(あらた)に召し抱えられたものもある。しかし江戸定府(じょうふ)出身の少(わ か)い医者がない。ちと医業の方をも出精(しゅっせい)してはどうだ」といった。かつ令の発せられる少し前の出来事で、成善が津軽承昭(つぐてる)に医 として遇せられていた証拠がある。六月十三日に、藩知事承昭は戦(たたかい)を大星場(おおほしば)に習わせた。承昭は五月二十六日に知事になっていた のである。銃声の盛んに起った時、第五大隊の医官小野道秀が病を発した。承昭は傍(かたわら)に侍した成善をして小野に代らしめた。此(かく)の如く渋 江氏の子が医を善くすることは、上下(じょうか)皆信じていたと見える。しかしこれがために、現に儒を以て仕えているものを不幸に陥いれたのは、同情が 闕(か)けていたといっても好(よ)かろう。  矢島優善(やすよし)は前年の暮に失踪(しっそう)して、渋江氏では疑懼(ぎく)の間に年を送った。この年一月(いちげつ)二日の午後に、石川駅の人 が二通の手紙を持って来た。優善が家を出た日に書いたもので、一は五百(いお)に宛(あ)て、一は成善に宛ててある。並(ならび)に訣別(けつべつ)の 書で、所々(しょしょ)涙痕(るいこん)を印(いん)している。石川は弘前を距(さ)ること一里半を過ぎぬ駅であるが、使のものは命ぜられたとおりに、 優善が駅を去った後(のち)に手紙を届けたのである。  五百と成善とは、優善が雪中に行き悩みはせぬか、病み臥(ふ)しはせぬかと気遣(きづか)って、再び人を傭(やと)って捜索させた。成善は自ら雪を冒 して、石川、大鰐(おおわに)、倉立(くらだて)、碇関(いかりぜき)等を隈(くま)なく尋ねた。しかし蹤跡(しょうせき)は絶(たえ)て知れなかった 。  優善は東京をさして石川駅を発し、この年一月二十一日に吉原の引手茶屋湊屋(みなとや)に著(つ)いた。湊屋の上(かみ)さんは大分年を取った女で、 常に優善を「蝶(ちょう)さん」と呼んで親(したし)んでいた。優善はこの女をたよって往ったのである。  湊屋に皆(みな)という娘がいた。このみいちゃんは美しいので、茶屋の呼物(よびもの)になっていた。みいちゃんは津藤(つとう)に縁故があるとかい う河野(こうの)某を檀那(だんな)に取っていたが、河野は遂にみいちゃんを娶(めと)って、優善が東京に著いた時には、今戸橋(いまどばし)の畔(ほ とり)に芸者屋を出していた。屋号は同じ湊屋である。  優善は吉原の湊屋の世話で、山谷堀(さんやぼり)の箱屋になり、主(おも)に今戸橋の湊屋で抱えている芸者らの供をした。  四カ月半ばかりの後、或人の世話で、優善は本所緑町の安田という骨董店(こっとうてん)に入贅(にゅうぜい)した。安田の家では主人礼助(れいすけ) が死んで、未亡人(びぼうじん)政(まさ)が寡居していたのである。しかし優善の骨董商時代は箱屋時代より短かった。それは政が優善の妻になって間もな くみまかったからである。  この頃前(さき)に浦和県の官吏となった塩田良三(りょうさん)が、権大属(ごんだいさかん)に陞(のぼ)って聴訟係(ていしょうがかり)をしていた が、優善を県令に薦(すす)めた。優善は八月十八日を以て浦和県出仕を命ぜられ、典獄になった。時に年三十六であった。 その八十九  専六は兵士との交(まじわり)が漸(ようや)く深くなって、この年五月にはとうとう「於軍務局楽手稽古被仰付(ぐんむきょくにおいてがくしゅけいこお おせつけらる)」という沙汰書(さたしょ)を受けた。さて楽手の修行をしているうちに、十二月二十九日に山田源吾(やまだげんご)の養子になった。源吾 は天保中津軽信順(のぶゆき)がいまだ致仕せざる時、側用人を勤めていたが、旨(むね)に忤(さか)って永(なが)の暇(いとま)になった。しかし他家 に仕えようという念もなく、商估(しょうこ)の業(わざ)をも好まぬので、家の菩提所(ぼだいしょ)なる本所中(なか)の郷(ごう)の普賢寺(ふけんじ )の一房に ※(「にんべん+就」、第3水準1-14-40) 居(しゅうきょ)し、日ごとに街(ちまた)に出(い)でて謡を歌って銭を乞(こ)うた。  この純然たる浪人生活が三十年ばかり続いたのに、源吾は刀剣、紋附(もんつき)の衣類、上下(かみしも)等を葛籠(つづら)一つに収めて持っていた。  承昭(つぐてる)はこの年源吾を召し還(かえ)して、二十俵を給し、目見(めみえ)以下の士に列せしめ、本所横川邸の番人を命じた。然るに源吾は年老 い身病んで久しく職におりがたいのを慮(おもんぱか)って、養子を求めた。  この時源吾の親戚(しんせき)に戸沢惟清(とざわいせい)というものがあって、専六をその養子に世話をした。戸沢は五百(いお)に説くに、山田の家世 (かせい)の本(もと)卑(いやし)くなかったのと、東京勤(づとめ)の身を立つるに便なるとを以てし、またこういった。「それに専六さんが東京にいる と、後(のち)に弟御(おとうとご)さんが上京することになっても御都合が宜(よろ)しいでしょう」といった。成善(しげよし)は等を降(くだ)され禄 を減ぜられた後、東京に往って恥を雪(すす)ごうと思っていたからである。  戸沢がこういって勧めた時、五百は容易にこれに耳を傾(かたぶ)けた。五百は戸沢の人(ひと)と為(な)りを喜んでいたからである。戸沢惟清、通称は 八十吉(やそきち)、信順(のぶゆき)在世の日の側役(そばやく)であった。才幹あり気概ある人で、恭謙にして抑損し、些(ちと)の学問さえあった。然 るに酒を被(こうぶ)るときは剛愎(ごうふく)にして人を凌(しの)いだ。信順は平素命じて酒を絶たしめ、用帑(ようど)匱(とぼ)しきに至るごとに、 これに酒を飲ましめ、命を当局に伝えさせた。戸沢は当局の一諾を得ないでは帰らなかったそうである。  或時戸沢は公事を以て旅行した。物書(ものかき)松本甲子蔵(まつもときねぞう)がこれに随(したが)っていた。駕籠(かご)の中(うち)に坐した戸 沢が、ふと側(かたわら)を歩く松本を見ると、草鞋(わらじ)の緒が足背(そくはい)を破って、鮮血が流れていた。戸沢は急に一行を止(とど)まらせて 、大声に「甲子蔵」と呼んだ。「はっ」といって松本は轎扉(きょうひ)に近づいた。戸沢は「ちと内用(ないよう)があるから遠慮いたせ」といって、供の ものを遠(とおざ)け、松本に草鞋(わらじ)を脱がせて、強いて轎中に坐せしめ、自ら松本の草鞋を著(つ)け、さて轎丁を呼んで舁(か)いて行かせたそ うである。これは松本が保さんに話した事で、保さんはまた戸沢とその弟星野伝六郎とをも識(し)っていた。戸沢の子米太郎(よねたろう)、星野の子金蔵 (きんぞう)の二人はかつて保さんの教(おしえ)を受けたことがある。  戸沢の勧誘には、この年弘前に著(ちゃく)した比良野貞固(さだかた)も同意したので、五百は遂にこれに従って、専六が山田氏に養わるることを諾した 。その事の決したのが十二月二十九日で、専六が船の青森を発したのが翌三十日である。この年専六は十七歳になっていた。然るに東京にある養父源吾は、専 六がなお舟中(しゅうちゅう)にある間に病歿した。  矢川文一郎に嫁した陸(くが)は、この年長男万吉(まんきち)を生んだが、万吉は夭折して弘前新寺町(しんてらまち)の報恩寺なる文内(ぶんない)が 母の墓の傍(かたわら)に葬られた。  抽斎の六女水木(みき)はこの年馬役村田小吉(むらたこきち)の子広太郎(ひろたろう)に嫁した。時に年十八であった。既にして矢島周禎が琴瑟(きん しつ)調わざることを五百に告げた。五百はやむをえずして水木を取り戻した。  小野氏ではこの年富穀(ふこく)が六十四歳で致仕し、子道悦が家督相続をした。道悦は天保七年生(うまれ)で、三十五歳になっていた。  中丸昌庵はこの年六月二十八日に歿した。文政元年生の人だから、五十三歳を以て終ったのである。  弘前の城はこの年五月二十六日に藩庁となったので、知事津軽承昭(つぐてる)は三之内(さんのうち)に遷(うつ)った。 その九十  抽斎歿後の第十三年は明治四年である。成善(しげよし)は母を弘前に遺(のこ)して、単身東京に往(ゆ)くことに決心した。その東京に往こうとするの は、一には降等に遭(あ)って不平に堪えなかったからである。二には減禄の後(のち)は旧に依(よ)って生計を立てて行くことが出来ぬからである。その 母を弘前に遺すのは、脱藩の疑(うたがい)を避けんがためである。  弘前藩は必ずしも官費を以て少壮者を東京に遣ることを嫌わなかった。これに反して私費を以て東京に往こうとするものがあると、藩は已(すで)にその人 の脱藩を疑った。いわんや家族をさえ伴おうとすると、この疑は益(ますます)深くなるのであった。  成善が東京に往こうと思っているのは久しい事で、しばしばこれを師兼松石居(かねまつせききょ)に謀(はか)った。石居は機を見て成善を官費生たらし めようと誓った。しかし成善は今は徐(しずか)にこれを待つことが出来なくなったのである。  さて成善は私費を以て往くことを敢(あえ)てするのであるが、なお母だけは遺して置くことにした。これはやむことをえぬからである。何故(なにゆえ) というに、もし成善が母と倶(とも)に往こうといったなら、藩は放ち遣ることを聴(ゆる)さなかったであろう。  成善は母に約するに、他日東京に迎え取るべきことを以てした。しかし藩の必ずこれを阻格(そかく)すべきことは、母子皆これを知っていた。約(つづ) めて言えば、弘前を去る成善には母を質(ち)とするに似た恨(うらみ)があった。  藩が脱籍者の輩出せんことを恐るるに至ったのは、二、三の忌むべき実例があったからである。その首(しゅ)におるものは、彼(か)の勘定奉行を罷(や )めて米穀商となった平川半治である。当時此(かく)の如く財利のために士籍を遁(のが)れようとする気風があったことは、渋江氏もまた親しくこれを験 することを得た。或人は五百(いお)に説いて、東京両国の中村楼を買わせようとした。今千両の金を投じて買って置いたなら、他日鉅万(きょまん)の富( とみ)を致すことが出来ようといったのである。或人は東京神田須田町(すだちょう)の某売薬株を買わせようとした。この株は今廉価を以て贖(あがな)う ことが出来て、即日から月収三百両乃至(ないし)五百両の利があるといったのである。五百のこれに耳を仮(か)さなかったことは固(もと)よりである。  当時藩職におって、津軽家をして士を失わざらしめんと欲し、極力脱籍を防いだのは、大参事西館孤清(にしだてこせい)である。成善は西館を訪(と)う て、東京に往くことを告げた。西館はおおよそこういった。東京に往くは好(よ)い。学業成就して弘前に帰るなら、我らはこれを任用することを吝(おし) まぬであろう。しかし半途にして母を迎え取らんとするが如きことがあったなら、それは郷土のために謀って忠ならざることを証するものである。我藩はこれ を許さぬであろうといった。成善は悲痛の情を抑えて西館の許(もと)を辞した。  成善は家禄を割(さ)いて、その五人扶持を東京に送致してもらうことを、当路の人に請うて允(ゆる)された。それから長持一棹(ひとさお)の錦絵を書 画兼骨董商近竹(きんたけ)に売った。これは浅草蔵前(くらまえ)の兎桂(とけい)等で、二十枚百文位で買った絵であるが、当時三枚二百文乃至(ないし )一枚百文で売ることが出来た。成善はこの金を得て、半(なかば)は留(とど)めて母に餽(おく)り、半はこれを旅費と学資とに充(あ)てた。  成善が弘前で暇乞(いとまごい)に廻った家々の中で、最も別(わかれ)を惜(おし)んだのは兼松石居と平井東堂とであった。東堂は左 ※(「月+咢」、第3水準1-90-51) 下(さがくか)に瘤(こぶ)を生じたので、自ら瘤翁(りゅうおう)と号していたが、別に臨んで、もう再会は覚束(おぼつか)ないといって落涙した。成善 の去った翌年、明治五年九月十六日に東堂は塩分町(しおわけちょう)の家に歿した。年五十九である。四女とめが家を継いだ。今東京神田裏神保町(じんぼ うちょう)に住んで、琴の師匠をしている平井松野(まつの)さんがこのとめである。 その九十一  成善(しげよし)は藩学の職を辞して、この年三月二十一日に、母五百(いお)と水杯(みずさかずき)を酌(く)み交して別れ、駕籠(かご)に乗って家 を出た。水杯を酌んだのは、当時の状況より推して、再会の期しがたきを思ったからである。成善は十五歳、五百は五十六歳になっていた。抽斎の歿した時は 、成善はまだ少年であったので、この時始(はじめ)て親子の別(わかれ)の悲しさを知って、轎中(きょうちゅう)で声を発して泣きたくなるのを、ようよ う堪え忍んだそうである。  同行者は松本甲子蔵(きねぞう)であった。甲子蔵は後に忠章(ちゅうしょう)と改称した。父を庄兵衛(しょうべえ)といって、素(もと)比良野貞固( さだかた)の父文蔵の若党であった。文蔵はその樸直(ぼくちょく)なのを愛して、津軽家に薦(すす)めて足軽(あしがる)にしてもらった。その子甲子蔵 は才学があるので、藩の公用局の史生(しせい)に任用せられていたのである。  弘前から旅立つものは、石川駅まで駕籠で来て、ここで親戚故旧と酒を酌(く)んで別れる習(ならい)であった。成善を送るものは、句読(くとう)を授 けられた少年らの外、矢川文一郎、比良野房之助、服部善吉(はっとりぜんきち)、菱川太郎(ひしかわたろう)などであった。後に服部は東京で時計職工に なり、菱川は辻新次さんの家の学僕になったが、二人(ににん)共に已(すで)に世を去った。  成善は四月七日に東京に着いた。行李(こうり)を卸したのは本所二つ目の藩邸である。これより先成善の兄専六は、山田源吾の養子になって、東京に来て 、まだ父子の対面をせぬ間(ま)に死んだ源吾の家に住んでいた。源吾は津軽承昭(つぐてる)の本所横川に設けた邸をあずかっていて、住宅は本所割下水( わりげすい)にあったのである。その外東京には五百の姉安が両国薬研堀(やげんぼり)に住んでいた。安の女(むすめ)二人(ふたり)のうち、敬(けい) は猿若町三丁目の芝居茶屋三河屋に、銓(せん)は蔵前須賀町の呉服屋桝屋(ますや)儀兵衛の許(もと)にいた。また専六と成善との兄優善(やすよし)は 、ほど遠からぬ浦和にいた。  成善の旧師には多紀安琢(あんたく)が矢の倉におり、海保竹逕(ちくけい)がお玉が池にいた。維新の初(はじめ)に官吏になって、この邸を伊沢鉄三郎 の徳安が手から買い受けて、練塀小路(ねりべいこうじ)の湿地にあった、床(ゆか)の低い、畳の腐った家から移り住んだ。独(ひとり)家宅が改まったの みではない。常に弊衣を著(き)ていた竹逕が、その頃から絹布(けんぷ)を被(き)るようになった。しかし幾(いくばく)もなく、当時の有力者山内豊信 (とよしげ)等の斥(しりぞ)くる所となって官を罷(や)めた。成善は四月二十二日に再び竹逕の門に入(い)ったが、竹逕は前年に会陰(えいん)に膿瘍 (のうよう)を発したために、やや衰弱していた。成善は久しぶりにその『易(えき)』や『毛詩(もうし)』を講ずるのを聴(き)いた。多紀安琢は維新後 困窮して、竹逕の扶養を蒙(こうむ)っていた。成善はしばしばその安否を問うたが、再び『素問』を学ぼうとはしなかった。  成善は英語を学ばんがために、五月十一日に本所相生町(あいおいちょう)の共立学舎に通いはじめた。父抽斎は遺言(いげん)して蘭語を学ばしめようと したのに、時代の変遷は学ぶべき外国語を易(か)うるに至らしめたのである。共立学舎は尺振八(せきしんぱち)の経営する所である。振八、初(はじめ) の名を仁寿(じんじゅ)という。下総国高岡の城主井上(いのうえ)筑後守正滝(まさたき)の家来鈴木伯寿(はくじゅ)の子である。天保十年に江戸佐久間 町に生れ、安政の末年(ばつねん)に尺氏を冒した。田辺太一(たなべたいち)に啓発せられて英学に志し、中浜万次郎、西吉十郎(にしきちじゅうろう)等 を師とし、次で英米人に親炙(しんしゃ)し、文久中仏米二国に遊んだ。成善が従学した時は三十三歳になっていた。 その九十二  成善は四月に海保の伝経廬(でんけいろ)に入(い)り、五月に尺(せき)の共立学舎に入ったが、六月から更に大学南校(なんこう)にも籍を置き、日課 を分割して三校に往来し、なお放課後にはフルベックの許(もと)を訪うて教を受けた。フルベックは本(もと)和蘭(オランダ)人で亜米利加(アメリカ) 合衆国に民籍を有していた。日本の教育界を開拓した一人(いちにん)である。  学資は弘前藩から送って来る五人扶持の中(うち)三人扶持を売って弁ずることが出来た。当時の相場(そうば)で一カ月金二両三分二朱と四百六十七文で あった。書籍は英文のものは初より新(あらた)に買うことを期していたが、漢書は弘前から抽斎の手沢本(しゅたくぼん)を送ってもらうことにした。然る にこの書籍を積んだ舟が、航海中七月九日に暴風に遭って覆って、抽斎のかつて蒐集(しゅうしゅう)した古刊本等の大部分が海若(かいじゃく)の有(ゆう )に帰(き)した。  