
ダンスミュージックはLGBTコミュニティから発祥したという事実が忘れられてはいないだろうか?今回のロング特集では、Luis-Manuel Garciaがクラブ文化のルーツである性的マイノリティの歴史を紐解く。
その同じ週、Promote Diversityイベントは他にもミュンヘン(Harry Klein)、パリ(Rex Club)、ニューヨーク(Output/The Panther Room)、テルアビブ(The Block)、サンフランシスコ(Holy Cow/Honey Soundsystem)、そしてチューリッヒ(Heaven Club)でも開催された。チケットの売上は、世界各地でアクティブに活動を続けるLGBT権利団体、All Outに寄付された。これは、最近ロシアで可決された「同性愛プロパガンダ禁止法」への反動であった。この法案は、“非伝統的な性関係”を示唆するような言動を公共の場で行うことを犯罪行為としている。しかし、なぜ世界中のナイトクラブ・コミュニティが性的少数者を支援するような活動を行うのだろうか?今日のクラブカルチャーは、彼らといったいどんな関連性にあるのだろうか?
Promote Diversityのプレスリリースには、「クラブ・シーン、音楽シーンには昔から、あらゆる人々を対等に扱うべき、人に対して寛大であるべき、という信念がありました」と書かれていた。それはなぜだろうか?おそらく、今日のダンスミュージック・ジャンル——ディスコ、ガラージ、ハウスなど——を産んだ音楽シーンにはどれも昔から、ゲイやレズビアン、トランスジェンダー、人種や民族的マイノリティといった社会の端に追いやられた人々が深く関わっていたからであろう。
すると、さきほど投げかけた質問を逆にしたほうが良さそうだ。もしエレクトロニック・ミュージックのルーツが性的に多様だったのだとしたら、なぜ昨今のオーディエンスはその事実を認識していないのだろうか?70年代、80年代のクィア(=性的少数者)文化を忘れてしまったのだろうか?ロサンゼルスのA Club Called Rhondaの創始者の1人であり、レジデントでもあるLoren Granic、別名Goddollarsは、それこそが問題だと話してくれた。
「今アメリカではダンスミュージックがどんどんとメインストリーム化している」と、彼は言う。「そして新参者の多くは、LGBTコミュニティとは何の関係も無いストレートの白人キッズで、今ではこういった人達が何百人も集まって、シカゴの倉庫で朝5時まで踊り明かす汗だくのゲイの黒人たちが作り出した音楽に合わせて、拳を振り上げている。こういった変化を、何も解ってない偽物達による汚染だと言って無視することも簡単だが、こういったニューカマーの多くは、きっと今後もずっとこのシーンの1員だろう。だからこそ、ゲイ・コミュニティが過去にいったいどういう役割を果たしたのか、そしてダンスミュージックの黎明期から深くDNAとして刻まれてきた、平等性や多様性を大事にする心を新しいファン達にも伝えて行くことが、今とても大事だと感じているんだ」

Loren Granic, Gregory Alexander of A Club Called Rhonda
「昔、ダンスミュージック文化の発展の中心に居たセクシャル・マイノリティは、どこに行ってしまったんだろう?今、クラブを運営してる人達、レーベルを運営してる人達、アーティストのブッキングをしてる人達、レコードをかけている人達は、昔と随分変わってしまった。ゲイ・コミュニティから発祥したこの音楽を現在牛耳ってる人々は、不思議なことに、ほぼストレートな男性ばかりだ。もっと、プロモーター、アーティスト、プロデューサー、クラブ・オーナー達が、自分たちが利用して儲けているこの文化を築いた人々を受け入れる姿勢を見せてくれたら嬉しいね」
されど、例えメインストリーム・ダンス・メディアからほぼ無視されて居るとはいえ、クィア・ダンスミュージック・シーンは今も健在だ。なぜこんなことになってしまったのだろうか?その理由の1つに、現在のクラブ文化の規模が挙げられるかもしれない。音楽シーンが小さく、ローカルで、パーソナルであれば、マイノリティの人々が中心になっていてもおかしく無い。ところが、一旦世界を席巻する社会現象となってしまえば、社会のはぐれ者が目立つことは途端に難しくなる。そしてもう1つの理由に挙げられるのは、“歴史は勝者によって書かれる”ということだ。ダンスミュージックがより主流になり、ジャンルを超えて成功するアーティストが出て来ると、歴史を記録する人々は目立つ動きばかりを追うようになり、主に中流階級の異性愛者の白人を取り巻く環境へと視線が集まって行き、昔からダンスを続け、音楽を作り続けていたクィアの人々のカラフルなシーンは、どんどんと忘れ去られてしまったのではないだろうか。
明らかなのは、歴史は1つではなく、複数存在するということだ。何が起きたのかという謎に関して、色々な人々が、色々な視点から辿っており、 本や記事、インターネットなどで情報が手に入り易くなった今、現在掲げられている“公式”のダンスミュージック史とは異なったオルタナティブ歴史がどんどんと浮上している。社会に忘れられた人々の歴史を紐解こうとするならば、主に強者が、強者について、強者のために綴った歴史書のアーカイブを探り、そのとき弱者が何をしていたのか、残された形跡から読み取っていかなくてはならない。この特集の目的は、歴史を“ストレートにする(正す)”ことではなく、あくまでクラブカルチャーのルーツであるクィア文化を見直し、アンダーグラウンド・クィア・シーンの失われたストーリーを掘り起こすことだ。

