後回しにされる「差別」 トランスジェンダーを加害者扱いする「想像的逆転」に抗して

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「Getty Images」より

トランス排除

 昨年の夏頃から、ツイッターを中心としたインターネット上で吹き荒れているトランス嫌悪的な(フォビック)言説は、2019年7月現在においても鳴り止む気配がない。それどころか、その激しさは日に日に増しているように思われる。

 堀あきこが「分断された性差別――「フェミニスト」によるトランス排除」で詳しく述べているように[1]、2018年7月2日のお茶の水女子大学のトランス女性受け入れ報道を発端に、ネット上では女性専用スペースにトランス女性が参入することへの懸念や反発が起こった。また、今年の1月5日には、元参議院議員の松浦大悟がAbemaTV『みのもんたのよるバズ!』で野党提出のLGBT差別解消法案を批判するために「男性器のついたトランスジェンダーを女湯に入れないと差別になってしまう」と語った。このトランスジェンダーへの「恐怖」をことさらに煽る報道もツイッターなどで拡散された[2]。

 これら一連のトランス排除的言説の背景にあるのは、「トランスジェンダーを受け入れれば、男性器のついた人間が女性専用スペースを使えるようになり、性暴力が増えるのではないか」といった「恐怖」や「不安」である。これらの言説において、トランス女性は「男体持ち」などのカテゴリーで記述され、「性犯罪目的の男性」と見分けのつかない「性犯罪者予備軍」であるかのように語られている。

 私がもっともショックを受けたのは、2019年1月9日に投稿された「ツイッターのせいで高校からの友達が死んだ」という記事[3]である。それは、あるトランス女性がツイッターにおけるトランス排除・差別が一因で自殺したという内容だった。匿名でなされた記事ということもあり、真偽の程はもちろん分からない。それでも、この記事を私はかなりのリアリティをもって読み、怒りや悲しみ、悔しさでいっぱいになった。ツイッターにおけるトランス排除・差別の言説を見ていた私にとって、起こってはならないことがとうとう起こってしまった、というのが実感だった。そして、今後もこのようなことが起こってしまうかもしれないという切迫した状況を、彼女の死は予示しているように思えた。

 自殺というものはもちろん、複合的な要因が絡まって生じる最悪の事態であり、「これが原因だ」と簡単に断言できるものではないだろう。だが、他者からの心ない発言が自殺の最後の「引き金」になってしまうことは往々にしてある。言葉はときに人を実際に死に至らしめるのだ、ということは強調してもしすぎることはない。この意味で、トランス排除的言説はトランスジェンダーの自尊感情をじわじわと蝕み、最悪の場合には彼女のように生存を奪いかねない言説なのである。

想像的逆転

 このようなトランス排除的言説の惨状について、アメリカ合衆国出身で現在日本に暮らしている友人に説明していたときのことである。私は彼女に、ツイッター上でトランス女性があたかも「性犯罪者予備軍」であるかのようにみなされ、危険視されている現状について語った。すると、彼女は私にこう言った、「それって逆じゃない? トランスジェンダーの人の方がこの社会で危険な目にあったり、生きづらい思いをしているのに、どうしてトランスの人の方が危険視されるの?」と。そうなのだ。この社会はトランスジェンダーにとって生きやすい社会だとはお世辞にも言えない。公共スペースの利用や就労の困難など、トランスジェンダーには多くの「普通の人」に保障されている権利が奪われているのが現状である。それなのに、なぜ、この社会で不安定(プレカリアス)(ブレカリアス)で傷つきやすい(ヴァルネラブル)状況を生きているトランスジェンダーの人たち(とりわけトランス女性)が「犯罪者」扱いされ、あたかも「暴力を行う側の人間」として表象されているのか。

 このような逆転現象を「想像的逆転(imaginary inversion)」と呼ぶことができる。「想像的逆転」とは、社会のなかでより脆弱な(ヴァルネラブル)立場に置かれている者がむしろ加害者側の人間として表象される逆転のメカニズムを指す。この「想像的逆転」はなにもトランス排除に限った話ではない。例えば、ジュディス・バトラーは論文「危険にさらされている/危険にさらす」で、この「想像的逆転」のメカニズムについてロドニー・キング事件を例に考察している[4]。