八月二十八日に弘前県の幹督が成善に命ずるに神社調掛(しらべがかり)を以てし、金三両二分二朱と二匁二分五厘の手当を給した。この命は成善が共立学 舎に入(い)ることを届けて置いたので、同時に「欠席聞届(ききとどけ)の委頼(いらい)」という形式を以て学舎に伝えられた。これより先七月十四日の 詔(みことのり)を以て廃藩置県の制が布(し)かれたので、弘前県が成立していたのである。  矢島優善は浦和県の典獄になっていて、この年一月七日に唐津(からつ)藩士大沢正(おおさわせい)の女(むすめ)蝶(ちょう)を娶(めと)った。嘉永 二年生(うまれ)で二十三歳である。これより先前妻鉄は幾多の葛藤(かっとう)を経た後(のち)に離別せられていた。  優善は七月十七日に庶務局詰に転じ十月十七日に判任史生にせられた。次で十一月十三日に浦和県が廃せられて、その事務は埼玉県に移管せられたので、優 善は十二月四日を以て更に埼玉県十四等出仕を命ぜられた。  成善と倶(とも)に東京に来た松本甲子蔵(きねぞう)は、優善に薦められて、同時に十五等出仕を命ぜられたが、後(のち)兵事課長に進み、明治三十二 年三月二十八日に歿した。弘化二年生であるから、五十五歳になったのである。  当時県吏の権勢は盛(さかん)なものであった。成善が東京に入(い)った直後に、まだ浦和県出仕の典獄であった優善を訪うと、優善は等外一等出仕宮本 半蔵に駕籠(かご)一挺を宰領させて成善を県の界(さかい)に迎えた。成善がその駕籠に乗って、戸田の渡しに掛かると、渡船場(とせんば)の役人が土下 座をした。  優善が庶務局詰になった頃の事である。或日優善は宴会を催して、前年に自分が供をした今戸橋の湊屋(みなとや)の抱(かかえ)芸者を始(はじめ)とし 、山谷堀で顔を識(し)った芸者を漏(もれ)なく招いた。そして酒闌(たけなわ)なる時「己(おれ)はお前方(まえがた)の供をして、大ぶ世話になった ことがあるが、今日は己もお客だぞ」といった。大丈夫(だいじょうふ)志を得たという概があったそうである。  県吏の間には当時飲宴がしばしば行われた。浦和県知事間島冬道(まじまふゆみち)の催した懇親会では、塩田良三(りょうさん)が野呂松(のろま)狂言 を演じ、優善が莫大小(メリヤス)の襦袢(じゅばん)袴下(はかました)を著(き)て夜這(よばい)の真似(まね)をしたことがある。間島は通称万次郎 、尾張(おわり)の藩士である。明治二年四月九日に刑法官判事から大宮(おおみや)県知事に転じた。大宮県が浦和県と改称せられたのは、その年九月二十 九日の事である。  この年の暮、優善が埼玉県出仕になってからの事である。某村の戸長(こちょう)は野菜一車(ひとくるま)を優善に献じたいといって持って来た。優善は 「己(おれ)は賄賂(わいろ)は取らぬぞ」といって却(しりぞ)けた。  戸長は当惑顔をしていった。「どうもこの野菜をこのまま持って帰っては、村の人民どもに対して、わたくしの面目(めんぼく)が立ちませぬ。」 「そんなら買って遣ろう」と、優善がいった。  戸長はようよう天保銭一枚を受け取って、野菜を車から卸させて帰った。  優善は廉(やす)い野菜を買ったからといって、県令以下の職員に分配した。  県令は野村盛秀(のむらもりひで)であったが、野菜を貰(もら)うと同時にこの顛末(てんまつ)を聞いて、「矢島さんの流義は面白い」といって褒(ほ )めたそうである。野村は初め宗七(そうしち)と称した。薩摩の士で、浦和県が埼玉県となった時、日田(ひた)県知事から転じて埼玉県知事に任ぜられた 。間島冬道は去って名古屋県に赴いて、参事の職に就いたが、後明治二十三年九月三十日に御歌所寄人(おんうたどころよりうど)を以て終った。また野村は 後(のち)明治六年五月二十一日にこの職にいて歿したので、長門(ながと)の士参事白根多助(しらねたすけ)が一時県務を摂行(せっこう)した。 その九十三  山田源吾の養子になった専六は、まだ面会もせぬ養父を喪(うしな)って、その遺跡を守っていたが、五月一日に至って藩知事津軽承昭(つぐてる)の命を 拝した。「親源吾給禄二十俵無相違被遣(そういなくつかわさる)」というのである。さて源吾は謁見を許されぬ職を以て終ったが、六月二十日に専六は承昭 に謁することを得た。これは成善(しげよし)が内意を承(う)けて願書を呈したためである。  専六は成善に紹介せられて、先ず海保の伝経廬(でんけいろ)に入(い)り、次で八月九日に共立学舎に入り、十二月三日に梅浦精一(うめうらせいいち) に従学した。  この年六月七日に成善は名を保(たもつ)と改めた。これは母を懐(おも)うが故に改めたので、母は五百(いお)の字面(じめん)の雅(が)ならざるが ために、常に伊保と署していたのだそうである。矢島優善(やすよし)の名を優(ゆたか)と改めたのもこの年である。山田専六の名を脩(おさむ)と改めた のは、別に記載の徴すべきものはないが、やや後の事であったらしい。  この年十二月三日に保と脩とが同時に斬髪(ざんぱつ)した。優は何時(いつ)斬髪したか知らぬが、多分同じ頃であっただろう。優は少し早く東京に入り 、ほどなく東京を距(さ)ること遠からぬ浦和に往って官吏をしていたが、必ずしも二弟に先だって斬髪したともいいがたい。紫の紐(ひも)を以て髻(もと どり)を結(ゆ)うのが、当時の官吏の頭飾(とうしょく)で、優が何時までその髻を愛惜(あいじゃく)したかわからない。人はあるいは抽斎の子供が何時 斬髪したかを問うことを須(もち)いぬというかも知れない。しかし明治の初(はじめ)に男子が髪を斬ったのは、独逸(ドイツ)十八世紀のツォップフが前 に断たれ、清朝(しんちょう)の辮髪(べんぱつ)が後(のち)に断たれたと同じく、風俗の大変遷である。然るに後の史家はその年月を知るに苦(くるし) むかも知れない。わたくしの如きは自己の髪を斬った年を記(き)していない。保さんの日記の一条を此(ここ)に採録する所以(ゆえん)である。  この年十二月二十二日に、本所二つ目の弘前藩邸が廃せられたために、保は兄山田脩が本所割下水(わりげすい)の家に同居した。  海保竹逕(ちくけい)の妻、漁村の女(むすめ)がこの年十月二十五日に歿した。  抽斎歿後の第十四年は明治五年である。一月(いちげつ)に保が山田脩の家から本所横網町(よこあみちょう)の鈴木きよ方の二階へ徙(うつ)った。鈴木 は初め船宿(ふなやど)であったが、主人が死んでから、未亡人きよが席貸(せきがし)をすることになった。きよは天保元年生(うまれ)で、この年四十三 歳になっていた。当時善く保を遇したので、保は後年に至るまで音信(いんしん)を断たなかった。これより先(さき)保は弘前にある母を呼び迎えようとし て、藩の当路者に諮(はか)ること数次であった。しかし津軽承昭(つぐてる)の知事たる間は、西館らが前説を固守して許さなかった。前年廃藩の詔(みこ とのり)が出て、承昭は東京におることになり、県政もまた頗(すこぶ)る革(あらた)まったので、保はまた当路者に諮(はか)った。当路者は復(また) 五百の東京に入(い)ることを阻止しようとはしなかった。唯(ただ)保が一諸生を以て母を養わんとするのが怪(あやし)むべきだといった。それゆえ保は 矢島優に願書を作らせて呈した。県庁はこれを可とした。五百(いお)はようよう弘前から東京に来ることになった。  保が東京に遊学した後(のち)の五百が寂しい生活には、特に記すべき事はない。ただ前年廃藩前(ぜん)に、弘前俎林(まないたばやし)の山林地が渋江 氏に割与せられたのみである。これは士分のものに授産の目的を以て割与した土地に剰余があったので、当路者が士分として扱われざる医者にも恩恵を施した のだそうである。この地面の授受は浅越玄隆(あさごえげんりゅう)が五百の委託によって処理した。  五百が弘前を去る時、村田広太郎の許(もと)から帰った水木(みき)を伴わなくてはならぬことは勿論(もちろん)であった。その外陸(くが)もまた夫 矢川文一郎と倶(とも)に五百に附いて東京へ往くことになった。  文一郎は弘前を発する前に、津軽家の用達(ようたし)商人工藤忠五郎蕃寛(くどうちゅうごろうはんかん)の次男蕃徳(はんとく)を養子にして弘前に遺 (のこ)した。蕃寛には二子二女があった。長男可次(よしつぐ)は森甚平(もりじんぺい)の士籍、また次男蕃徳は文一郎の士籍を譲り受けた。長女お連( れん)さんは蕃寛の後(のち)を継いで、現に弘前の下白銀町(しもしろかねちょう)に矢川写真館を開いている。次女おみきさんは岩川(いわかわ)氏友弥 (ともや)さんを壻に取って、本町一丁目角にエム矢川写真所を開いている。蕃徳は郵便技手になって、明治三十七年十月二十八日に歿し、養子文平(ぶんぺ い)さんがその後(のち)を襲(つ)いだ。 その九十四  五百(いお)は五月二十日に東京に着いた。そして矢川文一郎、陸(くが)の夫妻並(ならび)に村田氏から帰った水木(みき)の三人と倶(とも)に、本 所横網町の鈴木方に行李(こうり)を卸した。弘前からの同行者は武田代次郎(たけだだいじろう)というものであった。代次郎は勘定奉行武田準左衛門(じ ゅんざえもん)の孫である。準左衛門は天保四年十二月二十日に斬罪に処せられた。津軽信順(のぶゆき)の下(しも)で笠原近江(かさはらおうみ)が政( まつりごと)を擅(ほしいまま)にした時の事である。  五百と保とは十六カ月を隔てて再会した。母は五十七歳、子は十六歳である。脩は割下水から、優(ゆたか)は浦和から母に逢いに来た。  三人の子の中で、最も生計に余裕があったのは優である。優はこの年四月十二日に権少属(ごんしょうさかん)になって、月給僅(わずか)に二十五円であ る。これに当時の潤沢なる巡回旅費を加えても、なお七十円ばかりに過ぎない。しかしその意気は今の勅任官に匹敵していた。優の家には二人(ふたり)の食 客があった。一人(ひとり)は妻(さい)蝶の弟大沢正(おおさわせい)である。今一人は生母徳(とく)の兄岡西玄亭の次男養玄である。玄亭の長男玄庵は かつて保の胞衣(えな)を服用したという癲癇(てんかん)病者で、維新後間もなく世を去った。次男がこの養玄で、当時氏名を更(あらた)めて岡寛斎(お かかんさい)といっていた。優が登庁すると、その使役する給仕(きゅうじ)は故旧中田(なかだ)某の子敬三郎(けいざぶろう)である。優が推薦した所の 県吏には、十五等出仕松本甲子蔵(きねぞう)がある。また敬三郎の父中田某、脩の親戚山田健三(けんぞう)、かつて渋江氏の若党たりし中条勝次郎(かつ じろう)、川口に開業していた時の相識宮本半蔵がある。中田以下は皆月給十円の等外一等出仕である。その他今の清浦子(きようらし)が県下の小学教員と なり、県庁の学務課員となるにも、優の推薦が与(あずか)って力があったとかで、「矢島先生奎吾(けいご)」と書した尺牘(せきどく)数通(すつう)が 遺(のこ)っている。一時優の救援に藉(よ)って衣食するもの数十人の衆(おお)きに至ったそうである。  保は下宿屋住いの諸生、脩は廃藩と同時に横川邸の番人を罷(や)められて、これも一戸を構えているというだけでやはり諸生であるのに、独り優が官吏で あって、しかも此(かく)の如く応分の権勢をさえ有している。そこで優は母に勧めて、浦和の家に迎えようとした。 「保が卒業して渋江の家を立てるまで、せめて四、五年の間、わたくしの所に来ていて下さい」といったのである。  しかし五百は応ぜなかった。「わたしも年は寄ったが、幸に無病だから、浦和に往って楽をしなくても好(い)い。それよりは学校に通う保の留守居でもし ましょう」といったのである。  優はなお勧めて已(や)まなかった。そこへ一粒金丹(いちりゅうきんたん)のやや大きい注文が来た。福山、久留米(くるめ)の二カ所から来たのである 。金丹を調製することは、始終五百が自らこれに任じていたので、この度もまた直(すぐ)に調合に着手した。優は一旦(いったん)浦和へ帰った。  八月十九日に優は再び浦和から出て来た。そして母に言うには、必ずしも浦和へ移らなくても好(い)いから、とにかく見物がてら泊りに来てもらいたいと いうのであった。そこで二十日に五百は水木(みき)と保とを連れて浦和へ往った。  これより先(さき)保は高等師範学校に入(い)ることを願って置いたが、その採用試験が二十二日から始まるので、独り先に東京に帰った。 その九十五  保が師範学校に入ることを願ったのは、大学の業を卒(お)うるに至るまでの資金を有せぬがためであった。師範学校はこの年始て設けられて、文部省は上 等生に十円、下等生に八円を給した。保はこの給費を仰がんと欲したのである。  然るに此(ここ)に一つの障礙(しょうがい)があった。それは師範学校の生徒は二十歳以上に限られているのに、保はまだ十六歳だからである。そこで保 は森枳園(きえん)に相談した。  枳園はこの年二月に福山を去って諸国を漫遊し、五月に東京に来て湯島切通(ゆしまきりどお)しの借家(しゃっか)に住み、同じ月の二十七日に文部省十 等出仕になった。時に年六十六である。  枳園はよほど保を愛していたものと見え、東京に入った第三日に横網町の下宿を訪うて、切通しの家へ来いといった。保が二、三日往かずにいると、枳園は また来て、なぜ来ぬかと問うた。保が尋ねて行って見ると、切通しの家は店造(みせづくり)で、店と次の間(ま)と台所とがあるのみで、枳園はその店先に 机を据えて書を読んでいた。保が覚えず、「売卜者(ばいぼくしゃ)のようじゃありませんか」というと、枳園は面白げに笑った。それからは湯島と本所との 間に、往来(ゆきき)が絶えなかった。枳園はしばしば保を山下(やました)の雁鍋(がんなべ)、駒形(こまがた)の川桝(かわます)などに連れて往って 、酒を被(こうむ)って世を罵(ののし)った。  文部省は当時頗(すこぶ)る多く名流を羅致(らち)していた。岡本況斎、榊原琴洲(さかきばらきんしゅう)、前田元温(げんおん)等の諸家が皆九等乃 至(ないし)十等出仕を拝して月に四、五十円を給せられていたのである。  保が枳園を訪うて、師範生徒の年齢の事を言うと、枳園は笑って、「なに年の足りない位の事は、己(おれ)がどうにか話を附けて遣(や)る」といった。 保は枳園に託して願書を呈した。  師範学校の採用試験は八月二十二日に始まって、三十日に終った。保は合格して九月五日に入学することになった。五百は入学の期日に先だって、浦和から 帰って来た。  保の同級には今の末松子(すえまつし)の外、加治義方(かじよしかた)、古渡資秀(ふるわたりすけひで)などがいた。加治は後に渡辺氏を冒し、小説家 の群(むれ)に投じ、『絵入自由新聞』に続物(つづきもの)を出したことがある。作者名(みょう)は花笠文京(はながさぶんきょう)である。古渡は風采 (ふうさい)揚(あが)らず、挙止迂拙(うせつ)であったので、これと交(まじわ)るものは殆(ほとん)ど保一人(いちにん)のみであった。本(もと) 常陸国(ひたちくに)の農家の子で、地方に初生児を窒息させて殺す陋習(ろうしゅう)があったために、まさに害せられんとして僅に免れたのだそうである 。東京に来て桑田衡平(くわたこうへい)の家の学僕になっていて、それからこの学校に入(い)った。齢(よわい)は保より長ずること七、八歳であるのに 、級の席次は迥(はるか)に下(しも)にいた。しかし保はその人(ひと)と為(な)りの沈著(ちんちゃく)なのを喜んで厚くこれを遇した。この人は卒業 後に佐賀県師範学校に赴任し、暫(しばら)くして罷(や)め、慶応義塾の別科を修め、明治十二年に『新潟新聞』の主筆になって、一時東北政論家の間に重 (おもん)ぜられたが、その年八月十二日に虎列拉(コレラ)を病んで歿した。その後(のち)を襲(つ)いだのが尾崎愕堂(おざきがくどう)さんだそうで ある。  この頃矢島優は暇を得るごとに、浦和から母の安否を問いに出て来た。そして土曜日には母を連れて浦和へ帰り、日曜日に車で送り還(かえ)した。土曜日 に自身で来られぬときは、迎(むかえ)の車をおこすのであった。  鈴木の女主人(おんなあるじ)は次第に優に親(したし)んで、立派な、気さくな檀那(だんな)だといって褒めた。当時の優は黒い鬚髯(しゅぜん)を蓄 えていた。かつて黒田伯清隆(きよたか)に謁した時、座に少女があって、良(やや)久しく優の顔を見ていたが、「あの小父(おじ)さんの顔は倒(さかさ )に附いています」といったそうである。鬢毛(びんもう)が薄くて髯(ひげ)が濃いので、少女は顋(あご)を頭と視(み)たのである。優はこの容貌で洋 服を著(つ)け、時計の金鎖(きんぐさり)を胸前(きょうぜん)に垂れていた。女主人が立派だといったはずである。  或土曜日に優が夕食頃に来たので、女主人が「浦和の檀那、御飯を差し上げましょうか」といった。 「いや。ありがたいがもう済まして来ましたよ。今浅草見附(みつけ)の所を遣(や)って来ると、旨(うま)そうな茶飯餡掛(ちゃめしあんかけ)を食べさ せる店が出来ていました。