ニューヨーク・ディスコとガラージ /
1970年代初頭、ニューヨークでは非白人のクィア(主にアフリカン・アメリカンとラテン・カリビアン)や、異性愛者だが心の広い人々が集まり、過酷な大都会の日常から逃避できる小さな空間を形成していた。こういった空間で彼らは安全に、自分らしく、あるいはいつもの自分とは違う自分でいることができ、“普通”の世界では認められない形で人との交遊を楽しむことができた。音楽はこういった集いに必要不可欠な存在であり、ここで好まれた四つ打ちリズムのドラムパターンを用いたソウル、ファンク、ラテン音楽が、そのうちディスコと呼ばれるようになる音楽スタイルへと発展していった。ディスコという名前は、ライブ・パフォーマンスではなく、録音された音楽をかけるナイトクラブを意味する、フランス語の「discotheque」からきている。
しかし、ディスコの発祥は「discotheque」ではない。大抵のディスコ史は、David Mancusoがマンハッタンのローワーイーストサイドにあった自身のアパートにて開催していたプライベートパーティー、The Loftを起源としている。このパーティーでは、MancusoがDJ、プロモーター、そしてMCを1人で行い、様々な性的指向、性表現、民族性や社会階層の人々が集まった。Mancusoのパーティーの噂が広まると、Nicky SianoのThe Galleryなど、ローワーやミッドタウン・マンハッタンにこの新しいサウンドに特化したクラブがオープンし始めた。1973年には、音楽ジャーナリストVince AlettiがRolling Stone誌でディスコに関する初の記事(『Discotheque Rock '72: Paaaaarty!』)を執筆するほど、ディスコ文化は注目を集めていた。記事の中で彼はローカル・ディスコ・シーンを「ジュースバーや深夜営業のクラブ、会員制のプライベート・ロフト」などで催されるアンダーグラウンド・パーティーだと説明し、客は主に「黒人あるいはラテン系でゲイの、ハードコアなダンスファン」だと描写していた。
70年代の後半になる頃には、ディスコ・ミュージックは大流行しており、主要なクラブへとその影響は拡大し、全国、そして海外のラジオ局でかかるようになり、中流階級の異性愛者の白人層のオーディエンスが増えていた。この頃、数多くのディスコ専用クラブが次々にオープンしており、ニューヨークのStudio 54(1977年)、Paradise Garage(1976年)、サンフランシスコのEndUp(1973年)、Trocadero Transfer(1977年)などが人気を博した。そしてこの時期に、Donna Summer、Chic、The Bee Gees、KC And The Sunshine Bandなど、たくさんのディスコ・スター達が続々と誕生していた。

ディスコ音楽のレコードが音楽市場を独占するようになると、ディスコ文化そのものがどんどんとクィア、ブラック、ラテンといったルーツから離れ去っていった。しかし、こういったルーツは忘れられた訳ではなかった。70年代の終わり、ディスコ・マーケットが迷走を始め、アンチ・ディスコ運動がアメリカ全土に拡大するほど勢力を増した頃、ディスコを批判する者達は突然思い出したかのように、ディスコの起源が性的、そして人種的マイノリティのコミュニティにあったことを指摘し、罵倒した。反ディスコ運動のスローガン、「Disco Sucks」——これをプリントしたTシャツ、ステッカー、バッジなどが当時販売された——というフレーズは、ただ“ディスコはダサい”と、ディスコ文化とそのファンを貶しているだけではなく、フェラチオを連想させる言葉を用いることで、暗にホモセクシュアリティを攻撃する言葉でもある。(註:「suck」という単語は“ダサい”という意味以外に、“吸う”という意味でもあるため、“フェラチオをする”という意味で使うこともできる)

しかし、ディスコの低迷は何もこの一晩で引き起こされたわけではない。それ以前から売り上げは徐々に右肩下がりになっており、80年代には更に下降していった。アメリカ国外では、ディスコ人気は比較的存続したが、’80sダンスポップ、ニューウェイヴ、インダストリアル・ミュージックといったジャンルと接合していった。それでも、急激に訪れた変化もあった。メジャーレーベルのほとんどがディスコ部門を廃止し、たいした通知も無しに従業員を解雇し、アーティストとの契約を破棄した。ディスコの崩壊により、特に大打撃をくらったのはナイトクラブであったが、どうにか店を畳まずに済んだ店舗は、ポスト・ディスコ時代の“アンダーグラウンド”シーンの重要スポットとなった。
ニューヨークで生き残ったクラブの中でも、最も有名なのはParadise Garageだろう。当クラブは主にクィア、黒人、ラテン/カリビアンの人々をターゲットに運営され、レジデントDJのLarry Levanには多くのファンがつき、彼がかけていた音楽はのちに“ガラージ”と呼ばれるようになった。ガラージはハウス・ミュージックの前身とも、分身とも、サブジャンルとも言われており、質問する相手(そして訊き方)によって、返って来る答えは違う。ハウス・ミュージックよりも遅いテンポの曲が多いガラージは、ディスコ、R&B、ソウル、ファンクといったサウンドのミックスであり、ゴスペル調のヴォーカルが特徴的であった。こうして、ポスト・ディスコ文化はParadise Garage、The Saint、Zanzibarといったクラブで80年代を生き延び、90年代には、Sound FactoryやTwiloといったクラブで息を続けていた。
シカゴ・ハウス /
大抵のシカゴ・ハウス史は、Frankie Knucklesを開祖に挙げている。Knucklesはニューヨーク出身のディスコDJであり、ダウンタウン・マンハッタンのゲイ専用浴場、Continental Bathsで、Larry Levanと共にDJをしていた。ある時、LevanはシカゴのプロモーターRobert Williamsに、シカゴで新しくオープンするナイトクラブのレジデントDJの仕事をオファーされたが、Paradise Garageでのレジデントがあったために断り、代わりにKnucklesを推薦した。ニューヨークからシカゴへと移ったKnucklesは、こうして1977年のオープンと共に、黒人/ラテン系のゲイ男性がターゲッチのクラブThe WarehouseのレジデントDJの座についた。The Warehouseが1982年に入場料を倍にし、どんどんと商業的なクラブになっていくと、KnucklesはThe Warehouseを辞め、自身のクラブThe Power Plantをオープンした。それに対抗するため、The Warehouseは名前をThe Music Boxに変え、DJ Ron Hardyを新しいレジデントに迎えた。