 ロドニー・キング事件とはロサンジェルス暴動(あるいは蜂起)のきっかけになった事件である。1991年、黒人のロドニー・キングは自動車のスピード違反で白人の警官たちに呼び止められ、激しい暴行を受けた。その暴行の様子は通行人によって撮影され、裁判でも証拠として扱われた。この事件において重要なのはその裁判過程である。問題の映像を見れば分かるが(この映像は映画『マルコムX』の冒頭で見ることができる)、キングはうずくまって、白人の警官たちに四方を囲まれてリンチされている(ように見える)。しかし驚くべきことに、バトラーも述べているように、「多くの人が議論の余地なく警官に対して不利な証拠とみたものが、シーミ・ヴァレーの法廷では反対に、〔……〕ロドニー・キングが警官を危険にさらしていたのだという主張を裏づけるために提示された」[5]のである。裁判では、キングの「黒い身体」は「いまにも暴力をふるいそうな身体」として知覚され、したがって白人警官たちの暴力はそれに対する「正当防衛」と解釈され、彼らは無罪放免になってしまったのだ[6]。キングに対する暴行の証拠として読まれると思われた件の映像は、奇妙な逆転(inversion)を経て、むしろ白人警官たちの暴力を「正当防衛」として解釈する証拠として読まれたのである。

 ここで、もう一人のキングの事件について触れたい。それは、アメリカ合衆国のカリフォルニア州で実際に起こった事件である。当時15歳だった黒人のトランス女性のラティーシャ・キングは2008年2月12日の朝、同級生のブランドン・マキナニーに教室で射殺された。この事件及びその裁判過程について、ゲイル・サラモンは『ラティーシャ・キングの生と死――トランスフォビアの批判的現象学』[7]で考察している。そこで彼女が着目しているのは、その裁判過程において、ラティーシャの化粧やハイヒールといったジェンダー表現が「攻撃的行為」として解釈され、ブランドンによる射殺はそれによって引き起こされた「パニック」に対する一種の「防衛行為」であると解釈された点である。ラティーシャはある朝、突然、同級生に射殺されたのである。しかし裁判では、先に「攻撃」を仕掛けたのはラティーシャだとみなされたのだ。ここには明白に、先に「想像的逆転」と呼んだメカニズムが働いていると言えるだろう。このように、「想像的逆転」とは、より傷つきやすい社会的状況に曝されているマイノリティが奇妙な逆転を経て、むしろ加害者側の人間として表象されるメカニズムである。

 私がここで提起したいのは、現在ツイッターを中心に行われているトランス排除的言説にも同様の「想像的逆転」のメカニズムが認められるのではないか、ということである。それらの言説においては、トランスジェンダー(とりわけトランス女性)はたとえ何もしていなくても潜在的に「性犯罪」を行う(あるいは、それを誘引する)可能性のある「危険な集団」とみなされている。権力との関係においても数的にもマイノリティであり、不安定で傷つきやすい立場に置かれているトランスジェンダーの人たちが、奇妙な逆転を経て、「暴力を行う側の主体」として表象されているのだ。そして、だからこそ、トランス排除的言説はそのような(架空の)「暴力」に対する「防衛」として自らの発言を正当化することが可能になる。そこでは、自らの発言内容は「防衛行為」として正当化され、その発言が孕む差別や暴力性は等閑に付されるのである。私が懸念しているのは、今後、在日朝鮮人に対するヘイトスピーチやヘイトクライムのように、トランスジェンダーの人たちに対する暴力がネット空間の外で実際に行われるのではないかという可能性である。なぜなら、トランス排除的言説の論理に従えば、「先に攻撃を仕掛けた」「危険な存在」はトランスジェンダーの人たちの方であり、したがってトランスに対する暴力は「防衛行為」として正当化されかねないからである。あるいは少なくとも現状においてさえ、トランスジェンダーをじわじわと自殺に追い込むような規範的暴力として、それらの言説は機能しているだろう。

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