そこに腰を掛けて、茶飯を二杯、餡掛を二杯食べました。どっちも五十文ずつで、丁度二百文でした。廉(やす)いじゃありません か」と、優はいった。女主人が気さくだと称するのは、この調子を斥(さ)して言ったのである。 その九十六  この年には弘前から東京に出て来るものが多かった。比良野貞固(さだかた)もその一人(ひとり)で、或日突然保(たもつ)が横網町の下宿に来て、「今 著(つ)いた」といった。貞固は妻照(てる)と六歳になる女(むすめ)柳(りゅう)とを連れて来て、百本杙(ぐい)の側に繋(つな)がせた舟の中に遺( のこ)して置いて、独り上陸したのである。さて差当り保と同居するつもりだといった。  保は即座に承引して、「御遠慮なく奥さんやお嬢さんをお連(つれ)下さい、追附(おっつけ)母も弘前から参るはずになっていますから」といった。しか し保は窃(ひそか)に心を苦(くるし)めた。なぜというに、保は鈴木の女主人(おんなあるじ)に月二両の下宿代を払う約束をしていながら、学資の方が足 らぬがちなので、まだ一度も払わずにいた。そこへ遽(にわか)に三人の客を迎えなくてはならなくなった。それが余(よ)の人ならば、宿料(しゅくりょう )を取ることも出来よう。貞固は己(おのれ)が主人となっては、人に銭を使わせたことがないのである。保はどうしても四人前の費用を弁ぜなくてはならな い。これが苦労の一つである。またこの界隈(かいわい)ではまだ糸鬢奴(いとびんやっこ)のお留守居(るすい)を見識(みし)っている人が多い。それを 横網町の下宿に舎(やど)らせるのが気の毒でならない。これが保の苦労の二つである。  保はこれを忍んで数カ月間三人を ※(「肄のへん+欠」、第3水準1-86-31) 待(かんたい)した。そして殆ど日々(にちにち)貞固を横山町の尾張屋に連れて往って馳走(ちそう)した。貞固は養子房之助の弘前から来るまで、保の下 宿にいて、房之助が著いた時、一しょに本所緑町に家を借りて移った。丁度保が母親を故郷から迎える頃の事である。  矢川文内もこの年に東京に来た。浅越玄隆も来た。矢川は質店(しちみせ)を開いたが成功しなかった。浅越は名を隆(りゅう)と更(あらた)めて、ある いは東京府の吏となり、あるいは本所区役所の書記となり、あるいは本所銀行の事務員となりなどした。浅越の子は四人あった。江戸生(うまれ)の長女ふく は中沢彦吾(なかざわひこきち)の弟彦七の妻になり、男子二人(ににん)の中(うち)、兄は洋画家となり、弟は電信技手となった。  五百と一しょに東京に来た陸(くが)が、夫矢川文一郎の名を以て、本所緑町に砂糖店(さとうみせ)を開いたのもこの年の事である。長尾の女(むすめ) 敬の夫三河屋力蔵の開いていた猿若町(さるわかちょう)の引手茶屋(ひきてぢゃや)は、この年十月に新富町(しんとみちょう)に徙(うつ)った。守田勘 弥(もりたかんや)の守田座が二月に府庁の許可を得て、十月に開演することになったからである。  この年六月に海保竹逕(ちくけい)が歿した。文政七年生(うまれ)であるから、四十九歳を以て終ったのである。前年来復(また)弁之助と称せずして、 名の元起(げんき)を以て行われていた。竹逕の歿した時、家に遺ったのは養父漁村の妾(しょう)某氏と竹逕の子女各(おのおの)一人(いちにん)とであ る。嗣子繁松(しげまつ)は文久二年生で、家を継いだ時七歳になっていた。竹逕が歿してからは、保は島田篁村(こうそん)を漢学の師と仰いだ。天保九年 に生れた篁村は三十五歳になっていたのである。  抽斎歿彼の第十五年は明治六年である。二月十日に渋江氏は当時の第六大区(だいく)六小区本所相生町(あいおいちょう)四丁目に ※(「にんべん+就」、第3水準1-14-40) 居(しゅうきょ)した。五百が五十八歳、保が十七歳の時である。家族は初め母子の外に水木(みき)がいたばかりであるが、後(のち)には山田脩が来て同 居した。脩はこの頃喘息(ぜんそく)に悩んでいたので、割下水の家を畳んで、母の世話になりに来たのである。  五百は東京に来てから早く一戸を構えたいと思っていたが、現金の貯(たくわえ)は殆ど尽きていたので、奈何(いかん)ともすることが出来なかった。既 にして保が師範学校から月額十円の支給を受けることになり、五百は世話をするものがあって、不本意ながらも芸者屋のために裁縫をして、多少の賃銀を得る ことになった。相生町の家は此(ここ)に至って始(はじめ)て借りられたのである。 その九十七  保は前年来本所相生町の家から師範学校に通っていたが、この年五月九日に学校長が生徒一同に寄宿を命じた。これは工事中であった寄宿舎が落成したため である。しかもこの命令には期限が附してあって、来六月六日に必ず舎内に徙(うつ)れということであった。  然(しか)るに保は入舎を欲せないので、「母病気に付(つき)当分の内(うち)通学御(ご)許可相成度(あいなりたく)」云々という願書を呈して、旧 に依(よ)って本所から通っていた。母の病気というのは虚言(うそ)ではなかった。五百は当時眼病に罹(かか)って苦(くるし)んでいた。しかし保は単 に五百の目疾(もくしつ)の故を以て入舎の期を延ばしたのではない。  保は師範学校の授くる所の学術が、自己の攻(おさ)めんと欲する所のものと相反しているのを見て、窃(ひそか)に退学を企てていた。それゆえ舎外生か ら舎内生に転じて、学校と自己との関係の一段の緊密を加うることを嫌うのであった。  学校は米人スコットというものを雇い来(きた)って、小学の教授法を生徒に伝えさせた。主として練習させるのは子母韻の発声である。発声の正しいもの は上席におらせる。訛(なま)っているものは下席におらせる。それゆえ東京人、中国人などは材能(さいのう)がなくても重んぜられ、九州人、東北人など は材能があっても軽(かろ)んぜられる。生徒は多く不平に堪えなかった。中にも東京人某は、己(おのれ)が上位に置かれているにもかかわらず、「この教 授法では延寿太夫が最優等生になる」と罵(ののし)った。  保は英語を操(つか)い英文を読むことを志しているのに、学校の現状を見れば、所望に ※(「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1-84-56) (かな)う科目は絶(たえ)てなかった。また縦(たと)い未来において英文の科が設けられるにしても、共に入学した五十四人の過半は純乎(じゅんこ)た る漢学諸生だから、スペルリングや第一リイダアから始められなくてはならない。保はこれらの人々と歩調を同じうして行くのを堪えがたく思った。  保はどうにかして退学したいと思った。退学してどうするかというと、相識のフルベックに請うて食客にしてもらっても好(い)い。また誰(たれ)かのボ オイになって海外へ連れて行ってもらっても好い。モオレエ夫婦などの如く、現に自分を愛しているものもある。頼みさえしたら、ボオイに使ってくれぬこと もあるまい。こんな夢を保は見ていた。  保は此(かく)の如くに思惟(しゆい)して、校長、教師に敬意を表せず、校則、課業を遵奉(じゅんぽう)することをも怠り、早晩退学処分の我頭上(と うじょう)に落ち来(きた)らんことを期していた。校長諸葛信澄(もろくずのぶずみ)の家に刺(し)を通ぜない。その家が何町(ちょう)にあるかをだに 知らずにいる。教師に遅れて教場に入る。数学を除く外、一切の科目を温習せずに、ただ英文のみを読んでいる。  入舎の命令をばこの状況の下(もと)に接受した。そして保はこう思った。もし入舎せずにいたら、必ず退学処分が降(くだ)るだろう。そうなったら、再 び頂天立地(ちょうてんりっち)の自由の身となって、随意に英学を研究しよう。勿論折角贏(か)ち得た官費は絶えてしまう。しかし書肆(しょし)万巻楼 (まんがんろう)の主人が相識で、翻訳書を出してくれようといっている。早速翻訳に着手しようというのである。万巻楼の主人は大伝馬町(おおでんまちょ う)の袋屋亀次郎(ふくろやかめじろう)で、これより先(さき)保の初(はじめ)て訳したカッケンボスの『米国史』を引き受けて、前年これを発行したこ とがある。  保はこの計画を母に語って同意を得た。しかし矢島優(ゆたか)と比良野貞固(さだかた)とが反対した。その主(おも)なる理由は、もし退学処分を受け て、氏名を文部省雑誌に載せられたら、拭(ぬぐ)うべからざる汚点を履歴の上に印するだろうというにあった。  十月十九日に保は隠忍して師範学校の寄宿舎に入(い)った。 その九十八  矢島優(ゆたか)はこの年八月二十七日に少属(しょうさかん)に陞(のぼ)ったが、次で十二月二十七日には同官等を以て工部省に転じ、鉱山に関する事 務を取り扱うことになり、芝琴平町(しばことひらちょう)に来(きた)り住した。優の家にいた岡寛斎も、優に推挙せられて工部省の雇員になった。寛斎は 後(のち)明治十七年十月十九日に歿した。天保十年生(うまれ)であるから、四十六歳を以て終ったのである。寛斎は生れて姿貌(しぼう)があったが、痘 を病んで容(かたち)を毀(やぶ)られた。医学館に学び、また抽斎、枳園(きえん)の門下におった。寛斎は枳園が寿蔵碑の後(のち)に書して、「余少時 曾在先生之門(よわかいときかつてせんせいのもんにあり)、能知其為人(よくそのひととなりと)、且学之広博(がくのこうはくをしる)、因窃録先生之言 行及字学医学之諸説(よりてひそかにせんせいのげんこうおよびじがくいがくのしょせつをろくし)、別為小冊子(べつにしょうさっしとなす)」といってい る。わたくしはその書の存否を審(つまびらか)にしない。寛斎は初め伊沢氏かえの生んだ池田全安の女(むすめ)梅を娶(めと)ったが、後これを離別して 、陸奥国(むつのくに)磐城平(いわきだいら)の城主安藤家の臣後藤氏の女(じょ)いつを後妻に納(い)れた。いつは二子を生んだ。長男俊太郎(しゅん たろう)さんは、今本郷西片町(ほんごうにしかたまち)に住んで、陸軍省人事局補任課に奉職している。次男篤次郎(とくじろう)さんは風間(かざま)氏 を冒して、小石川宮下町(こいしかわみやしたちょう)に住んでいる。篤次郎さんは海軍機関大佐である。  陸(くが)はこの年矢川文一郎と分離して、砂糖店(さとうみせ)を閉じた。生計意の如くならざるがためであっただろう。文一郎が三十三歳、陸が二十七 歳の時である。  次で陸は本所(ほんじょ)亀沢町(かめざわちょう)に看板を懸けて杵屋勝久(きねやかつひさ)と称し、長唄(ながうた)の師匠をすることになった。  矢島周禎の一族もまたこの年に東京に遷(うつ)った。周禎は霊岸島(れいがんじま)に住んで医を業とし、優の前妻鉄は本所相生町(あいおいちょう)二 つ目橋通(どおり)に玩具店(おもちゃみせ)を開いた。周禎は素(もと)眼科なので、五百は目の治療をこの人に頼んだ。  或日周禎は嗣子周策を連れて渋江氏を訪(と)い、束脩(そくしゅう)を納めて周策を保の門人とせんことを請うた。周策は已(すで)に二十九歳、保は僅 (わずか)に十七歳である。保はその意を解せなかったが、これを問えば周策をして師範学校に入(い)らしむる準備をなさんがためであった。保は喜び諾し て、周策をして試験諸科を温習せしめかつこれに漢文を授けた。周策は後(のち)生徒の第二次募集に応じて合格し、明治十年に卒業して山梨県に赴任したが 、幾(いくばく)もなく精神病に罹って罷(や)められた。  緑町の比良野氏では房之助(ふさのすけ)が、実父稲葉一夢斎(いなばいちむさい)と共に骨董店を開いた。一夢斎は丹下(たんげ)が老後の名である。貞 固(さだかた)は月に数度浅草黒船町(くろふねちょう)正覚寺(しょうかくじ)の先塋(せんえい)に詣(もう)でて、帰途には必ず渋江氏を訪い、五百と 昔を談じた。  抽斎歿後の第十六年は明治七年である。五百の眼病が荏苒(じんぜん)として治(ち)せぬので、矢島周禎の外に安藤某を延(ひ)いて療せしめ、数月(す うげつ)にして治することを得た。  水木(みき)はこの年深川佐賀町(さがちょう)の洋品商兵庫屋藤次郎(ひょうごやとうじろう)に再嫁した。二十二歳の時である。  妙了尼はこの年九十四歳を以て韮山(にらやま)に歿した。  渋江氏ではこの年感応寺(かんのうじ)において抽斎のために法要を営んだ。五百、保、矢島優(ゆたか)、陸(くが)、水木、比良野貞固(さだかた)、 飯田良政(よしまさ)らが来会した。  渋江氏の秩禄公債証書はこの年に交付せられたが、削減を経た禄を一石九十五銭の割を以て換算した金高(きんだか)は、固(もと)より言うに足らぬ小額 であった。  抽斎歿後の第十七年は明治八年である。一月(いちげつ)二十九日に保は十九歳で師範学校の業を卒(お)え、二月六日に文部省の命を受けて浜松県に赴く こととなり、母を奉じて東京を発した。  五百、保の母子が立った後(のち)、山田脩は亀沢町の陸の許(もと)に移った。水木はなお深川佐賀町にいた。矢島優(ゆたか)はこの頃家を畳んで三池 (みいけ)に出張していた。 その九十九  保は母五百を奉じて浜松に著(つ)いて、初め暫(しばら)くのほどは旅店にいた。次で母子の下宿料月額六円を払って、下垂町(しもたれちょう)の郷宿 (ごうやど)山田屋和三郎(わさぶろう)方にいることになった。郷宿とは藩政時代に訴訟などのために村民が城下に出た時舎(やど)る家をいうのである。 また諸国を遊歴する書画家等の滞留するものも、大抵この郷宿にいた。山田屋は大きい家で、庭に肉桂(にっけい)の大木がある。今もなお儼存(げんそん) しているそうである。  山田屋の向いに山喜(やまき)という居酒屋がある。保は山田屋に移った初(はじめ)に、山喜の店に大皿(おおざら)に蒲焼(かばやき)の盛ってあるの を見て五百に「あれを買って見ましょうか」といった。 「贅沢(ぜいたく)をお言いでない。鰻(うなぎ)はこの土地でも高かろう」といって、五百は止めようとした。 「まあ、聞いて見ましょう」といって、保は出て行った。価(あたい)を問えば、一銭に五串(いつくし)であった。当時浜松辺で暮しの立ちやすかったこと は、これに由(よ)って想見することが出来る。  保は初め文部省の辞令を持って県庁に往った。浜松県の官吏は過半旧幕人で、薩長政府の文部省に対する反感があって、学務課長大江孝文(おおえたかぶみ )の如きも、頗(すこぶ)る保を冷遇した。しかし良(やや)久しく話しているうちに、保が津軽人だと聞いて、少しく面(おもて)を和(やわら)げた。大 江の母は津軽家の用人栂野求馬(とがのもとめ)の妹であった。後(のち)大江は県令林厚徳(はやしこうとく)に稟(もう)して、師範学校を設けることに して、保を教頭に任用した。学校の落成したのは六月である。  数月の後、保は高町(たかまち)の坂下、紺屋町西端の雑貨商江州屋(ごうしゅうや)速見平吉(はやみへいきち)の離座敷(はなれざしき)を借りて遷( うつ)った。この江州屋も今なお存しているそうである。  矢島優はこの年十月十八日に工部少属(しょうさかん)を罷(や)めて、新聞記者になり、『魁(さきがけ)新聞』、『真砂(まさご)新聞』等のために、 主として演劇欄に筆を執った。『魁新聞』には山田脩が倶(とも)に入社し、『真砂新聞』には森枳園(きえん)が共に加盟した。枳園は文部省の官吏として 、医学校、工学寮等に通勤しつつ、旁(かたわ)ら新聞社に寄稿したのである。  抽斎歿後の第十八年は明治九年である。十月十日に浜松師範学校が静岡師範学校浜松支部と改称せられた。これより先八月二十一日に浜松県を廃して静岡県 に併(あわ)せられたのである。しかし保の職は故(もと)の如くであった。  この年四月に保は五百の還暦の賀延(がえん)を催して県令以下の祝(いわい)を受けた。  五百の姉長尾氏安(やす)はこの年新富座附(しんとみざつき)の茶屋三河屋(みかわや)で歿した。年は六十二であった。この茶屋の株は後(のち)敬の 夫力蔵(りきぞう)が死ぬるに及んで、他人の手に渡った。  比良野貞固もまたこの年本所緑町の家で歿した。文化九年生(うまれ)であるから、六十五歳を以て終ったのである。その後(のち)を襲(つ)いだ房之助 さんは現に緑町一丁目に住んでいる。  小野富穀(ふこく)もまたこの年七月十七日に歿した。年は七十であった。子道悦(どうえつ)が家督相続をした。  多紀安琢(あんたく)もまたこの年一月四日に五十三歳で歿した。名は元 ※(「王+炎」、第3水準1-88-13) (げんえん)、号は雲従(うんじゅう)であった。その後を襲いだのが上総国(かずさのくに)夷隅郡(いすみごおり)総元村(そうもとむら)に現存してい る次男晴之助(せいのすけ)さんである。  喜多村栲窓(こうそう)もまたこの年十一月九日に歿した。栲窓は抽斎の歿した頃奥医師を罷めて大塚村(おおつかむら)に住んでいたが、明治七年十二月 に卒中し、右半身(ゆうはんしん)不随になり、此(ここ)に ※(「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53) (いた)って終った。