その後、Knuckles、Hardyそしてその他多数のシカゴのプロデューサーやDJ達の手によって、シカゴ・ハウスが産声を上げる。ハウスのサウンドは、シカゴの黒人/ゲイ・クラブにて古いディスコ曲やイタロ・ディスコ、ファンク、ヒップホップ、そしてヨーロッパのエレクトロ・ポップなどが融合され、発展していった。 ゴスペル/ソウルの影響が強いNYガラージと比べると、シカゴ・ハウスはファンクの影響が色濃く、躍動的なパーカッションと早めのテンポからなるエネルギッシュな“ジャッキング”サウンドが特徴的だ。80年代後半になると、DJやプロデューサー達がシンセサイザーのRoland TR-303特有のオーパードライブした、グニャリとした音で試行錯誤を繰り返すようになり、ハウス・ミュージックはよりハードでダークな方向性へと進んで行った。この荒々しく、サイケデリックなサブスタイルは、“アシッド・ハウス”と呼ばれるようになり、80年代の終わりに盛んになった、UKのアシッド・ハウス・シーンのサウンドを定義づけた。
ハウスやアシッド・ハウスがUKで人気を博した事は、レコードの売り上げだけでなくギグという恩恵をシカゴのDJ達にもたらした。当時のアメリカの音楽市場には無視され続けていたが、彼らは頻繁にヨーロッパへと招聘されるようになり、主にストレートの白人客の前でプレイすることが増えて行った。つまり、1979年にシカゴのDisco Demolition Nightで死んだとされたディスコは、本当は死んでなどいなく、ルーツであるクィア・ダンス・シーンへと一旦戻り、無駄を省いた、生々しい、ジャッキングなサウンドのハウス・ミュージックとして返り咲いたのだ。
デトロイト・テクノ /
デトロイト・テクノの起源に関する記述には、性的指向の多様性に言及している部分が少ない。このシーンの発祥には人種がより大きな役割を果たしたとされており、テクノの“公式”な歴史にはセクシュアリティやジェンダーといったキーワードは頻出しない。Simon Reynold著作の『Energy Flash』や、Dan Sickoによる『Techno Rebels』といった本を参照すると、淫欲に溺れ、だらしなく、薬物を多用する労働者階級のゲイが主であったシカゴのシーンの人々に比べ、デトロイトの人々は性的に控えめで、しらふで、“真面目”な中流階級のストレートだったと描写されている。こういった表現がされる理由としては、1980年代のデトロイトの黒人人口における中流階級の多さ——当時興隆していた自動車産業の産物——が挙げられる。そしてこの時期、排他的な“ソーシャル・クラブ”と呼ばれる団体が複数結成されており、それぞれのグループがダンス・パーティーをオーガナイズし、競い合っていた。このシーンで頭角を表したのが、ベルヴィルという郊外の町で育った高校時代の同級生3人組、“Belleville Three”こと、Derrick May、 Juan Atkins、そしてKevin Saundersonだった。ヨーロッパのシンセ・ポップ、エレクトロニック・ロック、エレクトロ・ファンク、そしてフューチャーイズムといったものに強く影響を受けた彼らは、未来的なダンスミュージックを作り出した。彼らの音楽はエレクトロニック・ファンクの影響が色濃く、ハウスで多用されたゴスペル/ソウルのヴォーカル・サンプルよりもシンセサイザーの音に傾倒した。
されど、本当にデトロイトは異性愛者がメインのシーンであったのだろうか?「シカゴと比べたら、そういう結論になるのも理解はできる」と、デトロイト拠点の学者、ライター、そして音楽史研究家のCarleton Gholzは言う。「だが、決して真実ではない」。今後発売予定の彼の著書、『Out Come The Freaks: Electronic Dance Music And The Making Of Detroit After Motown』の中で彼は、ポストMotown時代のデトロイトの音楽風景の発展に、セクシュアリティは重要な役割を果たした、と書いている。そして彼は歴史をMay、Atkins、Saundersonの3人で始めずに、1971年ごろからデトロイトでディスコを流していたDJ、Morris Mitchellのストーリーを紐解く所から始めている。MitchellはKen CollierとRenaldo Whiteと共に、True Disco Productionというパーティー・クルーを結成し、ディスコ・パーティーを主催した。ビートニク時代にカフェとしてオープンし、その後、週末にオールナイトのゲイ・クラブとして運営されるようになったChessmateにて、彼らは何年もパーティーを開催した。

この世代の黒人/ゲイのDJ達は、ニューヨークやシカゴといった場所で学んだDJテクニック、そしてサウンドをデトロイトに持ち帰った。70年代、デトロイトのダンス・シーンは性的指向、そして人種で棲み分けられていた。Ken CollierがよくスピンしていたDownstairs Pubは、高級ディスコ・クラブL'Espritの地下にあったが、Vince Alettiのコラム『Disco Files』で公開されたセットリストは、大抵上の階の白人DJのものばかりであった。Collierはその後、90年代の半ばに亡くなってしまうまで、ゲイ向け深夜クラブHeavenで土曜の夜のレジデントを務めた。Gholzによると、デトロイトの“テクノ・パイオニア”とされる人達はCollierのことをデトロイトのDJ文化の祖として尊敬していたが、歴史の書(『Energy Flash』や『Techno Rebels』)には彼に関する記述が少ない。
それでも、この世代の、主にゲイ・ディスコで回していたディスコ/ポスト・ディスコDJ達は、ニューヨークとシカゴの新しいサウンドをこの街にもたらし、デトロイト・テクノの発展に大きく貢献したのは間違いない。「Derrick MayやEddie Flashin' Fowlkesがハウス・シーンを見にシカゴへ行くってなった時、彼らが乗った車にはChessmateに行っていた先輩DJ達も居たんだ。ゲイ・ディスコ・コミュニティの人々だ」と、Gholzは語った。
80年代が到来し、デトロイトのクィアやストレートのシーンの境界線が曖昧になってくると、HeavenやToddといった主要クィア・クラブでは、様々な世代のミュージシャンの交流が盛んになった。デトロイトのテクノ・レジェンドの多くも、こういったヴェニューに通い(多くの場合内緒で潜り込み)、上の世代のゲイ/黒人DJ達が、ディスコと当時の新しいハウスやガラージといったサウンドをミックスしているのを聴いていた。しかしこういった出来事はデトロイト・テクノの歴史から完全に無視されていることが多い。Gholzが言うには、こういったクラブや、その中で形成されていた人間関係の記録はほぼ残っていない。そう、このストーリーの証言は全てGholzが直接、人から聞いた話を基に組み立てられており、本などに載っている情報はほぼ無いのだ。