享年七十三である。  抽斎歿後の第十九年は明治十年である。保は浜松表早馬町(おもてはやうまちょう)四十番地に一戸を構え、後また幾(いくばく)ならずして元城内(もと じょうない)五十七番地に移った。浜松城は本(もと)井上(いのうえ)河内守(かわちのかみ)正直(まさなお)の城である。明治元年に徳川家が新(あら た)にこの地に封(ほう)ぜられたので、正直は翌年上総国市原郡(いちはらごおり)鶴舞(つるまい)に徙(うつ)った。城内の家屋は皆井上家時代の重臣 の第宅(ていたく)で、大手の左右に列(つらな)っていた。保はその一つに母をおらせることが出来たのである。  この年七月四日に保の奉職している静岡師範学校浜松支部は変則中学校と改称せられた。  兼松石居(かねまつせききょ)はこの年十二月十二日に歿した。年六十八である。絶筆の五絶と和歌とがある。「今日吾知免(こんにちわれめんをしる)。 亦将騎鶴遊(またつるにのりてあそばんとす)。上帝賚殊命(じょうていしゅめいをたまう)。使爾永相休(なんじをしてながくあいやすましめんと)。」「 年浪(としなみ)のたち騒ぎつる世をうみの岸を離れて舟漕(こ)ぎ出(い)でむ。」石居は酒井(さかい)石見守(いわみのかみ)忠方(ただみち)の家来 屋代(やしろ)某の女(じょ)を娶(めと)って、三子二女を生ませた。長子艮(こん)、字(あざな)は止所(ししょ)が家を嗣いだ。号は厚朴軒(こうぼ くけん)である。艮の子成器(せいき)は陸軍砲兵大尉である。成器さんは下総国市川町(いちかわまち)に住んでいて、厚朴軒さんもその家にいる。 その百  抽斎歿後の第二十年は明治十一年である。一月(いちげつ)二十五日津軽承昭(つぐてる)は藩士の伝記を編輯(へんしゅう)せしめんがために、下沢保躬 (しもさわやすみ)をして渋江氏について抽斎の行状を徴(め)さしめた。保は直ちに録呈した。いわゆる伝記は今存ずる所の『津軽藩旧記伝類』ではあるま いか。わたくしはいまだその書を見ざるが故に、抽斎の行状が采采択(さいたく)せられしや否やを審(つまびらか)にしない。  保の奉職している浜松変則中学枚はこの年二月二十三日に中学校と改称せられた。  山田脩はこの年九月二日に、母五百に招致せられて浜松に来た。これより先五百は脩の喘息(ぜんそく)を気遣(きづか)っていたが、脩が矢島優(ゆたか )と共に『魁(さきがけ)新聞』の記者となるに及んで、その保に寄する書に卯飲(ぼういん)の語あるを見て、大いにその健康を害せんを惧(おそ)れ、急 に命じて浜松に来(きた)らしめた。しかし五百は独り脩の身体(しんたい)のためにのみ憂えたのではない。その新聞記者の悪徳に化せられんことをも慮( おもんぱか)ったのである。  この年四月に岡本況斎が八十二歳で歿した。  抽斎歿後の第二十一年は明治十二年である。十月十五日保は学問修行のため職を辞し、二十八日に聴許(ていきょ)せられた。これは慶応義塾に入(い)っ て英語を学ばんがためである。  これより先保は深く英語を窮めんと欲して、いまだその志を遂げずにいた。師範学校に入ったのも、その業を卒(お)えて教員となったのも、皆学資給せざ るがために、やむことをえずして為(な)したのである。既にして保は慶応義塾の学風を仄聞(そくぶん)し、頗(すこぶ)る福沢諭吉(ふくざわゆきち)に 傾倒した。明治九年に国学者阿波(あわ)の人某が、福沢の著(あらわ)す所の『学問のすゝめ』を駁(はく)して、書中の「日本(にっぽん)は ※(「くさかんむり/最」、第4水準2-86-82) 爾(さいじ)たる小国である」の句を以て祖国を辱(はずかし)むるものとなすを見るに及んで、福沢に代って一文を草し、『民間雑誌』に投じた。『民間雑 誌』は福沢の経営する所の日刊新聞で、今の『時事新報』の前身である。福沢は保の文を采録し、手書(しゅしょ)して保に謝した。保はこれより福沢に識( し)られて、これに適従(てきじゅう)せんと欲する念がいよいよ切になったのである。  保は職を辞する前に、山田脩をして居宅を索(もと)めしめた。脩は九月二十八日に先ず浜松を発して東京に至り、芝区松本町(まつもとちょう)十二番地 の家を借りて、母と弟とを迎えた。  五百、保の母子は十月三十一日に浜松を発し、十一月三日に松本町の家に著(つ)いた。この時保と脩とは再び東京にあって母の膝下(しっか)に侍するこ とを得たが、独り矢島優(ゆたか)のみは母の到著するを待つことが出来ずに北海道へ旅立った。十月八日に開拓使御用掛(がかり)を拝命して、札幌に在勤 することとなったからである。  陸(くが)は母と保との浜松へ往った後(のち)も、亀沢町の家で長唄の師匠をしていた。この家には兵庫屋から帰った水木(みき)が同居していた。勝久 は水木の夫であった畑中藤次郎(はたなかとうじろう)を頼もしくないと見定めて、まだ脩が浜松に往かぬ先に相談して、水木を手元へ連れ戻したのである。  保らは浜松から東京に来た時、二人の同行者があった。一人は山田要蔵、一人は中西常武(なかにしつねたけ)である。  山田は遠江国(とおとうみのくに)敷智郡(ふちごおり)都築(つづき)の人である。父を喜平といって、畳問屋(たたみどいや)である。その三男要蔵は 元治(げんじ)元年生(うまれ)の青年で、渋江の家から浜松中学校に通い、卒業して東京に来たのである。時に年十六であった。中西は伊勢国度会郡(わた らいごおり)山田岩淵町(いわぶちちょう)の人中西用亮(ようすけ)の弟である。愛知師範学校に学んで卒業し、浜松中学校の教員になっていた。これは職 を罷(や)めて東京に来た時二十七、八歳であった。山田も中西も、保と同じく慶応義塾に入(い)らんと欲して、共に入京したのである。 その百一  保は東京に著(つ)いた翌日、十一月四日に慶応義塾に往って、本科第三等に編入せられた。  同行者の山田は、保と同じく本科に、中西は別科に入(い)った。後(のち)山田は明治十四年に優等を以て卒業して、一時義塾の教員となり、既にして伊 東氏を冒し、衆議院議員に選ばれ、今は某銀行、某会社の重役をしている。中西は別科を修めた後に郷に帰った。  保は慶応義塾の生徒となってから三日目に、万来舎(ばんらいしゃ)において福沢諭吉を見た。万来舎は義塾に附属したクラブ様のもので、福沢は毎日午後 に来て文明論を講じていた。保が名を告げた時、福沢は昔年の事を語り出(い)でてこれを善遇した。  当時慶応義塾は年を三期に分ち、一月から四月までを第一期といい、五月から七月までを第二期といい、九月から十二月までを第三期といった。保がこの年 第三期に編入せられた第三等はなお第三級といわんがごとくである。月の末には小試験があり、期の終にはまた大試験があった。  森枳園(きえん)はこの年十二月一日に大蔵省印刷局の編修になった。身分は准判任御用掛で、月給四十円であった。局長得能良介(とくのうりょうすけ) は初め八十円を給せようといったが、枳園は辞していった。多く給せられて早く罷(や)められんよりは、少(すくな)く給せられて久しく勤めたい。四十円 で十分だといった。局長はこれに従って、特に耆宿(きしゅく)として枳園を優遇し、土蔵の内に畳を敷いて事務を執らせた。この土蔵の鍵(かぎ)は枳園が 自ら保管していて、自由にこれに出入(しゅつにゅう)した。寿蔵碑に「日々入局(にちにちきょくにいり)、不知老之将至(おいのまさにいたらんとするを しらず)、殆為金馬門之想云(ほとんどきんばもんのおもいをなすという)」と記(き)してある。  抽斎歿後の第二十二年は明治十三年である。保は四月に第二等に進み、七月に破格を以て第一等に進み、遂に十二月に全科の業を終えた。下等の同学生には 渡辺修、平賀敏(ひらがびん)があり、また同じ青森県人に芹川得一(せりかわとくいち)、工藤儀助(くどうぎすけ)があった。上等の同学生には犬養毅( いぬかいき)さんの外、矢田績(やだせき)、安場(やすば)男爵があり、また同県人に坂井次永(さかいじえい)、神尾金弥(かみおきんや)があった。後 (のち)の二人は旧会津藩士である。  万来舎では今の金子(かねこ)子爵、その他相馬永胤(そうまながたね)、目賀田(めがた)男爵、鳩山和夫(はとやまかずお)等が法律を講ずるので、保 も聴いた。  山田脩はこの年電信学校に入(い)って、松本町の家から通った。陸(くが)の勝久が長唄を人に教うる旁(かたわら)、音楽取調所の生徒となったのもま たこの年である。音楽取調所は当時創立せられたもので、後の東京音楽学校の萌芽(ほうが)である。この頃水木(みき)は勝久の許(もと)を去って母の家 に来た。  この年また藤村義苗(ふじむらよしたね)さんが浜松から来て渋江氏に寓(ぐう)した。藤村は旧幕臣で、浜松中学校の業を卒(お)え、遠江国中泉(なか いずみ)で小学校訓導をしていたが、外国語学校で露語生徒の入学を許し、官費を給すると聞いて、その試験を受けに来たのである。藤村は幸に合格したが、 後に露語科が廃せられてから、東京高等商業学校に入(い)ってその業を卒え、現に某々会社の重役になっている。  松本町の家には五百、保、水木の三人がいて、諸生には山田要蔵とこの藤村とが置いてあったのである。  抽斎歿後の第二十三年は明治十四年である。当時慶応義塾の卒業生は世人の争って聘(へい)せんと欲する所で、その世話をする人は主(おも)に小幡篤次 郎(おばたとくじろう)であった。保はなお進んで英語を窮めたい志を有していたが、浜松にあった日に衣食を節して貯えた金がまた ※(「磬」の「石」に代えて「缶」、第4水準2-84-70) (つ)きたので、遂に給を俸銭に仰がざることを得なくなった。  この年もまた卒業生の決口(はけくち)は頗(すこぶ)る多かった。保の如きも第一に『三重(みえ)日報』の主筆に擬せられて、これを辞した。これは藤 田茂吉(もきち)に三重県庁が金を出していることを聞いたからである。第二に広島某新聞の主筆は、保が初めその任に当ろうとしていたが、次で出来た学校 の地位に心を傾(かたぶ)けたために、半途にして交渉を絶った。  学校の地位というのは、愛知中学校長である。招聘の事は阿部泰蔵(あべたいぞう)と会談して定まり、保は八月三日に母と水木とを伴って東京を発した。 諸生山田要蔵はこの時慶応義塾に寄宿した。 その百二  保は三河国宝飯郡(ほいごおり)国府町(こふまち)に著(つ)いて、長泉寺(ちょうせんじ)の隠居所を借りて住んだ。そして九月三十日に愛知県中学校 長に任ずという辞令を受けた。  保が学校に往って見ると、二つの急を要する問題が前に横(よこた)わっていた。教則を作ることと罰則を作ることとである。教則は案を具して文部省に呈 し、その認可を受けなくてはならない。罰則は学校長が自ら作り自ら施すことを得るのである。教則の案は直ちに作って呈し、罰則は不文律となして、生徒に 自力の徳教を誨(おし)えた。教則は文部省が輒(たやす)く認可せぬので、往復数十回を累(かさ)ね、とうとう保の在職中には制定せられずにしまった。 罰則は果して必要でなかった。一人(いちにん)の※違者(かいいしゃ)[#「言+圭」、U+8A7F、295-5]をも出(いだ)さなかったからである 。  長泉寺の隠居所は次第に賑(にぎわ)しくなった。初め保は母と水木(みき)との二人の家族があったのみで、寂しい家庭をなしていたが、寄寓(きぐう) を請う諸生を、一人(ひとり)容(い)れ、二人容れて、幾(いくばく)もあらぬに六人の多きに達した。八田郁太郎(はちたいくたろう)、稲垣親康(いな がきしんこう)、島田寿一(じゅいち)、大矢尋三郎(じんざぶろう)、菅沼岩蔵(すがぬまいわぞう)、溝部惟幾(みぞべいき)の人々である。中にも八田 は後に海軍少将に至った。菅沼は諸方の中学校に奉職して、今は浜松にいる。最も奇とすべきは溝部で、或日偶然来て泊り込み、それなりに淹留(えんりゅう )した。夏日(かじつ)袷(あわせ)に袷羽織(ばおり)を著(き)て恬(てん)として恥じず、また苦熱の態(たい)をも見せない。人皆その長門(ながと )の人なるを知っているが、かつて自ら年歯(ねんし)を語ったことがないので、その幾歳なるかを知るものがない。打ち見る所は保と同年位であった。溝部 は後(のち)農商務省の雇員となり、地方官に転じ、栃木県知事に至った。  当時保は一人の友を得た。武田氏名は準平(じゅんぺい)で、保が国府(こふ)の学校に聘せられた時、中に立って斡旋(あっせん)した阿部泰蔵の兄であ る。準平は国府(こふ)に住んで医を業としていたが、医家を以て著(あらわ)れずに、かえって政客(せいかく)を以て聞えていた。  準平はこれより先(さき)愛知県会の議長となったことがある。某年に県会が畢(おわ)って、県吏と議員とが懇親の宴を開いた。準平は平素県令国貞廉平 (くにさだれんぺい)の施設に慊(あきたら)なかったが、宴闌(たけなわ)なる時、国貞の前に進んで杯(さかずき)を献じ、さて「お ※(「肴+殳」、第4水準2-78-4) (さかな)は」と呼びつつ、国貞に背(そむ)いて立ち、衣(い)を搴(かか)げて尻(しり)を露(あらわ)したそうである。  保は国府(こふ)に来てから、この準平と相識になった。既にして準平が兄弟(けいてい)になろうと勧めた。保は謙(へりくだ)って父子になる方が適当 であろうといった。遂に父子と称して杯を交した。準平は四十四歳、保は二十五歳の時である。  この時東京には政党が争い起(おこ)った。改進党が成り、自由党が成り、また帝政党が成って、新聞紙は早晩これらの結党式の挙行せらるべきことを伝え た。準平と保とは国府(こふ)にあってこういった。「東京の政界は華々しい。我ら田舎に住んでいるものは、淵(ふち)に臨んで魚(ぎょ)を羨(うらや) むの情に堪えない。しかし大(だい)なるものは成るに難く、小なるものは成るに易(やす)い。我らも甲らに似せて穴を掘り、一の小政社を結んで、東京の 諸先輩に先んじて式を挙げようではないか」といった。この政社の雛形(ひながた)は進取社と名づけられて、保は社長、準平は副社長であった。 その百三  抽斎歿後の第二十四年は明治十五年である。一月(いちげつ)二日に保の友武田準平が刺客(せきかく)に殺された。準平の家には母と妻と女(むすめ)一 人(ひとり)とがいた。女の壻秀三(ひでぞう)は東京帝国大学医科大学の別科生になっていて、家にいなかった。常は諸生がおり、僕がおったが、皆新年に 暇(いとま)を乞(こ)うて帰った。この日家人が寝(しん)に就(つ)いた後(のち)、浴室から火が起った。唯(ただ)一人暇を取らずにいた女中が驚き 醒(さ)めて、烟(けぶり)の厨(くりや)を罩(こ)むるを見、引窓(ひきまど)を開きつつ人を呼んだ。浴室は庖厨(ほうちゅう)の外に接していたので ある。準平は女中の声を聞いて、「なんだ、なんだ」といいつつ、手に行燈(あんどう)を提(さ)げて厨に出て来た。この時一人の引廻(ひきまわし)がっ ぱを被(き)た男が暗中より起(た)って、準平に近づいた。準平は行燈を措(お)いて奥に入(い)った。引廻の男は尾(つ)いて入った。準平は奥の廊下 から、雨戸を蹴脱(けはず)して庭に出た。引廻の男はまた尾いて出た。準平は身に十四カ所の創(きず)を負って、庭の檜(ひのき)の下に殪(たお)れた 。檜は老木であったが、前年の暮、十二月二十八日の夜(よ)、風のないに折れた。準平はそれを見て、新年を過してから薪(たきぎ)に挽(ひ)かせようと いっていたのである。家人は檜が讖(しん)をなしたなどといった。引廻の男は誰(たれ)であったか、また何故(なにゆえ)に準平を殺したか、終(つい) に知ることが出来なかった。  保は報を得て、馳(は)せて武田の家に往った。警察署長佐藤某がいる。郡長竹本元※[#「にんべん+暴」、U+5124、298-2]がいる。巡査数 人がいる。佐藤はこういうのである。「武田さんは進取社の事のために殺されなすったかと思われます。渋江さんも御用心なさるが好い。当分の内(うち)巡 査を二人(ふたり)だけ附けて上げましょう」というのである。  保は彼(か)の小結社の故を以て、刺客が手を動(うごか)したものとは信ぜなかった。しかし暫(しばら)くは人の勧(すすめ)に従って巡査の護衛を受 けていた。五百は例の懐剣を放さずに持っていて、保にも弾を填(こ)めた拳銃を備えさせた。進取社は準平が死んでから、何の活動をもなさずに分散した。  保は『横浜毎日新聞』の寄書家になった。『毎日』は島田三郎さんが主筆で、『東京日々(にちにち)新聞』の福地桜痴(ふくちおうち)と論争していたの で、保は島田を助けて戦った。主なる論題は主権論、普通選挙論等であった。  普通選挙論では外山正一(とやましょういち)が福地に応援して、「毎日記者は盲目(めくら)蛇(へび)におじざるものだ」といった。これは島田のベン サムを普通選挙論者となしたるは無学のためで、ベンサムは実は制限選挙論者だというのであった。そこで保はベンサムの憲法論について、普通選挙を可とす る章句を鈔出(しょうしゅつ)し、「外山先生は盲目蛇におじざるものだ」という鸚鵡返(おうむがえし)の報復をした。  これらの論戦の後(のち)、保は島田三郎、沼間守一(ぬましゅいち)、肥塚龍(こえづかりゅう)らに識(し)られた。後に横浜毎日社員になったのは、 この縁故があったからである。  保は十二月九日学校の休暇を以て東京に入(い)った。実は国府(こふ)を去らんとする意があったのである。  この年矢島優(ゆたか)は札幌にあって、九月十五日に渋江氏に復籍した。十月二十三日にその妻蝶が歿した。年三十四であった。  山田脩(おさむ)はこの年一月(いちげつ)工部技手に任ぜられ、日本橋電信局、東京府庁電信局等に勤務した。 その百四  抽斎歿後の第二十五年は明治十六年である。保は前年の暮に東京に入(い)って、仮に芝田町(しばたまち)一丁目十二番地に住んだ。そして一面愛知県庁 に辞表を呈し、一面府下に職業を求めた。保は先ず職業を得て、次で免罷(めんひ)の報に接した。一月十一日には攻玉社(こうぎょくしゃ)の教師となり、 二十五日には慶応義塾の教師となって、午前に慶応義塾に往(ゆ)き、午後に攻玉社に往くことにした。攻玉社は社長が近藤真琴(こんどうまこと)、幹事が 藤田潜(ひそむ)で、生徒中には後(のち)に海軍少将に至った秀島(ひでしま)某、海軍大佐に至った笠間直(かさまちょく)等があった。慶応義塾は社頭 が福沢諭吉、副社頭が小幡篤次郎(おばたとくじろう)、校長が浜野定四郎(はまのさだしろう)で、教師中に門野幾之進(かどのいくのしん)、鎌田栄吉( かまだえいきち)等があり、生徒中に池辺吉太郎(いけべきちたろう)、門野重九郎(かどのじゅうくろう)、和田豊治(わだとよじ)、日比翁助(ひびおう すけ)、伊吹雷太(いぶきらいた)等があった。愛知県中学校長を免ずる辞令は二月十四日を以て発せられた。保は芝(しば)烏森町(からすもりちょう)一 番地に家を借りて、四月五日に国府(こふ)から還(かえ)った母と水木(みき)とを迎えた。  勝久は相生町(あいおいちょう)の家で長唄を教えていて、山田脩はその家から府庁電信局に通勤していた。そこへ優(ゆたか)が開拓使の職を辞して札幌 から帰ったのが八月十日である。優は無妻になっているので、勝久に説いて師匠を罷(や)めさせ、専(もっぱ)ら家政を掌(つかさど)らせた。  八月中の事であった。保は客(かく)を避けて『横浜毎日新聞』に寄する文を草せんがために、一週日(いっしゅうじつ)ほどの間柳島の帆足謙三(ほあし けんぞう)というものの家に起臥(きが)していた。烏森町の家には水木を遺(のこ)して母に侍せしめ、かつ優、脩、勝久の三人をして交る交るその安否を 問わしめた。然るに或夜水木が帆足の家に来て、母が病気と見えて何も食わなくなったと告げた。  保が家に帰って見ると、五百は床を敷かせて寝ていた。「只今(ただいま)帰りました」と、保はいった。 「お帰(かえり)かえ」といって、五百は微笑した。 「おっ母(か)様、あなたは何も上らないそうですね。わたくしは暑くてたまりませんから、氷を食べます。」 「そんならついでにわたしのも取っておくれ。」五百は氷を食べた。  翌朝保が「わたくしは今朝(けさ)は生卵にします」といった。 「そうかい、そんならわたしも食べて見よう。」五百は生卵を食べた。  午(ひる)になって保はいった。「きょうは久しぶりで、洗いに水貝(みずがい)を取って、少し酒を飲んで、それから飯にします。」 「そんならわたしも少し飲もう。」五百は洗いで酒を飲んだ。その時はもう平日の如く起きて坐っていた。  晩になって保はいった。「どうも夕方になってこんなに風がちっともなくては凌(しの)ぎ切れません。これから汐湯(しおゆ)に這入(はい)って、湖月 (こげつ)に寄って涼んで来ます。」 「そんならわたしも往(ゆ)くよ。」五百は遂に汐湯に入(い)って、湖月で飲食(のみくい)した。  五百は保が久しく帰らぬがために物を食わなくなったのである。五百は女子中では棠(とう)を愛し、男子中では保を愛した。さきに弘前に留守をしていて 、保を東京に遣(や)ったのは、意を決した上の事である。それゆえ能(よ)く年余(ねんよ)の久しきに堪えた。これに反して帰るべくして帰らざる保を日 ごとに待つことは、五百の難(かた)んずる所であった。この時五百は六十八歳、保は二十七歳であった。 その百五  この年十二月二日に優(ゆたか)が本所相生町の家に歿した。優は職を罷(や)める時から心臓に故障があって、東京に還って清川玄道(きよかわげんどう )の治療を受けていたが、屋内に静坐していれば別に苦悩もなかった。歿する日には朝から物を書いていて、午頃(ひるごろ)「ああ草臥(くたび)れた」と いって仰臥(ぎょうが)したが、それきり起(た)たなかった。岡西氏徳(とく)の生んだ、抽斎の次男は此(かく)の如くにして世を去ったのである。優は 四十九歳になっていた。子はない。遺骸は感応寺に葬られた。  優は蕩子(とうし)であった。しかし後(のち)に身を吏籍に置いてからは、微官におったにもかかわらず、頗(すこぶ)る材能(さいのう)を見(あらわ )した。優は情誼(じょうぎ)に厚かった。親戚(しんせき)朋友(ほうゆう)のその恩恵を被ったことは甚だ多い。優は筆札(ひっさつ)を善くした。その 書には小島成斎の風があった。その他演劇の事はこの人の最も精通する所であった。新聞紙の劇評の如きは、森枳園(きえん)と優とを開拓者の中(うち)に 算すべきであろう。大正五年に珍書刊行会で公にした『劇界珍話』は飛蝶(ひちょう)の名が署してあるが、優の未定稿である。  抽斎歿後の第二十六年は明治十七年である。二月十四日に五百が烏森の家に歿した。年六十九であった。  五百は平生(へいぜい)病むことが少(すくな)かった。抽斎歿後に一たび眼病に罹(かか)り、時々(じじ)疝痛(せんつう)を患(うれ)えた位のもの である。特に明治九年還暦の後(のち)は、殆(ほとん)ど無病の人となっていた。然るに前年の八月中、保が家に帰らぬを患(うれ)えて絶食した頃から、 やや心身違和の徴があった。保らはこれがために憂慮した。さて新年に入(い)って見ると、五百の健康状態は好(よ)くなった。保は二月九日の夜(よ)母 が天麩羅蕎麦(てんぷらそば)を食べて炬燵(こたつ)に当り、史を談じて更(こう)の闌(たけなわ)なるに至ったことを記憶している。また翌十日にも午 食(ごしょく)に蕎麦を食べたことを記憶している。午後三時頃五百は煙草を買いに出た。二、三年前(ぜん)からは子らの諌(いさめ)を納(い)れて、単 身戸外に出ぬことにしていたが、当時の家から煙草店(みせ)へ往く道は、烏森神社の境内であって車も通らぬゆえ、煙草を買いにだけは単身で往った。保は 自分の部屋で書を読んで、これを知らずにいた。暫(しばら)くして五百は烟草を買って帰って、保の背後(うしろ)に立って話をし出した。保はかつ読みか つ答えた。初(はじめ)てドイツ語を学ぶ頃で、読んでいる書はシェッフェルの文典であった。保は母の気息の促迫しているのに気が附いて、「おっ母(か) 様、大そうせかせかしますね」といった。 「ああ年のせいだろう、少し歩くと息が切れるのだよ。」五百はこういったが、やはり話を罷(や)めずにいた。  少し立って五百は突然黙った。 「おっ母様、どうかなすったのですか。」保はこういって背後(うしろ)を顧みた。  五百は火鉢の前に坐って、やや首を傾(かたぶ)けていたが、保はその姿勢の常に異なるのに気が附いて、急に起(た)って傍(かたわら)に往き顔を覗( のぞ)いた。  五百の目は直視し、口角(こうかく)からは涎(よだれ)が流れていた。  保は「おっ母様、おっ母様」と呼んだ。  五百は「ああ」と一声答えたが、人事を省(せい)せざるものの如くであった。  保は床を敷いて母を寝させ、自ら医師の許(もと)へ走った。 その百六  渋江氏の住んでいた烏森の家からは、存生堂(ぞんせいどう)という松山棟庵(とうあん)の出張所が最も近かった。出張所には片倉(かたくら)某という 医師が住んでいた。保は存生堂に駆け附けて、片倉を連れて家に帰った。存生堂からは松山の出張をも請いに遣った。  片倉が一応の手当をした所へ、松山が来た。松山は一診していった。「これは脳卒中で右半身不随(ゆうはんしんふずい)になっています。出血の部位が重 要部で、その血量も多いから、回復の望(のぞみ)はありません」といった。  しかし保はその言(こと)を信じたくなかった。一時空(くう)を視(み)ていた母が今は人の面(おもて)に注目する。人が去れば目送する。枕辺(ちん ぺん)に置いてあるハンカチイフを左手(さしゅ)に把(と)って畳む。保が傍(そば)に寄るごとに、左手で保の胸を撫(な)でさえした。  保は更に印東玄得(いんどうげんとく)をも呼んで見せた。しかし所見は松山と同じで、この上手当のしようはないといった。  五百は遂に十四日の午前七時に絶息した。  五百の晩年の生活は日々(にちにち)印刷したように同じであった。祁寒(きかん)の時を除く外は、朝五時に起きて掃除をし、手水(ちょうず)を使い、 仏壇を拝し、六時に朝食をする。次で新聞を読み、暫く読書する。それから午餐(ごさん)の支度をして、正午に午餐する。午後には裁縫し、四時に至って女 中を連れて家を出る。散歩がてら買物をするのである。魚菜をも大抵この時買う。夕餉(ゆうげ)は七時である。これを終れば、日記を附ける。次でまた読書 する。倦(う)めば保を呼んで棋(ご)を囲みなどすることもある。寝(しん)に就くのは十時である。  隔日に入浴し、毎月曜日に髪を洗った。寺には毎月一度詣(もう)で、親と夫との忌日(きにち)には別に詣でた。会計は抽斎の世にあった時から自らこれ に当っていて、死に ※(「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53) (いた)るまで廃せなかった。そしてその節倹の用意には驚くべきものがあった。  五百の晩年に読んだ書には、新刊の歴史地理の類が多かった。『兵要(へいよう)日本地理小志』はその文が簡潔で好(い)いといって、傍(そば)に置い ていた。  奇とすべきは、五百が六十歳を踰(こ)えてから英文を読みはじめた事である。五百は頗る早く西洋の学術に注意した。その時期を考うるに、抽斎が安積艮 斎(あさかごんさい)の書を読んで西洋の事を知ったよりも早かった。五百はまだ里方(さとかた)にいた時、或日兄栄次郎が鮓久(すしきゅう)に奇な事を 言うのを聞いた。「人間は夜(よる)逆(さか)さになっている」云々といったのである。五百は怪(あやし)んで、鮓久が去った後(のち)に兄に問うて、 始(はじめ)て地動説の講釈を聞いた。その後(のち)兄の机の上に『気海観瀾(きかいかんらん)』と『地理全志』とのあるのを見て、取って読んだ。  抽斎に嫁した後、或日抽斎が「どうも天井に蝿(はえ)が糞(ふん)をして困る」といった。五百はこれを聞いていった。「でも人間も夜は蝿が天井に止ま ったようになっているのだと申しますね」といった。抽斎は妻(さい)が地動説を知っているのに驚いたそうである。  五百は漢訳和訳の洋説を読んで慊(あきたら)ぬので、とうとう保にスペルリングを教えてもらい、ほどなくウィルソンの読本(どくほん)に移り、一年ば かり立つうちに、パアレエの『万国史』、カッケンボスの『米国史』、ホオセット夫人の『経済論』等をぽつぽつ読むようになった。  五百の抽斎に嫁した時、婚を求めたのは抽斎であるが、この間に或秘密が包蔵せられていたそうである。それは抽斎をして婚を求むるに至らしめたのは、阿 部家の医師石川貞白(いしかわていはく)が勧めたので、石川貞白をして勧めしめたのは、五百自己であったというのである。 その百七  石川貞白は初(はじめ)の名を磯野勝五郎(いそのかつごろう)といった。何時(いつ)の事であったか、阿部家の武具係を勤めていた勝五郎の父は、同僚 が主家(しゅうけ)の具足を質に入れたために、永(なが)の暇(いとま)になった。その時勝五郎は兼て医術を伊沢榛軒(いさわしんけん)に学んでいたの で、直(すぐ)に氏名を改めて剃髪(ていはつ)し、医業を以て身を立てた。  貞白は渋江氏にも山内氏にも往来して、抽斎を識(し)り五百を識っていた。弘化元年には五百の兄栄次郎が吉原の娼妓(しょうぎ)浜照の許(もと)に通 って、遂にこれを娶(めと)るに至った。その時貞白は浜照が身受(みうけ)の相談相手となり、その仮親(かりおや)となることをさえ諾したのである。当 時兄の措置(そち)を喜ばなかった五百が、平生青眼(せいがん)を以て貞白を見なかったことは、想像するに余(あまり)がある。  或日五百は使を遣(や)って貞白を招いた。貞白はおそるおそる日野屋の閾(しきい)を跨(また)いだ。兄の非行を幇(たす)けているので、妹に譴(せ )められはせぬかと懼(おそ)れたのである。  然るに貞白を迎えた五百にはいつもの元気がなかった。「貞白さん、きょうはお頼(たのみ)申したい事があって、あなたをお招(まねき)いたしました」 という、態度が例になく慇懃(いんぎん)であった。  何事かと問えば、渋江さんの奥さんの亡くなった跡へ、自分を世話をしてはくれまいかという。貞白は事の意表に出(い)でたのに驚いた。  これより先(さき)日野屋では五百に壻を取ろうという議があって、貞白はこれを与(あずか)り知っていた。壻に擬せられていたのは、上野広小路の呉服 店伊藤松坂屋(まつざかや)の通番頭(かよいばんとう)で、年は三十二、三であった。栄次郎は妹が自分たち夫婦に慊(あきたら)ぬのを見て、妹に壻を取 って日野屋の店を譲り、自分は浜照を連れて隠居しようとしたのである。  壻に擬せられている番頭某と五百となら、旁(はた)から見ても好配偶である。五百は二十九歳であるが、打見(うちみ)には二十四、五にしか見えなかっ た。それに抽斎はもう四十歳に満ちている。貞白は五百の意のある所を解するに苦(くるし)んだ。  そこで五百に問い質(ただ)すと、五百はただ学問のある夫が持ちたいと答えた。その詞(ことば)には道理がある。しかし貞白はまだ五百の意中を読み尽 すことが出来なかった。  五百は貞白の気色(けしき)を見て、こう言い足した。「わたくしは壻を取ってこの世帯(せたい)を譲ってもらいたくはありません。それよりか渋江さん の所へ往って、あの方(かた)に日野屋の後見(うしろみ)をして戴(いただ)きたいと思います。」  貞白は膝(ひざ)を拍(う)った。「なるほど/\。そういうお考えですか。宜(よろ)しい。一切わたくしが引き受けましょう。」  貞白は実に五百の深慮遠謀に驚いた。五百の兄栄次郎も、姉安(やす)の夫宗右衛門も、聖堂に学んだ男である。もし五百が尋常の商人を夫としたら、五百 の意志は山内氏にも長尾氏にも軽(かろ)んぜられるであろう。これに反して五百が抽斎の妻となると栄次郎も宗右衛門も五百の前に項(うなじ)を屈せなく てはならない。五百は里方のために謀(はか)って、労少くして功多きことを得るであろう。かつ兄の当然持っておるべき身代(しんだい)を、妹として譲り 受けるということは望ましい事ではない。そうして置いては、兄の隠居が何事をしようと、これに喙(くちばし)を容(い)れることが出来ぬであろう。永久 に兄を徳として、その為(な)すがままに任せていなくてはなるまい。五百は此(かく)の如き地位に身を置くことを欲せぬのである。五百は潔くこの家を去 って渋江氏に適(ゆ)き、しかもその渋江氏の力を藉(か)りて、この家の上に監督を加えようとするのである。  貞白は直(すぐ)に抽斎を訪(と)うて五百の願(ねがい)を告げ、自分も詞(ことば)を添えて抽斎を説き動(うごか)した。五百の婚嫁は此(かく)の 如くにして成就したのである。 その百八  保はこの年六月に『横浜毎日新聞』の編輯員(へんしゅういん)になった。これまではその社とただ寄稿者としての連繋のみを有していたのであった。当時 の社長は沼間守一(ぬましゅいち)、主筆は島田三郎、会計係は波多野伝三郎(はたのでんざぶろう)という顔触(かおぶれ)で、編輯員には肥塚龍(こえづ かりゅう)、青木匡(ただす)、丸山名政(めいせい)、荒井泰治(あらいたいじ)の人々がいた。また矢野次郎、角田真平(つのだしんぺい)、高梨哲四郎 (たかなしてつしろう)、大岡育造(いくぞう)の人々は社友であった。次で八月に保は攻玉社の教員を罷(や)めた。九月一日には家を芝桜川町(さくらが わちょう)十八番地に移した。  脩はこの年十二月に工部技手を罷めた。  水木(みき)はこの年山内氏を冒して芝新銭座町(しんせんざちょう)に一戸を構えた。  抽斎歿後の第二十七年は明治十八年である。保は新聞社の種々の用務を弁ずるために、しばしば旅行した。十月十日に旅から帰って見ると、森枳園(きえん )の五日に寄せた書が机上にあった。面談したい事があるが、何時(いつ)往ったら逢(あ)われようかというのである。