デトロイトのLGBTQの歴史は、80年代で止まっている訳ではない。この上の世代のゲイDJ達の多くは、2000年代初期ぐらいまでローカル・パーティーなどで回していた。が、彼らの多くは現時点でもう引退しているか、亡くなってしまっている。現在では、若い世代の非白人でクィアのダンサー、プロデューサー、DJ、イベント・プロモーター、レーベル・マネージャー、そしてクラブ・スタッフがシーンを支えている。中でも目覚ましい活動をしているのは、Curtis LipscombとAdriel Thortonだ。Lipscombは1994年から発刊を続ける雑誌から派生した団体、Kicksを運営しており、デトロイトのLGBTコミュニティのためにプログラムやイベントを企画している。そして、「アフリカン・アメリカンのレズビアン、ゲイ、バイ、トランスジェンダーを祝福するアメリカの3番目に古いフェスティバル」と言われるHotter Than Julyの発起にも、Lipscombは関わっていた。Thortonはエレクトロニック・ミュージックと、ゲイ・カルチャーの両シーンのプロモーターとして活動しており、Fresh Media Groupを立ち上げ、Detroit’s Allied Media Projectsと共に地域活動を行っている。
アシッド・ハウスとレイヴ /
アメリカと違い、70年代のUKのシーンは、労働者階級の白人異性愛者が大きな割合を占めており、この環境にアシッド・ハウスが根付き、全国(そしてのちに世界)を巻き込む社会現象となる。1985年頃から、マンチェスターのノーザーン・ソウル系のイベントや、ウェアハウス・パーティーなどでシカゴ・ハウスがかかるようになり、ロンドンではアシッド・ハウス・ブームに火が付いた。そして、ロンドンのゲイ・ナイトクラブ、Heavenで初めてアシッド・ハウス・イベントが行われた。1987年、Paul OakenfoldとNicky Hollowayらとイビサで休暇を過ごした後、戻って来たDanny Ramplingは、初のアシッド・ハウス専門クラブShoomをオープンした。その1年後、今度はHollowayがTripというアシッド・ハウス・クラブをオープンした。
これらのクラブはゲイ向けに運営されていた訳ではないが、どちらもゲイに対してオープン、あるいはゲイ・フレンドリーを公言し、歓迎していた。Sarah Thorntonの著書、『Club Cultures: Music, Media, and Subcultural Capital』によると、1988年から1992年ごろが、クラブ・シーンでのゲイとストレートの隔離が1番激しかった時期だと言う。この頃はエイズ恐慌がピークに達しており、保守的な議会が反同性愛的な法案を可決した時期とも重なる(“セクション28”こと、地方自治法28条。2013年のロシアの法案と非常に似ていた)。

ShoomとTripは人気クラブとなり、目立ちすぎてしまい、すぐにロンドンの当局に目を付けられた。すると、警察からの圧力を避けるため、プロモーター達は目につきにくい倉庫や、人里離れた野外でアンダーグラウンドなパーティーをオーガナイズするようになった。この状況を背景に、1988年ごろ、UKのレイヴ・シーンが爆発的にポピュラーになり、「セカンド・サマー・オブ・ラブ」と呼ばれたムーヴメントが発生した。この動きは世界へと広まり、各地でレイヴ・パーティーが開催されるようになった。初代「サマー・オブ・ラブ」がそうであったように、このレイヴ・カルチャーには“愛”、“自由”といったキーワードが信念として存在していたが、伝統的な性役割や、セクシュアリティに関しては触れられていないことが多かった。ルーツにはゲイ、ブラック、ラティーノの文化がありつつも、80年代のUKのレイヴ・シーンはストレートの中流階級〜労働者階級の白人が中心となっていた。
90年代の初頭、ニューヨーク(Storm Rave)やトロント(Exodus)などでもレイヴ・パーティーが開催されるようになった。シカゴ・ハウスはヨーロッパで人気だったため、シカゴの第一世代のハウスDJ達は海外のギグで忙しかったが、下の若い世代のDJ達がシカゴの灯を絶やす事無く、アメリカの中西部のレイヴ・シーンを盛り上げた。
しかし、UKのアシッド・ハウスが北アメリカへと伝わると、UKのシーンの人種の偏りも伝染した。エレクトロニック・ダンスミュージックが世界を席巻する現象となった頃、レイヴには郊外に住む、若い、中流階級のストレートの白人が多く来るようになっていた。Mireille Silcottの『Rave America』という本の中で、シカゴのレイヴ・シーンの重要人物、Tommie Sunshineはこう語っている。「私がハウスについて知ったのは——おそらくシカゴの大抵の白人キッズが同じだったと思うが——イギリスのMelody Maker誌やNME誌で、シカゴについて書かれた記事を読んでから、だったんだ」
シカゴの白人の異性愛者のレイヴァー達が、自分たちの地元のクィア/黒人の音楽文化のことを、大西洋の反対側で出版された雑誌を読んで始めて知る、というのは非常に皮肉な事だ。だが同時にそれは、驚くほどの事でもない。シカゴでは人種間の隔離が何十年も前から続いており、音楽シーンも未だに分離されている。とはいえ、シカゴ・ハウス時代や90年代のレイヴ時代のシカゴには、いくつかシーンが重なるスポットがあった。例えば、毎週末のBoom Boom Roomパーティーや、全年齢対象クラブMedusa'sなど。最近では、シカゴの最長寿ダンスミュージック・クラブ、Smart Barでゲイ・パーティー(Queen!)や、名曲オンパレードのヴァイナル・オンリー・イベント(Hugo Ball)などが開催されており、どちらにも世代、性的指向、人種などの隔たりなく、多種多様な人々が集まる。


クィア・アンダーグラウンド /
この、ディスコとポスト・ディスコ初期の歴史の改訂版は、まだまだ表面的なことにしか触れておらず、しかもエレクトロニック・ミュージックの歴史に大抵含まれる様々なシーンやジャンルを省いてしまっている。しかし同時に、通常の歴史には含まれないものの、伝えるべきストーリーもある。こういった、“公式”とされるダンスミュージック史から除外される社会のはみ出し者のストーリーを読み取るには、定説にすんなり当て嵌まらない歴史の破片を集め、隠された歴史を暴いていかなくてはならない。
ドラァグ・ボール /
こういったストーリーの1つにボールルーム(訳:舞踏場)カルチャーというものがある。そして、音楽、ダンス、パフォーマンス・アート、ファッション、そして自己改革といった要素に溢れたこのカルチャーの中心にあったのが、ドラァグ・ボール(訳:女装舞踏会)だ。これは、昔から社会の端に追いやられて来た、トランスジェンダーのコミュニティに根ざしたミスコン、ファッションショー、ダンス大会などを含むイベントの総称である。広義でのボール文化を遡ってみると、1930年のハーレム・ルネッサンス時代まで辿ることが可能だ。この時代の仮装舞踏会は、男装や女装、あるいは同性のペア・ダンスなどを禁止していたニューヨークの法律をかいくぐるチャンスを1部の人々に与えていた。1970年代に突入すると、このドラァグ・ボールのシーンの人々は、“ハウス”と呼ばれるファミリーを結成するようになり、集団で大会への参加、資源の共有、ルーティーンの練習などを行い、同じ家に住む人々も多かった。このシーンが最初に公になったのは1990年代初頭であり、その理由は3つ挙げることができる:Jennie Livingstonによる、ニューヨークのボールルーム・シーンを捉えた鋭いドキュメンタリー映画『Paris Is Burning』が公開されたこと。ジェンダー学者、Judith Butlerがこのドキュメンタリーや、その他ドラァグ・イベントを分析し、彼女のジェンダー・パフォーマティビティ論の研究の一環として発表したこと。そして、ボールルーム・カルチャーを象徴するダンススタイル、“ヴォーギング”から名前をとった、Madonnaのダンス・シングル「Vogue」がヒットしたことだ。

ドラァグ・ボールは、ポスト・ディスコ時代を保存した、生きたアーカイブであり、新しい音楽スタイルやダンスが生まれるるつぼでもあった。そしてここで生まれたものはナイトクラブ・シーンを超え、ダンス・カルチャーの様々な面に影響を与えて来た。今時のR&Bやポップ・ミュージックのミュージック・ビデオで目にするたいていの——もしかしたらほぼ全ての——ダンス・ムーブは、ボールルーム文化に関わっていたダンサーの振り付けから来る。90年代には、ボールルーム・シーン固有のエネルギッシュなハウス・サウンドも出来上がり、Tronco Traxxの"Walk For Me"、Kevin Avianceの"Cunty"、E.G. Fullaloveの"Didn't I Know (Divas To The Dancefloor...Please)"、そしてMasters At Workのクラシック、"The Ha Dance"といった楽曲が定番になった。同曲の人気は特に凄まじく、この曲が元になった「ha tracks」というヴォーギング用のジャンルも生まれたほどだ。
ドラァグ・ボールは昔から有色人種のクィアの人々の独壇場であったが、白人のストレートやシスジェンダー(註:身体的性別と自分の性自認が一致し、それに従って生きる人のこと)の人々も少数ながら参加していた。こういったシーンは、トランスジェンダーの人々に一種の社会的地位や文化的権威を与えた。彼らはただパフォーマーや伝統の継承者として重要な役割を果たすだけでなく、これらのシーンの中で権力者としての地位につくことができたのだ。そして、ドラァグ・ボールは、社会不適合者のレッテルを貼られ続けてきた彼らが、唯一承認される場でもあった。通常のミスコン同様、ボールルームでのミスコンで授与されるトロフィーやティアラといった賞品は、クィアの人々が日常的に絶え続けている拒絶や屈辱へのレスポンスの象徴なのだと理解することができる。

サーキット・パーティー /
サーキット・パーティーはドラァグ・ボールとはほぼ正反対に位置する。ドラァグ・ボールは古い宴会場などで開催される、コミュニティ団体主催の小規模なイベントであり、訪れる人々は主に貧乏で、人並みの権利を与えられていない、有色人種のクィアなのに比べ、サーキット・パーティーは大規模な、企業スポンサー付きのメガ・イベントであり、裕福な白人のゲイ男性が主な参加客である。これは、ファイアー・アイランド、プロビンスタウンなどといったアメリカの東海岸のゲイ・リゾート地で開催されたティー・ダンスやシーズン・イベントから派生したものであり、1969年の「ストーンウォールの反乱」がニューヨークで起きて以来、セクシュアリティが公民権問題としてアメリカで議論されるようになってから盛んになった。1980年代を通して、こういったパーティーは、ゲイ観光スポットや主要都市(モントリオール、ニューヨーク、マイアミ、ニューオーリンズ、サンフランシスコ、トロント)などでオールナイトの巨大ダンスミュージック・イベントとして開催されるようになった。サーキット・パーティーでかかるサウンドは、元々hi-NRGや初期ハウスであったが、90年代に突入すると、ハードハウス、トライバル・ハウス、トランスといったサウンドが主流になっていった。
サーキット・パーティーを“ゲイのレイヴ”だと表現する記述もあるが(例えば、Mireille Silcottの『Rave America』の最終章)、その表現は正解でも間違いでもある。たしかに、レイヴとサーキット・パーティーには共通点がいくつかあり、オールナイト・イベントであること、サンプル主体の音楽にフォーカスしていること、エクスタシーのようなクラブ・ドラッグが氾濫したこと、そしてぼったくりの価格でエナジードリンクが売られていたこと、などが例に挙げられる。一方で、サーキット・パーティーはレイヴと違い特定のセクシャル・アイデンティティに焦点を絞っており、イベントはとても商業的だ。当初からサーキット・パーティーは大規模で、利益の大きい商業イベントとして開催されており、プロのチーム(主に白人のゲイ男性)が企画を行い、企業のスポンサーがついていた——アルコール飲料メーカーやタバコ会社が主だが、コンドームやゲイ・ポルノ、大人の玩具メーカーなども頻繁にスポンサーになっていた。