保は十一日の朝枳園を訪うた。枳園 は当時京橋区水谷町(みずたにちょう)九番地に住んでいて、家族は子婦(よめ)大槻(おおつき)氏よう、孫女(むすめ)こうの二人(ふたり)であった。 嗣子養真は父に先(さきだ)って歿し、こうの妹りゅうは既に人に嫁していたのである。  枳園は『横浜毎日新聞』の演劇欄を担任しようと思って、保に紹介を求めた。これより先狩谷 ※(「木+夜」、第3水準1-85-76) 斎(かりやえきさい)の『倭名鈔箋註(わみょうしょうせんちゅう)』が印刷局において刻せられ、また『経籍訪古志』が清国使館(しんこくしかん)におい て刻せられて、これらの事業は枳園がこれに当っていたから、その家は昔の如く貧しくはなかった。しかしこの年一月に大蔵省の職を罷めて、今は月給を受け ぬことになっているので、再び記者たらんと欲するのであった。  保は枳園の求(もとめ)に応じて、新聞社に紹介し、二、三篇の文章を社に交付して置いて、十二日にまた社用を帯びて遠江国浜松に往った。然るに用事は 一カ所において果すことが出来なかったので、犬居(いぬい)に往(ゆ)き、掛塚(かけづか)から汽船豊川丸(とよかわまる)に乗って帰京の途に就(つ) いた。そして航海中暴風に遭(あ)って、下田(しもだ)に淹留(えんりゅう)し、十二月十六日にようよう家に帰った。  机上にはまた森氏の書信があった。しかしこれは枳園の手書(しゅしょ)ではなくて、その訃音(ふいん)であった。  枳園は十二月六日に水谷町の家に歿した。年は七十九であった。枳園の終焉(しゅうえん)に当って、伊沢徳(めぐむ)さんは枕辺(ちんぺん)に侍してい たそうである。印刷局は前年の功労を忘れず、葬送の途次柩(ひつぎ)を官衙(かんが)の前に駐(とど)めしめ、局員皆出(い)でて礼拝した。枳園は音羽 (おとわ)洞雲寺(どううんじ)の先塋(せんえい)に葬られたが、この寺は大正二年八月に巣鴨村(すがもむら)池袋(いけぶくろ)丸山(まるやま)千六 百五番地に徙(うつ)された。池袋停車場の西十町ばかりで、府立師範学校の西北、祥雲寺(しょううんじ)の隣である。わたくしは洞雲寺の移転地を尋ねて 得ず、これを大槻文彦(おおつきふみひこ)さんに問うて始(はじめ)て知った。この寺には枳園六世の祖からの墓が並んでいる。わたくしの参詣した時には 、おこうさんと大槻文彦さんとの名を記(き)した新しい卒堵婆(そとば)が立ててあった。  枳園の後(のち)はその子養真の長女おこうさんが襲(つ)いだ。おこうさんは女流画家で、浅草永住町(ながすみちょう)の上田政次郎(まさじろう)と いう人の許(もと)に現存している。おこうさんの妹おりゅうさんはかつて剞 ※(「厥+りっとう」、第4水準2-3-30) 氏(きけつし)某に嫁し、後(のち)未亡人となって、浅草聖天(しょうでん)横町の基督(クリスト)教会堂のコンシェルジェになっていた。基督教徒であ る。  保は枳園の訃(ふ)を得た後(のち)、病のために新聞記者の業を罷め、遠江国周智郡(すちごおり)犬居村(いぬいむら)百四十九番地に転籍した。保は 病のために時々(じじ)卒倒することがあったので、松山棟庵(とうあん)が勧めて都会の地を去らしめたのである。 その百九  抽斎歿後の第二十八年は明治十九年である。保は静岡安西(あんざい)一丁目南裏町(みなみうらまち)十五番地に移り住んだ。私立静岡英学校の教頭にな ったからである。校主は藤波甚助(ふじなみじんすけ)という人で、雇(やとい)外国人にはカッシデエ夫妻、カッキング夫人等がいた。当時の生徒で、今名 を知られているものは山路愛山(やまじあいざん)さんである。通称は弥吉(やきち)、浅草堀田原(ほったはら)、後には鳥越(とりごえ)に住んだ幕府の 天文方(かた)山路氏の裔(えい)で、元治(げんじ)元年に生れた。この年二十三歳であった。  十月十五日に保は旧幕臣静岡県士族佐野常三郎(さのつねさぶろう)の女(じょ)松を娶(めと)った。戸籍名は一(いち)である。保は三十歳、松は明治 二年正月十六日生(うまれ)であるから十八歳であった。  小野富穀(ふこく)の子道悦が、この年八月に虎列拉(コレラ)を病んで歿した。道悦は天保七年八月朔(ついたち)に生れた。経書(けいしょ)を萩原楽 亭(はぎわららくてい)に、筆札を平井東堂に、医術を多紀 ※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13) 庭(さいてい)と伊沢柏軒とに学んだ。父と共に仕えて表医者奥通(おくどおり)に至り、明治三年に弘前において藩学の小学教授に任ぜられ、同じ年に家督 相続をした。小学教授とは素読(そどく)の師をいうのである。しかし保が助教授になっていたのは藩学の儒学部で、道悦が小学教授になっていたのはその医 学部である。道悦も父祖に似て貨殖に長じていたが、終生主(おも)に守成(しゅせい)を事としていた。然るに明治十一、二年の交(こう)、道悦が松田道 夫(どうふ)の下(もと)にあって、金沢裁判所の書記をしていると、その留守に妻(さい)が東京にあって投機のために多く金を失った。その後(のち)道 悦は保が重野(しげの)成斎に紹介して、修史局の雇員にしてもらうことが出来た。子道太郎は時事新報社の文選をしていたが、父に先(さきだ)って死んだ 。  尺振八(せきしんぱち)もまたこの年十一月二十八日に歿した。年は四十八であった。  抽斎歿後の第二十九年は明治二十年である。保は一月二十七日に静岡で発行している『東海暁鐘(ぎょうしょう)新報』の主筆になった。英学校の職は故( もと)の如くである。『暁鐘新報』は自由党の機関で、前島豊太郎(まえじまとよたろう)という人を社主としていた。五年前(ぜん)に禁獄三年、罰金九百 円に処せられて、世の耳目(じもく)を驚(おどろか)した人で、天保六年の生(うまれ)であるから、五十三歳になっていた。次で保は七月一日に静岡高等 英華(えいか)学校に聘(へい)せられ、九月十五日にまた静岡文武館の嘱託(ぞくたく)を受けて、英語を生徒に授けた。  抽斎歿後の第三十年は明治二十一年である。一月に『東海暁鐘新報』は改題して東海の二字を除いた。同じ月に中江兆民(なかえちょうみん)が静岡を過ぎ て保を訪(と)うた。兆民は前年の暮に保安条例に依(よ)って東京を逐(お)われ、大阪東雲(しののめ)新聞社の聘に応じて西下する途次、静岡には来た のである。六月三十日に保の長男三吉(さんきち)が生れた。八月十日に私立渋江塾を鷹匠町(たかじょうまち)二丁目に設くることを認可せられた。  脩(おさむ)は七月に東京から保の家に来て、静岡警察署内巡査講習所の英語教師を嘱託せられ、次で保と共に渋江塾を創設した。これより先(さき)脩は 渋江氏に復籍していた。  脩は渋江塾の設けられた時妻さだを娶った。静岡の人福島竹次郎の長女で、県下駿河国(するがのくに)安倍郡(あべごおり)豊田村(とよだむら)曲金( まがりがね)の素封家海野寿作(うんのじゅさく)の娘分(むすめぶん)である。脩は三十五歳、さだは明治二年八月九日生であるから二十歳であった。  この年九月十五日に、保の許(もと)に匿名の書が届いた。日を期して決闘を求むる書である。その文体書風が悪作劇(いたずら)とも見えぬので、保は多 少の心構(こころがまえ)をしてその日を待った。静岡の市中ではこの事を聞き伝えて種々の噂(うわさ)が立った。さてその日になると、早朝に前田五門( まえだごもん)が保の家に来て助力(じょりき)をしようと申し込んだ。五門は本(もと)五左衛門(ござえもん)と称して、世禄(せいろく)五百七十二石 を食(は)み、下谷(したや)新橋脇(あたらしばしわき)に住んでいた旧幕臣である。明治十五年に保が三河国国府(こふ)を去って入京しようとした時、 五門は懇親会において保と相識になった。初め函右日報(かんゆうにっぽう)社主で、今『大務(たいむ)新聞』顧問になっている。保は五門と倶(とも)に 終日匿名の敵を待ったが、敵は遂に来なかった。五門は後明治三十八年二月二十三日に歿した。天保六年の生であるから、年を享(う)くること七十一であっ た。 その百十  抽斎歿後の第三十一年は明治二十二年である。一月八日に保は東京博文館の求(もとめ)に応じて履歴書、写真並に文稿を寄示した。これが保のこの書肆( しょし)のために書を著(あらわ)すに至った端緒(たんちょ)である。交渉は漸(ようや)く歩を進めて、保は次第に暁鐘新報社に遠(とおざ)かり、博文 館に近(ちかづ)いた。そして十二月二十七日に新報社に告ぐるに、年末を待って主筆を辞することを以てした。然るに新報社は保に退社後なお社説を草(そ う)せんことを請うた。  脩の嫡男終吉(しゅうきち)がこの年十二月一日に鷹匠町二丁目の渋江塾に生れた。即ち今の図案家の渋江終吉さんである。  抽斎歿後の第三十二年は明治二十三年である。保は三月三日に静岡から入京して、麹町有楽町(ゆうらくちょう)二丁目二番地竹(たけ)の舎(や)に寄寓 (きぐう)した。静岡を去るに臨んで、渋江塾を閉じ、英学校、英華(えいか)学校、文武館三校の教職を辞した。ただ『暁鐘新報』の社説は東京において草 することを約した。入京後三月二十六日から博文館のためにする著作翻訳の稿を起した。七月十八日に保は神田(かんだ)仲猿楽町(なかさるがくちょう)五 番地豊田春賀(とよだしゅんが)の許(もと)に転寓した。  保の家には長女福が一月三十日に生れ、二月十七日に夭(よう)した。また七月十一日に長男三吉が三歳にして歿した。感応寺の墓に刻してある智運童子( ちうんどうじ)はこの三吉である。  脩はこの年五月二十九日に単身入京して、六月に飯田町(いいだまち)補習学会及(および)神田猿楽町有終(ゆうしゅう)学校の英語教師となった。妻子 は七月に至って入京した。十二月に脩は鉄道庁第二部傭員となって、遠江国磐田郡(いわたごおり)袋井(ふくろい)駅に勤務することとなり、また家を挙げ て京を去った。  明治二十四年には保は新居を神田仲猿楽町五番地に卜(ぼく)して、七月十七日に起工し、十月一日にこれを落(らく)した。脩は駿河国駿東郡(すんとう ごおり)佐野(さの)駅の駅長助役に転じた。抽斎歿後の第三十三年である。  二十五年には保の次男繁次(しげじ)が二月十八日に生れ、九月二十三日に夭した。感応寺の墓に示教(しきょう)童子と刻してある。脩は七月に鉄道庁に 解傭(かいよう)を請うて入京し、芝愛宕下町(あたごしたちょう)に住んで、京橋西紺屋町(にしこんやちょう)秀英舎の漢字校正係になった。脩の次男行 晴(ゆきはる)が生れた。この年は抽斎歿後の第三十四年である。  二十六年には保の次女冬が十二月二十一日に生れた。脩がこの年から俳句を作ることを始めた。「皮足袋(かわたび)の四十に足を踏込みぬ」の句がある。 二十七年には脩の次男行晴(ゆきはる)が四月十三日に三歳にして歿した。陸(くが)が十二月に本所松井町(まついちょう)三丁目四番地福島某の地所に新 築した。即ち今の居宅(きょたく)である。長唄の師匠としてのこの人の経歴は、一たび優(ゆたか)のために頓挫(とんざ)したが、その後(ご)は継続し て今日(こんにち)に至っている。なお下方に詳記するであろう。二十八年には保の三男純吉が七月十三日に生れた。二十九年には脩が一月に秀英舎市(いち )が谷(や)工場の欧文校正係に転じて、牛込(うしごめ)二十騎町(にじっきちょう)に移った。この月十二日に脩の三男忠三さんが生れた。三十年には保 が九月に根本羽嶽(ねもとうがく)の門に入(い)って易を問うことを始めた。長井金風(ながいきんぷう)さんの言(こと)に拠(よ)るに、羽嶽の師は野 上陳令(のがみちんれい)、陳令の師は山本北山(ほくざん)だそうである。栗本鋤雲(じょうん)が三月六日に七十六歳で歿した。海保漁村の妾(しょう) が歿した。三十一年には保が八月三十日に羽嶽の義道館の講師になり、十二月十七日にその評議員になった。脩の長女花が十二月に生れた。島田篁村(こうそ ん)が八月二十七日に六十一歳で歿した。抽斎歿後の第三十五年乃至(ないし)第四十年である。 その百十一  わたくしは此(ここ)に前記を続(つ)いで抽斎歿後第四十一年以下の事を挙げる。明治三十三年には五月二日に保の三女乙女(おとめ)さんが生れた。三 十四年には脩が吟月(ぎんげつ)と号した。俳諧(はいかい)の師二世桂(かつら)の本(もと)琴糸女(きんしじょ)の授くる所の号である。山内水木(み き)が一月二十六日に歿した。年四十九であった。福沢諭吉が二月三日に六十八歳で歿した。博文館主大橋佐平(おおはしさへい)が十一月三日に六十七歳で 歿した。三十五年には脩が十月に秀英舎を退いて京橋宗十郎町(そうじゅうろうちょう)の国文社に入(い)り、校正係になった。修の四男末男(すえお)さ んが十二月五日に生れた。三十六年には脩が九月に静岡に往って、安西(あんざい)一丁目南裏(みなみうら)に渋江塾を再興した。県立静岡中学校長川田正 澂(かわだせいちょう)の勧(すすめ)に従って、中学生のために温習の便宜を謀(はか)ったのである。脩の長女花が三月十五日に六歳で歿した。三十七年 には保が五月十五日に神田三崎町(みさきちょう)一番地に移った。三十八年には保が七月十三日に荏原郡(えばらごおり)品川町(しながわちょう)南品川 百五十九番地に移った。脩が十二月に静岡の渋江塾を閉じた。川田が宮城県第一中学校長に転じて、静岡中学校の規則が変更せられ、渋江塾は存立(ぞんりつ )の必要なきに至ったのである。伊沢柏軒の嗣子磐(いわお)が十一月二十四日に歿した。鉄三郎が徳安(とくあん)と改め、維新後にまた磐と改めたのであ る。磐の嗣子信治(しんじ)さんは今赤坂(あかさか)氷川町(ひかわちょう)の姉壻清水夏雲(しみずかうん)さんの許(もと)にいる。三十九年には脩が 入京して小石川(こいしかわ)久堅町(ひさかたちょう)博文館印刷所の校正係になった。根本羽嶽が十月三日に八十五歳で歿した。四十年には保の四女紅葉 (もみじ)が十月二十二日に生れて、二十八日に夭した。これが抽斎歿後の第四十八年に至るまでの事略である。  抽斎歿後の第四十九年は明治四十一年である。四月十二日午後十時に脩が歿した。脩はこの月四日降雪の日に感冒した。しかし五日までは博文館印刷所の業 を廃せなかった。六日に至って咳嗽(がいそう)甚しく、発熱して就蓐(じゅじょく)し、終(つい)に加答児(カタル)性肺炎のために命を隕(おと)した 。嗣子終吉さんは今の下渋谷(しもしぶや)の家に移った。  わたくしは脩の句稿を左に鈔出(しょうしゅつ)する。類句を避けて精選するが如きは、その道に専(もっぱら)ならざるわたくしの能(よ)くする所では ない。読者の指 ※(「てへん+二点しんにょうの適」、第4水準2-13-57) (してき)を得ば幸(さいわい)であろう。 山畑(やまはた)や霞(かすみ)の上の鍬(くわ)づかひ 塵塚(ちりづか)に菜の花咲ける弥生(やよい)哉(かな) 海苔(のり)の香(か)や麦藁(むぎわら)染むる縁の先 切凧(きれだこ)のつひに流るゝ小川(こがわ)かな 陽炎(かげろう)と共にちらつく小鮎(こあゆ)哉 いつ見ても初物らしき白魚(しらお)哉 牡丹(ぼたん)切(きっ)て心さびしき夕(ゆうべ)かな 大西瓜(おおすいか)真つ二つにぞ切(きら)れける 山寺は星より高き燈籠(とうろ)かな 稲妻の跡に手ぬるき星の飛ぶ 秋は皆物の淡きに唐芥子(とうがらし) 手も出さで机に向ふ寒さ哉 物売(ものうり)の皆頭巾(ずきん)着て出る夜(よ)哉 凩(こがらし)や土器(かわらけ)乾く石燈籠 雪の日や鶏(とり)の出て来る炭俵(すみだわら)  明治四十四年には保の三男純吉が十七歳で八月十一日に死んだ。大正二年には保が七月十二日に麻布(あざぶ)西町(にしまち)十五番地に、八月二十八日 に同区本村町(ほんむらちょう)八番地に移った。三年には九月九日に今の牛込船河原町(ふながわらちょう)の家に移った。四年には保の次女冬が十月十三 日に二十三歳で歿した。これが抽斎歿後の第五十二年から第五十六年に至る事略である。 その百十二  抽斎の後裔(こうえい)にして今に存じているものは、上記の如く、先ず指を牛込の渋江氏に屈せなくてはならない。主人の保さんは抽斎の第七子で、継嗣 となったものである。経(けい)を漁村、竹逕(ちくけい)の海保氏父子、島田篁村(こうそん)、兼松石居(せききょ)、根本羽嶽に、漢医方を多紀雲従( うんじゅう)に受け、師範学校において、教育家として養成せられ、共立学舎、慶応義塾において英語を研究し、浜松、静岡にあっては、あるいは校長となり 、あるいは教頭となり、旁(かたわら)新聞記者として、政治を論じた。しかし最も大いに精力を費(ついや)したものは、書肆(しょし)博文館のためにす る著作翻訳で、その刊行する所の書が、通計約百五十部の多きに至っている。その書は随時世人(せいじん)を啓発した功はあるにしても、概(おおむね)皆 時尚(じしょう)を追う書估(しょこ)の誅求(ちゅうきゅう)に応じて筆を走らせたものである。