多くのクィアの人々にとって、これらサーキット・パーティーは“メジャーな白人ゲイ男性文化”を象徴するものとなり、このシーンの規模と可視性により、“一般的”なゲイ・アイデンティティを形成していったが、このイメージはその他多くのアイデンティティを除外していた。しかし商業性の高いシーンではあるものの、有名なサーキット・パーティーの多くは、チケットの売上の一部をHIV/エイズの研究や治療、性の健康支援、そしてその他のLGBTQ関連の活動を行うチャリティ団体に寄付してきた。こういう意味では、サーキット・パーティーはドラァグ・ボールとの共通点もある。どちらも、コミュニティ形成、性教育、そして政治的活動といった分野で重要な役割を果たしており、特にHIV/エイズ恐慌が始まった頃、アメリカ政府が悲惨なほどに態勢が整っていないとも、意図的に無視しているようにも見えた時に、こういったシーンが人々を支えたのだ。
ミッドタウン・マンハッタンのディープ・ハウス /
2009年、Terre Thaemlitzが『Midtown 120 Blues』というアルバムをDJ Sprinkles名義でリリースした。このアルバムタイトルには、少なくとも3つの意味が込められている。1つは、ミッドタウン・マンハッタンの42丁目沿いの風俗街。ここは、性的少数者、特にトランスジェンダーやセックス・ワーカーが集まることで知られている。そして2つ目は、120BPM。90年代のニューヨークの、比較的遅いテンポのディープ・ハウス・サウンドを表している。そして3つ目がブルース。多幸感よりもメランコリーで日常の苦悩を乗り越えようとするアメリカ黒人の伝統音楽だ。90年代前半、Thaemlitzはミッドタウン大通り沿いのトランスジェンダー・クラブ、Sally’s IIで数年間DJとして働いていた。この地域で頻繁に行われていた売春行為は、他のクィア・シーンの人々からも非難されていたため、この大通り近辺のクラブはクィア社会の中でも異端であった。「私が知ってる限りは、Sally's IIとEdelweissというクラブが、この辺りの2大トランスジェンダー売春クラブだった」と、Thaemlitzは語る。「イースト・ヴィレッジやウェスト・ヴィレッジのクラブのパフォーマー達は、自分たちのことを“アーティスト”だと思っていた。Deee-LiteやRuPaulが脚光を浴びた場所でもある、イースト・ヴィレッジのThe Pyramid Clubのステージ・クイーンが、ミッドタウンの人達を“売女”だと罵っていたのを何回も聞いた事があるね」
Thaemlitzはマルチジャンルの作曲家/プロデューサー、エッセイスト、トランスジェンダー、活動家、教育者であり、ミズーリ州で育った後、80年代後半から90年代前半までニューヨークで暮らしたが、マンハッタンの高級化が進み、アンダーグラウンドなクィア・ミュージック・シーンが無くなって行ったことに嫌気が差し、東京に引っ越した。ミズーリに住んでいた頃、彼女はディスコや“テクノ・ポップ”にハマったが、周りの友人はギター主体のロックを聴いている人が多く、彼女は疎外感を抱いた。80年代の後半にさしかかるころ、彼は地元の人々の暴力的なホモフォビア(註:同性愛者に対する恐怖や嫌悪)や、トランスフォビア(註:性同一性障害者やトランスジェンダーに対する恐怖や嫌悪)に絶えられなくなり、ニューヨークへ渡ったが、同市のテクノ・クラブは「圧制的なストレートの白人」男性ばかりであったと、彼は感じた。「ニューヨークのテクノ・シーンと比べると」と、Thaemlitzが言う。「ハウスのシーンはディスコ寄りで、性的指向、人種、性別の多様性があった。常に平和だったとは言いがたいが、すくなくともオープンだった。80年代の終わりにニューヨークやニュージャージーから出て来たディープ・ハウスは、私が昔から好きだったディスコとテクノ・ポップの中間のような存在だったから共感できた」。彼女はDJを始め、ミックステープを作るようになった他、80年代のエイズ論争で活躍していた、ACT-UPといった活動団体のチャリティー・イベントなどで回した。

Thaemlitzがプロデュースを始めたのは、様々な悩みを抱えていた時期だった。1992年、彼女はメジャーレーベルのレコードをかけることを拒否したせいでSally’s IIのギグをクビになり、彼女が関わっていた活動団体の多くが解体し、更に、ジェンダー、セクシュアリティ、人種、民族性などといったことで、様々な人間関係に亀裂が走っていた。「私の人生が音を立てて崩れていた。そんな時期に自分でトラックをプロデュースするようになったんだ。人生にうんざりした、ひねくれた状態でね」
90年代は、この街に住む異端者にとって過酷な時代だった。市長Rudolph Giulianiの先導のもと、“ディズニー化”と呼ばれたミッドタウン・マンハッタンのインナーシティの高級化が行われ、警察による暴力や官僚の圧力のもと、アグレッシブに事が進められた。
「不気味だったよ」と、Thaemlitzは思い返す。「1997年ごろ、ディズニーが42丁目を購入したんだ。ほんとだ。数ヶ月後には風俗街が綺麗になくなっていた。ある時、42丁目でディズニーがクソみたいなエレクトリック・パレードをやったんだが、このために街は街灯をすべて消していて、ディズニーの影響力を見た気がした。それは大した事じゃないように聞こえるかもしれないが、抗議活動をやっていた時は、警察だとか役人にさんざん街の安全だとか消防のルールだのなんだのって規則を押し付けられて、デモ運動の動きを制限させられた。商業と政治と“公共の場所”の社会的流動性の仕組みがよく解った一件だった」

警察の弾圧や暴力に屈し、Thaemlitzの知り合いのSally’s IIのセックス・ワーカー達の多くは姿を消し始めた。「ニュージャージーに引っ越した人もいたし、アップステートへと行った人もいた。誰も消息が掴めなくなった人もいた。ショックだったよ」。彼のこの時の絶望や憤りは、『Midtown 120 Blues』に込められている。このディープ・ハウス・アルバムには、幸福感溢れる現実逃避ではなく、孤独感や困難に立ち向かう心情が表現されている。Thaemlitzは音楽評論家としても、音楽制作者としても、ダンスミュージックのユートピア的思想主義は苦難、不平等、そして絶望から生まれているのだということを思い出させてくれる。アルバムの冒頭で彼女はこう言ってる。「ハウスはただのサウンドではない、シチュエーションだ」
パリのレズビアン・クラブ・シーン /
大抵の街では、クィア・ダンスミュージック・シーンに関わっている人の割合の大部分を男性が——特にオーガナイザーやDJとして——占めているが、 パリは90年代後半から例外になっている。パリでは、多くのクィアの女性のDJ、イベント・プロモーター、バースタッフ、そしてファンがエレクトロニック・ミュージックを支えて来た。中でも、シーンの重要人物として活躍してきたのが、DJ、プロデューサー、そしてCorrespondantのレーベルボスであるJennifer Cardiniだ。パリのエレクトロニック・ミュージック・シーンに女性が関わるようになったきっかけの1つである、レズビアン・クラブLe PulpでレジデントDJを開始したのが、彼女のキャリアのスタートであった。Le Pulpは1997年にオープンし、クラブの創設者はローカル・レズビアンDJのカリスマ、DJ SexToy (Delphine Palatsi)のルームメイトであった。当時、SexToyはCardiniやKill The DJのFany Corale、Phunk PromotionのFabrice Desprez、そしてIvan Smaggheらと良くつるんでおり、このメンバーがLe PulpのレジデントDJチームとなった。「当時のパリのレズビアン・シーンは素晴らしかったわ」と、Cardiniが思い出す。「Le Pulpはいつも女の子でいっぱいで、皆レズビアンであることを楽しんでいた。男も来ていたけど、彼らはお利口さんにしていたわ!」
Le Pulpの客はレズビアンが多かったものの、誰でも歓迎だったため客層は多様であったとCardiniは語る。「色々な場所から、様々な性的指向、階級、学歴の人達が来ていたわ。お互いの違いを受け入れあうことができて、コミュニティとして団結していた。黒人、トランスジェンダー、アラビア人、レズビアン、迷子の観光客、ゲイの男、ヒップスター、労働者階級——誰でも歓迎だった」。10年続いたLe Pulpは、数多くのクィア女性にエレクトロニック・ミュージックに触れる機会を与え、女性がシーンにより深く関わって行くことを可能にした。Le PulpのレジデントDJ以外でも、Chloé、Maud Scratch Massive、Fantômette、Léonie Pernet、Ragnhild Nongrataなど、その後パリ内外で注目を浴びるようになる女性DJが何人も登場した。

2007年、住宅団地の建設計画のために市が建物を買い上げたため、Le Pulpは店を畳んだ。しかし、この閉店に触発されて、新しいプロモーターやヴェニューが生まれていった。「ここ数年で、たくさんのレズビアン集団が結成されてきたわ。特に、Le Pulpが閉まって以来」と、ファンジン、ウェブサイト、そしてイベントシリーズ(「バーの小さなパーティーから、ビッグなクラブ・イベントまで開催してるわ」)を運営するBarbi(e)turixの主宰者、Ragnhild Nongrataは言う。Le Pulp以降に生まれたレズビアン・クラブには、Le Troisième LieuやRosa Bonheur (元Le Pulpのマネージメント・チームが運営)などがあり、女性主導のプロモーション集団としては、La Petite Maison Éléctronique、La Babydoll、Corps vs. Machine、Barbi(e)turix、Ladies Room、Kill The DJなどが生まれた。Le RexやConcreteなど、他のパリのクラブでも女性が重要なポストについた。ところが、ニューヨークのミッドタウンのトランスジェンダー・シーンのように、パリのレズビアン・シーンも土地の値上がりや運営コストの増額などにダメージを受けており、特にパリのゲイ/レズビアン街として知られるマレ地区が厳しい状況を迎えている。La BabydollとLe Troisième Lieuは運営停止を余儀なくされ、他にも現在活動休止している集団は多い。
ヨハネスブルグのハウスとクワイト /
ヨーロッパや北米以外の場所にもたくさんのストーリーがあり、Lerato Khatiの話に耳を傾ければ、南アフリカの最大都市ヨハネスブルグのクィア・ダンス・シーンがどのように発展したのかが解る。KhatiはUzuri RecordingsとUzuri Artist Bookings & Managementを運営しており(Portable、Tevo Howard、DJ Qu、Levon Vincentなどが所属)、Tama SumoとPortable/Bodycodeと共にSüd Electronicの共同マネージャーも務めている人物だ。
Khatiはソウェトという黒人住居区にて育った。アメリカへ留学した従兄弟や友人が持ち帰って来るテープを聴き、80年代後半ごろから彼女はシカゴ・ハウスを聴くようになったと言う。テレビでも新しい音楽に出会う機会があった。「Darryl Pandyの“Love Can't Turn Around”のミュージック・ビデオを初めて見て、衝撃を受けたわ」と、彼女は言う。「Sylvesterのビデオを見た時も、同じだった」