保さんの精力は徒費せられたといわざることを得ない。そ して保さんは自らこれを知っている。畢竟(ひっきょう)文士と書估との関係はミュチュアリスムであるべきのに、実はパラジチスムになっている。保さんは 生物学上の亭主役をしたのである。  保さんの作らんと欲する書は、今なお計画として保さんの意中にある。曰(いわ)く本私刑史、曰く支那刑法史、曰く経子(けいし)一家言、曰く周易一家 言、曰く読書五十年、この五部の書が即ちこれである。就中(なかんずく)読書五十年の如きは、啻(ただ)に計画として存在するのみではない、その藁本( こうほん)が既に堆(たい)を成している。これは一種のビブリオグラフィイで、保さんの博渉の一面を窺(うかが)うに足るものである。著者の志す所は厳 君(げんくん)の『経籍訪古志』を廓大(かくだい)して、古(いにしえ)より今に及ぼし、東より西に及ぼすにあるといっても、あるいは不可なることがな かろう。保さんは果して能(よ)くその志を成すであろうか。世間は果して能く保さんをしてその志を成さしむるであろうか。  保さんは今年(こんねん)大正五年に六十歳、妻佐野氏お松さんは四十八歳、女(じょ)乙女さんは十七歳である。乙女さんは明治四十一年以降鏑木清方( かぶらききよかた)に就(つ)いて画(え)を学び、また大正三年以還(いかん)跡見(あとみ)女学校の生徒になっている。  第二には本所の渋江氏がある。女主人(おんなあるじ)は抽斎の四女陸(くが)で、長唄の師匠杵屋勝久(きねやかつひさ)さんがこれである。既に記(き )したる如く、大正五年には七十歳になった。  陸が始(はじめ)て長唄の手ほどきをしてもらった師匠は日本橋馬喰町(ばくろうちょう)の二世杵屋勝三郎で、馬場(ばば)の鬼勝(おにかつ)と称せら れた名人である。これは嘉永三年陸が僅(わずか)に四歳になった時だというから、まだ小柳町の大工の棟梁(とうりょう)新八の家へ里子に遣られていて、 そこから稽古(けいこ)に通ったことであろう。  母五百も声が好(よ)かったが、陸はそれに似た美声だといって、勝三郎が褒(ほ)めた。節も好く記(おぼ)えた。三味線(さみせん)は「宵(よい)は 待ち」を弾(ひ)く時、早く既に自ら調子を合せることが出来、めりやす「黒髪」位に至ると、師匠に連れられて、所々(しょしょ)の大浚(おおざらえ)に 往った。  勝三郎は陸を教えるに、特別に骨を折った。月六斎(つきろくさい)と日を期して、勝三郎が喜代蔵(きよぞう)、辰蔵(たつぞう)二人の弟子(でし)を 伴って、お玉が池の渋江の邸(やしき)に出向くと、その日には陸(くが)も里親の許(もと)から帰って待ち受けていた。陸の浚(さらえ)が畢(おわ)る と、二番位演奏があって、その上で酒飯(しゅはん)が出た。料理は必ず青柳(あおやぎ)から為出(しだ)した。嘉永四年に渋江氏が本所台所町に移ってか らも、この出稽古は継続せられた。 その百十三  渋江氏が一旦(いったん)弘前に徙(うつ)って、その後(のち)東京と改まった江戸に再び還(かえ)った時、陸(くが)は本所緑町に砂糖店(さとうみ せ)を開いた。これは初め商売を始めようと思って土著(どちゃく)したのではなく、唯稲葉(いなば)という家の門の片隅に空地(くうち)があったので、 そこへ小家(こいえ)を建てて住んだのであった。さてこの家に住んでから、稲葉氏と親しく交わることになり、その勧奨に由(よ)って砂糖店をば開いたの である。また砂糖店を閉じた後(のち)に、長唄の師匠として自立するに至ったのも、同じ稲葉氏が援助したのである。  本所には三百石取(どり)以上の旗本で、稲葉氏を称したものが四軒ばかりあったから、親しくその子孫について質(ただ)さなくては、どの家かわからぬ が、陸を庇護(ひご)した稲葉氏には、当時四十何歳の未亡人の下(もと)に、一旦人に嫁して帰った家附(いえつき)の女(むすめ)で四十歳位のが一人、 松さん、駒(こま)さんの兄弟があった。この松さんは今千秋(せんしゅう)と号して書家になっているそうである。  陸が小家に移った当座、稲葉氏の母と娘とは、湯屋に往くにも陸をさそって往き、母が背中を洗って遣(や)れば、娘が手を洗って遣るというようにした。 髪をも二人で毎日種々の髷(まげ)に結(ゆ)って遣った。  さて稲葉の未亡人のいうには、若いものが坐食していては悪い、心安い砂糖問屋(さとうどいや)があるから、砂糖店を出したが好かろう、医者の家に生れ て、陸は秤目(はかりめ)を知っているから丁度好いということであった。砂糖店は開かれた。そして繁昌(はんじょう)した。品(しな)も好く、秤(はか り)も好いと評判せられて、客は遠方から来た。汁粉屋が買いに来る。煮締屋(にしめや)が買いに来る。小松川(こまつがわ)あたりからわざわざ来るもの さえあった。  或日貴婦人が女中大勢を連れて店に来た。そして氷砂糖、金米糖(コンペイトー)などを買って、陸に言った。「士族の女(むすめ)で健気(けなげ)にも 商売を始めたものがあるという噂(うわさ)を聞いて、わたしはわざわざ買いに来ました。どうぞ中途で罷(や)めないで、辛棒(しんぼう)をし徹(とお) して、人の手本になって下さい」といった。後に聞けば、藤堂家の夫人だそうであった。藤堂家の下屋敷は両国橋詰にあって、当時の主人は高猷(たかゆき) 、夫人は一族高 ※(「山/(鬆−髟)」、第3水準1-47-81) (たかたけ)の女(じょ)であったはずである。  或日また五百(いお)と保とが寄席(よせ)に往った。心打(しんうち)は円朝(えんちょう)であったが、話の本題に入(い)る前に、こういう事を言っ た。「この頃緑町では、御大家(ごたいけ)のお嬢様がお砂糖屋をお始(はじめ)になって、殊(こと)の外(ほか)御繁昌だと申すことでございます。時節 柄結構なお思い立(たち)で、誰(たれ)もそうありたい事と存じます」といった。話の中(うち)にいわゆる心学(しんがく)を説いた円朝の面目(めんぼ く)が窺(うかが)われる。五百は聴(き)いて感慨に堪えなかったそうである。  この砂糖店は幸か不幸か、繁昌の最中(もなか)に閉じられて、陸は世間の同情に酬(むく)いることを得なかった。家族関係の上に除きがたい障礙(しょ うがい)が生じたためである。  商業を廃して間暇(かんか)を得た陸の許(もと)へ、稲葉の未亡人は遊びに来て、談は偶(たまたま)長唄の事に及んだ。長唄は未亡人がかつて稽古した ことがある。陸には飯よりも好(すき)な道である。一しょに浚(さら)って見ようではないかということになった。いまだ一段を終らぬに、世話好の未亡人 は驚歎しつつこういった。「あなたは素人(しろうと)じゃないではありませんか。是非師匠におなりなさい。わたしが一番に弟子入をします。」 その百十四  稲葉の未亡人の詞(ことば)を聞いて、陸の意はやや動いた。芸人になるということを憚(はばか)ってはいるが、どうにかして生計を営むものとすると、 自分の好む芸を以てしたいのであった。陸は母五百の許(もと)に往って相談した。五百は思(おもい)の外(ほか)容易(たやす)く許した。  陸は師匠杵屋勝三郎の勝の字を請い受けて勝久と称し、公(おおやけ)に稟(もう)して鑑札を下付せられた。その時本所亀沢町左官庄兵衛の店(たな)に 、似合わしい一戸が明いていたので、勝久はそれを借りて看板を懸けた。二十七歳になった明治六年の事である。  この亀沢町の家の隣には、吉野(よしの)という象牙(ぞうげ)職の老夫婦が住んでいた。主人(あるじ)は町内の若(わか)い衆頭(しゅがしら)で、世 馴(よな)れた、侠気(きょうき)のある人であったから、女房と共に勝久の身の上を引き受けて世話をした。「まだ町住いの事は御存じないのだから、失礼 ながらわたしたち夫婦でお指図(さしず)をいたして上げます」といったのである。夫婦は朝表口の揚戸(あげど)を上げてくれる。晩にまた卸してくれる。 何から何まで面倒を見てくれたのである。  吉野の家には二人の女(むすめ)があって、姉をふくといい、妹をかねといった。老夫婦は即時にこの姉妹を入門させた。おかねさんは今日本橋大坂町(お おさかまち)十三番地に住む水野某の妻で、子供をも勝久の弟子にしている。  吉野は勝久の事を町住いに馴れぬといった。勝久はかつて砂糖店を出していたことはあっても、今いわゆる愛敬(あいきょう)商売の師匠となって見ると、 自分の物馴れぬことの甚しさに気附かずにはいられなかった。これまで自分を「お陸さん」と呼んだ人が、忽(たちま)ち「お師匠さん」と呼ぶ。それを聞く ごとにぎくりとして、理性は呼ぶ人の詞(ことば)の妥当なるを認めながら、感情はその人を意地悪のように思う。砂糖屋でいた頃も、八百屋(やおや)、肴 屋(さかなや)にお前と呼ぶことを遠慮したが、当時はまだその辞(ことば)を紆曲(うきょく)にして直(ただち)に相手を斥(さ)して呼ぶことを避けて いた。今はあらゆる職業の人に交わって、誰をも檀那(だんな)といい、お上(かみ)さんといわなくてはならない。それがどうも口に出憎(でにく)いので あった。或時吉野の主人が「好く気を附けて、人に高ぶるなんぞといわれないようになさいよ」と忠告すると、勝久は急所を刺されたように感じたそうである 。  しかし勝久の業は予期したよりも繁昌した。いまだ幾ばくもあらぬに、弟子の数(かず)は八十人を踰(こ)えた。それに上流の家々に招かれることが漸( ようや)く多く、後には殆(ほとん)ど毎日のように、昼の稽古を終ってから、諸方の邸へ車を馳(は)せることになった。  最も数(しばしば)往ったのはほど近い藤堂家である。この邸では家族の人々の誕生日、その外種々の祝日(いわいび)に、必ず勝久を呼ぶことになってい る。  藤堂家に次いでは、細川、津軽、稲葉、前田、伊達、牧野、小笠原、黒田、本多の諸家で、勝久は贔屓(ひいき)になっている。 その百十五  細川家に勝久の招かれたのは、相弟子(あいでし)勝秀(かつひで)が紹介したのである。勝秀はかつて肥後国熊本までもこの家の人々に伴われて往ったこ とがあるそうである。勝久の初(はじめ)て招かれたのは今戸(いまど)の別邸で、当日は立三味線(たてさみせん)が勝秀、外に脇二人(わきににん)、立 唄(たてうた)が勝久、外に脇唄二人、その他鳴物(なりもの)連中で、悉(ことごと)く女芸人であった。番組は「勧進帳(かんじんちょう)」、「吉原雀 (よしわらすずめ)」、「英執着獅子(はなぶさしゅうじゃくじし)」で、末(すえ)に好(このみ)として「石橋(しゃっきょう)」を演じた。  細川家の当主は慶順(よしゆき)であっただろう。勝久が部屋へ下(さが)っていると、そこへ津軽侯が来て、「渋江の女(むすめ)の陸(くが)がいると いうことだから逢いに来たよ」といった。連(つれ)の女らは皆驚いた。津軽承昭(つぐてる)は主人慶順の弟であるから、その日の客になって、来ていたの であろう。  長唄が畢(おわ)ってから、主客打交っての能があって、女芸人らは陪観を許された。津軽侯は「船弁慶(ふなべんけい)」を舞った。勝久を細川家に介致 (かいち)した勝秀は、今は亡人(なきひと)である。  津軽家へは細川別邸で主公に謁見したのが縁となって、渋江陸としてしばしば召されることになった。いつも独(ひとり)往って弾きもし歌いもすることに なっている。老女歌野(うたの)、お部屋おたつの人々が馴染(なじみ)になって、陸を引き廻してくれるのである。  稲葉家へは師匠勝三郎が存命中に初て連れて往った。その邸は青山だというから、豊後国(ぶんごのくに)臼杵(うすき)の稲葉家で、当時の主公久通(ひ さみち)に麻布土器町(かわらけちょう)の下屋敷へ招かれたのであろう。連中は男女交りであった。立三味線は勝三郎、脇勝秀、立唄(たてうた)は坂田仙 八(さかたせんぱち)、脇勝久で、皆稲葉家の名指(なざし)であった。仙八は亡人(なきひと)で、今の勝五郎、前名勝四郎の父である。番組は「鶴亀(つ るかめ)」、「初時雨(はつしぐれ)」、「喜撰(きせん)」で、末に好(このみ)として勝三郎と仙八とが「狸囃(たぬきばやし)」を演じた。  演奏が畢(おわ)ってから、勝三郎らは花園を観(み)ることを許された。園(その)は太(はなは)だ広く、珍奇な花卉(かき)が多かった。園を過ぎて 菜圃(さいほ)に入(い)ると、その傍(かたわら)に竹藪(たけやぶ)があって、筍(たけのこ)が叢(むらが)り生じていた。主公が芸人らに、「お前た ちが自分で抜いただけは、何本でも持って帰って好(い)いから勝手に抜け」といった。男女の芸人が争って抜いた。中には筍が抽(ぬ)けると共に、尻餅( しりもち)を擣(つ)くものもあった。主公はこれを見て興に入(い)った。筍の周囲の土は、予(あらかじ)め掘り起して、鬆(ゆる)めた後(のち)にま た掻(か)き寄せてあったそうである。それでも芸人らは容易(たやす)く抜くことを得なかった。家苞(いえづと)には筍を多く賜わった。抜かぬ人もその 数には洩(も)れなかった。  前田家、伊達家、牧野家、小笠原家、黒田家、本多家へも次第に呼ばれることになった。初て往った頃は、前田家が宰相慶寧(よしやす)、伊達家が亀三郎 、牧野家が金丸(かなまる)、小笠原家が豊千代丸(とよちよまる)、黒田家が少将慶賛(よしすけ)、本多家が主膳正(しゅぜんのかみ)康穣(やすしげ) の時であっただろう。しかしわたくしは維新後における華冑(かちゅう)家世(かせい)の事に精(くわ)しくないから、もし誤謬(ごびゅう)があったら正 してもらいたい。  勝久は看板を懸けてから四年目、明治十年四月三日に、両国中村楼で名弘(なびろ)めの大浚(おおざらい)を催した。浚場(さらいば)の間口(まぐち) の天幕は深川の五本松門弟中(じゅう)、後幕(うしろまく)は魚河岸問屋(うおがしどいや)今和(いまわ)と緑町門弟中、水引(みずひき)は牧野家であ った。その外家元門弟中より紅白縮緬(ちりめん)の天幕、杵勝名取(きねかつなとり)男女中より縹色絹(はないろぎぬ)の後幕、勝久門下名取女中(じゅ う)より中形(ちゅうがた)縮緬の大額(おおがく)、親密連(しんみつれん)女名取より茶緞子(ちゃどんす)丸帯の掛地(かけじ)、木場贔屓(きばひい き)中より白縮緬の水引が贈られた。役者はおもいおもいの意匠を凝(こら)したびらを寄せた。縁故のある華族の諸家(しょけ)は皆金品を遺(おく)って 、中には老女を遣(つかわ)したものもあった。勝久が三十一歳の時の事である。 その百十六  勝久が本所松井町福島某の地所に、今の居宅を構えた時に、師匠勝三郎は喜んで、歌を詠じて自ら書し、表装して貽(おく)った。勝久はこの歌に本づいて 歌曲「松(まつ)の栄(さかえ)」を作り、両国井生村楼(いぶむらろう)で新曲開きをした。勝三郎を始として、杵屋一派の名流が集まった。曲は奉書摺( ほうしょずり)の本に為立(した)てて客(かく)に頒(わか)たれた。緒余(しょよ)に『四つの海』を著した抽斎が好尚の一面は、図らずもその女(じょ )陸(くが)に藉(よ)って此(かく)の如き発展を遂げたのである。これは明治二十七年十二月で、勝久が四十八歳の時であった。  勝三郎は尋(つい)で明治二十九年二月五日に歿した。年は七十七であった。法諡(ほうし)を花菱院照誉東成信士(かりょういんしょうよとうせいしんし )という。東成はその諱(いみな)である。墓は浅草蔵前(くらまえ)西福寺(さいふくじ)内真行院(しんぎょういん)にある。原(たず)ぬるに長唄杵屋 の一派は俳優中村勘五郎から出て、その宗家は世(よよ)喜三郎また六左衛門と称し現に日本橋坂本町(さかもとちょう)十八番地にあって名跡(みょうせき )を伝えている。いわゆる植木店(うえきだな)の家元(いえもと)である。三世喜三郎の三男杵屋六三郎が分派をなし、その門に初代佐吉があり、初代佐吉 の門に和吉(わきち)があり、和吉の後(のち)を初代勝五郎が襲(つ)ぎ、初代勝五郎の後を初代勝三郎が襲いだ。この勝三郎は終生名を更(あらた)めず にいて、勝五郎の称は門人をして襲がしめた。次が二世勝三郎東成で、小字(おさなな)を小三郎(こさぶろう)といった。即ち勝久の師匠である。  二世勝三郎には子女各(おのおの)一人(いちにん)があって、姉をふさといい、弟を金次郎(きんじろう)といった。金次郎は「己(おれ)は芸人なんぞ にはならない」といって、学校にばかり通っていた。二世勝三郎は終(おわり)に臨んで子らに遺言(ゆいごん)し、勝久を小母(おば)と呼んで、後事(こ うじ)を相談するが好(よ)いといったそうである。  二世勝三郎の馬喰町の家は、長女ふさに壻を迎えて継がせることになった。壻は新宿(しんじゅく)の岩松(いわまつ)というもので、養父の小字(おさな な)小三郎を襲ぎ、中村楼で名弘(なびろめ)の会を催した。いまだ幾(いくば)くならぬに、小三郎は養父の小字を名告(なの)ることを屑(いさぎよ)し とせず、三世勝三郎たらんことを欲した。しかし先代勝三郎の門人は杵勝同窓会を組織していて、技芸の小三郎より優れているものが多い。それゆえ襲名の事 は輒(たやす)く認容せられなかった。小三郎は遂に葛藤(かっとう)を生じて離縁せられた。  是(ここ)において二世勝三郎の長男金次郎は、父の遺業を継がなくてはならぬことになった。金次郎は親戚(しんせき)と父の門人らとに強要せられて退 学し、好まぬ三味線を手に取って、杵勝分派諸老輩の鞭策(べんさく)の下に、いやいやながら腕を磨(みが)いた。  金次郎は遂に三世勝三郎となった。初めこの勝三郎は学校教育が累(るい)をなし、目に丁字(ていじ)なき儕輩(せいはい)の忌む所となって、杵勝同窓 会幹事の一人(いちにん)たる勝久の如きは、前途のために手に汗を握ること数(しばしば)であったが、固(もと)より些(ちと)の学問が技芸を妨げるは ずはないので、次第に家元たる声価も定まり、羽翼も成った。  明治三十六年勝久が五十七歳になった時の事である。三世勝三郎が鎌倉に病臥(びょうが)しているので、勝久は勝秀、勝きみと共に、二月二十五日に見舞 いに往った。 ※(「にんべん+就」、第3水準1-14-40) 居(しゅうきょ)は海光山(かいこうざん)長谷寺(ちょうこくじ)の座敷である。勝三郎は病がとかく佳候(かこう)を呈せなかったが、当時なお杖に扶( たす)けられて寺門(じもん)を出(い)で、勝久らに近傍の故蹟を見せることが出来た。勝久は遊覧の記を作って、病牀(びょうしょう)の慰草(なぐさみ ぐさ)にもといって遣(おく)った。雑誌『道楽世界』に、杵屋勝久は学者だと書いたのは、この頃の事である。三月三日に勝三郎は病のいまだ ※(「やまいだれ+差」、第4水準2-81-66) (い)えざるに東京に還った。 その百十七  三世勝三郎の病は東京に還ってからも癒えなかった。当時勝三郎は東京座頭取(とうどり)であったので、高足弟子(こうそくていし)たる浅草森田町(も りたちょう)の勝四郎をして主としてその事に当らしめた。勝四郎は即ち今の勝五郎である。然るに勝三郎は東京座における勝四郎の勤(つとめ)ぶりに慊( あきたら)なかった。そして病のために気短(きみじか)になっている勝三郎と勝四郎との間に、次第に繕いがたい釁隙(きんげき)を生じた。  五月に至って勝三郎は房州へ転地することを思い立ったが、出発に臨んで自分の去った後(のち)における杵勝分派の前途を気遣った。そして分派の永続を 保証すべき男女名取の盟約書を作らせようとした。勝久の世話をしている女名取の間には、これを作るに何の故障もなかった。しかし勝四郎を領袖(りょうし ゅう)としている男名取らは、先ず師匠の怒(いかり)が解けて、師匠と勝四郎との交(まじわり)が昔の如き和熟を見るに至るまでは、盟約書に調印するこ とは出来ぬといった。この時勝久は病める師匠の心を安(やす)んずるには、男女名取総員の盟約を完成するに若(し)くはないと思って、師家と男名取らと の間に往来して調停に努力した。  しかし勝三郎は遂に釈然たるに至らなかった。六月十六日に勝久が馬喰町の家元を訪(と)うて、重ねて勝四郎のために請う所があったとき、勝三郎は涙を 流して怒(いか)り、「小母(おば)さんはどこまでこの病人に忤(さから)う気ですか」といった。勝久は此(ここ)に至って復(また)奈何(いかん)と もすることが出来なかった。  六月二十五日の朝、勝三郎は霊岸島(れいがんじま)から舟に乗って房州へ立った。妻みつが同行した。即ち杵勝分派のものが女師匠と呼んでいる人である 。見送の人々は勝三郎の姉ふさ、いそ、てる、勝久、勝ふみ、藤二郎(とうじろう)、それに師匠の家にいる兼(かね)さんという男、上総屋(かずさや)の 親方、以上八人であった。勝三郎の姉ふさは後に、日本橋浜町一丁目に二世勝三郎の建てた隠居所に住んで、独身で暮しているので、杵勝分派に浜町の師匠と 呼ばれている人である。  この桟橋の別(わかれ)には何となく落寞(らくばく)の感があった。病み衰えた勝三郎は終(つい)に男名取総員の和熟を見るに及ばずして東京を去った 。そしてそれが再び帰らぬ旅路であった。  勝久は家元を送って四日の後に病に臥(ふ)した。七月八日には女師匠が房州から帰って、勝久の病を問うた。十二日に勝久は馬喰町と浜町とへ留守見舞の 使を遣(や)って、勝三郎の房州から鎌倉へ遷(うつ)ったことを聞いた。  九月十一日は小雨(こさめ)の降る日であった。鎌倉から勝三郎の病が革(すみやか)だと報じて来た。勝久は腰部の拘攣(こうれん)のために、寝がえり だに出来ず、便所に往くにも、人に抱かれて往っていた。そこへこの報が来たので、勝久はしばらく戦慄(せんりつ)して已(や)まなかった。しかし勝久は 自ら励まして常に親しくしている勝ふみを呼びに遣った。介抱かたがた同行することを求めたのであった。二人は新橋から汽車に乗って、鎌倉へ往った。勝三 郎はこの夕(ゆうべ)に世を去った。年は三十八であった。法諡(ほうし)を蓮生院薫誉智才信士(れんしょういんくんよちさいしんし)という。 その百十八  九月十二日に勝久は三世勝二郎の柩(ひつぎ)を荼 ※(「田+比」、第3水準1-86-44) 所(だびしょ)まで見送って、そこから車を停車場へ駆り、夜東京に還った。勝三郎が歿した後(のち)に、杵勝分派の団結を維持して行くには、一刻も早く 除かなくてはならぬ障礙(しょうがい)がある。それは勝三郎の生前(しょうぜん)に、勝久らが百方調停したにもかかわらず、宥(ゆる)されずにしまった 高足弟子(こうそくていし)勝四郎の勘気である。勝久は鎌倉にある間も、東京へ帰る途上でも、須臾(しゅゆ)もこれを忘れることが出来なかった。  十三日の昧爽(まいそう)に、勝久は森田町の勝四郎が家へ手紙を遣った。「定めし御聞込(おんききこみ)の事とは存じ候(そうら)へども、杵屋御(お ん)家元様は御(ご)死去被遊候(あそばされそろ)。夫(それ)に付(つき)私共は今日(こんにち)午後四時御(ご)同所に相寄候事(あいよりそろこと )に御坐候。此(この)際御(おん)前様御心底は奈何(いかが)に候哉(や)。私存じ候には、同刻御自身の思召(おぼしめし)にて馬喰町へ御出被成候方 宜敷(おんいでなされそろかたよろしく)候様存じ候。田原町(たわらちょう)へ一寸(ちょっと)御立寄被成候(おんたちよりなされそうろう)て御出被成 度(おんいでなされたく)存じ候。さ候はゞ及ばずながら奈何様(いかよう)にも御(ご)都合宜敷様可致候(いたすべくそろ)。先(まず)は右申入(もう しいれ)候。」田原町とは勝四郎に亜(つ)ぐ二番弟子勝治郎の家をいったのである。勝治郎は昨今病のために引き籠(こも)って、杵勝同窓会をも脱(ぬ) けている。  勝四郎の返事には、好意はありがたいが、何分これまでの行懸(ゆきがかり)上単身では出向かれぬといって来た。そこで十造、勝助の二人(ふたり)が森 田町へ迎えに往(ゆ)くことになった。  馬喰町の家では、この日通夜(つうや)のために、亡人(なきひと)の親戚を始(はじめ)として、男女の名取が皆集まっていた。勝久は浜町の師匠と女師 匠とに請うに、亡人に代って勝四郎を免(ゆる)すことを以てした。浜町の師匠は亡人の姉ふさ、女師匠は三十六歳で未亡人となった亡人の妻みつである。二 人の女は許諾した。そこへ勝四郎は出向いて来て、勝三郎の木位(もくい)を拝し、綫香(せんこう)を手向(たむ)けた。勝四郎は木位の前を退いて男女の 名取に挨拶(あいさつ)した。葛藤は此(ここ)に全く解けた。これが明治三十六年勝久が五十七歳の時の事で、勝久は始終病を力(つと)めてこの調停の衝 に当ったのである。勝久が病の本復したのはこの年の十二月である。  杵勝同窓会はこれより後 ※(「目+癸」、第4水準2-82-11) 乖(けいかい)の根を絶って、男名取中からは名を勝五郎と更(あらた)めた勝四郎が推されて幹事となり、女名取中からは勝久が推されて同じく幹事となっ ている。勝四郎の名は今飯田町住の五番弟子が襲(つ)いでいる。一番弟子勝四郎改(あらため)勝五郎、二番勝治郎、三番勝松(かつまつ)改勝右衛門、四 番勝吉(かつきち)改勝太郎、五番勝四郎、六番勝之助改和吉である。  二世勝三郎の花菱院(かりょういん)が三年忌には、男女名取が梵鐘(ぼんしょう)一箇を西福寺に寄附した。七年忌には金百円、幕一帳(ひとはり)男女 名取中、葡萄鼠縮緬幕(ぶどうねずみちりめんまく)女名取中、大額並(ならびに)黒絽夢想袷羽織(くろろむそうあわせばおり)勝久門弟中、十三年忌が三 世の七年忌を繰り上げて併(あわ)せ修せられたときには、木魚(もくぎょ)一対(いっつい)墓前花立(はなたて)並綫香立男女名取中、十七年忌には蓮華 形皿(れんげがたさら)十三枚男女名取中の寄附があった。また三世勝三郎の蓮生院(れんしょういん)が三年忌には経箱(きょうばこ)六個経本入(いり) 男女名取中、十三年忌には袈裟(けさ)一領家元、天蓋(てんがい)一箇男女名取中の寄附があった。これらの文字は、人があるいはわたくしの何故(なにゆ え)にこれを条記して煩を厭(いと)わざるかを怪(あやし)むであろう。しかしわたくしは勝久の手記を閲(けみ)して、いわゆる芸人の師に事(つか)う ることの厚きに驚いた。そしてこの善行を埋没するに忍びなかった。もしわたくしが虚礼に瞞過(まんか)せられたという人があったら、わたくしは敢(あえ )て問いたい。そういう人は果して一切の善行の動機を看破することを得るだろうかと。 その百十九  勝久の人に長唄を教うること、今に ※(「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53) (いた)るまで四十四年である。この間に勝久は名取の弟子僅(わずか)に七人を得ている。明治三十二年には倉田(くらた)ふでが杵屋勝久羅(かつくら) となった。三十四年には遠藤さとが杵屋勝久美(かつくみ)となった。四十三年には福原さくが杵屋勝久女(かつくめ)となり、山口はるが杵屋勝久利(かつ くり)となった。大正二年には加藤たつが杵屋勝久満(かつくま)となった。三年には細井のりが杵屋勝久代(かつくよ)となった。五年には伊藤あいが杵屋 勝久纓(かつくお)となった。この外に大正四年に名取になった山田政次郎(まさじろう)の杵屋勝丸(かつまる)もある。しかしこれは男の事ゆえ、勝久の 弟子ではあるが、名は家元から取らせた。今の教育は都(すべ)て官公私立の学校において行うことになっていて、勢(いきおい)集団教育の法に従わざるこ とを得ない。そしてその弊を拯(すく)うには、ただ個人教育の法を参取する一途があるのみである。是(ここ)において世には往々昔の儒者の家塾を夢みる ものがある。然るにいわゆる芸人に名取の制があって、今なお牢守(ろうしゅ)せられていることには想い及ぶものが鮮(すくな)い。尋常許取(ゆるしとり )の濫(らん)は、芸人があるいは人の誚(そしり)を辞することを得ざる所であろう。しかし夫(か)の名取に至っては、その肯(あえ)て軽々(かろがろ )しく仮借せざる所であるらしい。もしそうでないものなら、四十四年の久しい間に、質(ち)を勝久に委(ゆだ)ねた幾百人の中で、能(よ)く名取の班に 列するものが独り七、八人のみではなかったであろう。  勝久の陸(くが)は啻(ただ)に長唄を稽古(けいこ)したばかりではなく、幼(いとけな)くして琴を山勢(やませ)氏に学び、踊を藤間(ふじま)ふじ に学んだ。陸の踊に使う衣裳(いしょう)小道具は、渋江の家では十二分に取り揃(そろ)えてあったので、陸と共に踊る子が手廻(てまわ)り兼ねる家の子 であると、渋江氏の方でその相手の子の支度をもして遣って踊らせた。陸は善く踊ったが、その嗜好(しこう)が長唄に傾(かたぶ)いていたので、踊は中途 で罷(や)められた。  陸は遠州流の活花(いけばな)をも学んだ。碁(ご)象棋(しょうぎ)をも母五百(いお)に学んだ。五百の碁は二段であった。五百はかつて薙刀(なぎな た)をさえ陸に教えたことがある。  陸の読書筆札の事は既に記したが、やや長ずるに及んでは、五百が近衛予楽院(このえよらくいん)の手本を授けて臨書せしめたそうである。  陸の裁縫は五百が教えた。陸が人と成ってから後(のち)は、渋江の家では重ねものから不断著(ふだんぎ)まで殆(ほとん)ど外へ出して裁縫させたこと がない。五百は常に、「為立(したて)は陸に限る、為立屋の為事(しごと)は悪い」といっていた。張物(はりもの)も五百が尺(ものさし)を手にして指 図し、布目(ぬのめ)の毫(ごう)も歪(ゆが)まぬように陸に張らせた。「善く張った切(きれ)は新しい反物(たんもの)を裁ったようでなくてはならな い」とは、五百の恒(つね)の詞(ことば)であった。  髪を剃(そ)り髪を結(ゆ)うことにも、陸は早く熟錬した。剃ることには、尼妙了(みょうりょう)が「お陸様が剃(す)って下さるなら、頭が罅欠(ひ びかけ)だらけになっても好(い)い」といって、頭を委(まか)せていたので馴(な)れた。結うことはお牧(まき)婆(ば)あやの髪を、前髪に張(はり )のない、小さい祖母子(おばこ)に結ったのが手始(てはじめ)で、後には母の髪、妹の髪、女中たちの髪までも結い、我髪は固(もと)より自ら結った。 唯余所行(よそゆき)の我髪だけ母の手を煩わした。弘前に徙(うつ)った時、浅越(あさごえ)玄隆、前田善二郎の妻、松本甲子蔵(きねぞう)の妹などは 菓子折を持って来て、陸に髪を結ってもらった。陸は礼物(れいもつ)を却(しりぞ)けて結って遣り、流行(はやり)の飾をさえ贈った。  陸は生得(しょうとく)おとなしい子で、泣かず怒(いか)らず、饒舌(じょうぜつ)することもなかった。しかし言動が快活なので、剽軽者(ひょうきん もの)として家人にも他人にも喜ばれたそうである。その人と成った後に、志操が堅固で、義務心に富んでいることは、長唄の師匠としての経歴に徴して知る ことが出来る。  牛込(うしごめ)の保さんの家と、その保さんを、父抽斎の継嗣たる故を以て、始終「兄(に)いさん」と呼んでいる本所の勝久さんの家との外に、現に東 京には第三の渋江氏がある。即ち下渋谷の渋江氏である。  下渋谷の家は脩の子終吉さんを当主としている。終吉は図案家で、大正三年に津田青楓(つだせいふう)さんの門人になった。大正五年に二十八歳である。 終吉には二人(ににん)の弟がある。前年に明治薬学校の業を終えた忠三さんが二十一歳、末男さんが十五歳である。この三人の生母福島氏おさださんは静岡 にいる。牛込のお松さんと同齢で、四十八歳である。 __________________________________________________________________ 底本:「渋江抽斎」岩波文庫、岩波書店    1940(昭和15)年8月16日第1刷発行    1999(平成11)年5月17日改版第1刷発行 底本の親本:「鴎外選集 第6巻」岩波書店    1979(昭和54)年4月23日第1刷発行 初出:「大阪毎日新聞」「東京日日新聞」    1916(大正5)年1月13日〜5月17日 ※底本はこの作品で「門<日」と「門<月」を使い分けており、「間暇」では、「門<月」を用いています。 入力:kompass 校正:松永正敏 2005年10月1日作成 2019年1月29日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたっ たのは、ボランティアの皆さんです。 __________________________________________________________________ ●表記について * このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。 * [#…]は、入力者による注を表す記号です。 * 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。 * この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示 しました。 「去/廾」、U+5F06 24-15 「大/淵」、U+596B 48-5 「木+邦」、U+6886 87-8 「塵」の「土」に代えて「辰」、U+9E8E 117-6 「衛/心」、U+39A3 165-14、165-15、166-6、168-8、169-9 「箝」の「甘」に代えて「澑のつくり」、U+7C52 192-1、192-1、192-2 「てへん+澑のつくり」、U+3A45 192-1 「てへん+參」、U+647B 198-15 「さんずい+(一/(幺+幺)/土)」、U+6EBC 201-2 「金+蚣のつくり」、U+9206 243-12 「言+圭」、U+8A7F 295-5 「にんべん+暴」、U+5124 298-2 __________________________________________________________________ ●図書カード