1990年、彼女はイェオビル地区の元映画館の廃墟にて行われたレイヴ・パーティーに初めて行った。「この経験をして、人生が変わった」と、彼女は語る。20歳になる前、彼女が働いていたカフェの上階のスペースで、彼女はPlanet Hendonというクラブをスタートした。「昔から、黒人の女性が飲み屋を経営する伝統があって、そういうバーは“シビーン”と呼ばれていた」と、Khatiは言う。「そして、こういう違法バーを経営する女性は、“シビーン・クイーン”と呼ばれていたわ」。彼女の祖母も1950年代にジャズ・シビーンを経営しており、彼女はクラブを経営することで、家族の伝統を受け継いだと言える。

世界中のダンス・シーンに人種隔離の歴史があるが、ヨハネスブルグでは、アパルトヘイトの影響が特に顕著であった。Khatiは白人、インド人、中国人、南アフリカ黒人など、多人種グループとつるんでいたが、これは珍しいことだったと言う。「色々な人に“ユナイテッド・カラーズ・オブ・ベネトン”(註:イタリアのブランド。多人種のモデルを広告で使用することで知られる)と呼ばれていたわ」。しかし、“クイーン・オブ・クワイト”ことBrenda Fassieがバイセクシャルだとカミングアウトし、話題になると、クィアの黒人たちに転機が訪れた。「あれは、クィアの黒人にとってターニングポイントだったわね」と、Khatiは言う。「ヨハネスブルグのダウンタウン・エリアでは、クィアな人々を見かけるようになった。毎週金曜日、そこのショッピングモールにあるバーで、色々な人が集まってパートナーを見つけていたわ」。しかし、それでも安全性とプライバシーへの配慮のため、バーに入るにはパスワードが必要であり、ズールー語で“友達”を意味する、「abangani」が合い言葉として使用された。
90年代と比べると、今のヨハネスブルグは随分な変貌を遂げた。Khatiは2012年に同市に戻り、彼女が知っていたクラブがほとんど無くなっていたことを知ったらしい。「ヨハネスブルグのダウンタウンはまるでゴーストタウンだったわ」。しかし、明らかにゲイだと解る男性を道で見かけるようになったという、良い変化もあった。「若くて、綺麗で、お洒落な黒人のクィアたちを見かけるようになった。これは嬉しかったわね。残念なことに、未だに黒人のレズビアンに対しては残酷な暴力が振るわれているらしいけど。これは男尊女卑から来るものだと思う」
ロサンゼルスのA Club Called Rhonda /
オルタナティブ歴史の中には、最近のストーリーもある。2008年以来、A Club Called Rhondaはロサンゼルスで毎月、性的にオープンで、クィア歓迎の、多人種イベントを開催しており、オーガナイザーは同イベントのことを“ポリセクシャル・ハード・パーティー”と説明する。Rhondaという名前の女性のペルソナを介して、ソーシャルメディアなどで“Rhondites”と呼ばれるファンと交流をするACCRは、グアテマラン・ディスコで最初にイベントを開催したのち、フラメンコ・ディナー・シアターへ移り、最終的にメキシカンなナイトクラブ、Los Globosに落ち着いた。ACCRを先導するのはGregory AlexanderとLoren Granicの2人組だ。「とても異なる背景の出身だけど、私たちは音楽の好みが近いのと、Paradise Garage、The Loft、Continental Baths、Studio 54など、伝説的なナイトライフの神話に憧れていて、仲良くなったんだ」
彼らの友情/パートナーシップは、ACCRの目指しているものを象徴している。Alexanderはゲイ、Granicはストレートであり、2人はその両シーンを融合させたイベントを開催している。「LAのシーンは細分化されすぎていた」と、Alexanderが説明する。「色々なしがらみだとか、壁が隔たりを作って、人々が自由に交流できない状態だった」。そして、彼はメインストリームのゲイ・ダンスシーンの現状にも辟易していたと言う。「ゲイ・コミュニティがメインストリーム・ポップの焼き直しのゴミ捨て場になっていたのが、ゆるせなかった」



2人とも、LAには何かが足りないと感じていた。Granicはこう言い表す。「異端者達が安全に楽しめる場所が必要だった。ゲイだとかストレートだとか細かく分類されていなくて、多種多様な人々が混ざることができる空間が無いと感じたんだ」。Alexanderに言わせると、ACCRはゲイ・クラブでも、ストレート・クラブでも、バイセクシャル・クラブですら、無い。むしろ、それ以上だと言う。「あらゆるレッテルを捨てて、壁を壊して、ただ心の底から楽しむことができる場所だ」。社会が正しいとする性別アイデンティティの概念を壊し、もっと流動的な空間を作ろうとする努力が行われている。「ここでは、誰ともチャンスがある」と、Alexanderは言う。
とは言え、参加客が安心して、自身のセクシャル・アイデンティティで遊ぶことができる空間を作ることは、難しかったと言う。「ジェンダーやセクシュアリティに関することで、色々話し合わなきゃいけない問題はあった」と、Alexanderは言う。「新しいヴェニューでイベントを開く時、そこのセキュリティスタッフに、うちのイベントは何でもありだという事を説明しないといけなかった。ドレスコードは無いし、他人を批判することも禁止、そして何より、暴力は絶対に禁止してる」。そして、初めてACCRに訪れる客が“カルチャーショック”を受けるという点も懸念材料の1つだった。「カルチャーショックは良い事だと思うけどね」と、Granicは言う。「しかし、初めて来る人の中には、好きなミュージシャンやDJを聴きにクラブに入って、中で起きてる様々な出来事に心の準備が出来てなかった人も居るみたいだ」
尽きないストーリー /
A Club Called Rhondaを運営する2人に、影響を受けたプロモーターについて訊くと、ロサンゼルスのMustache Mondays、ニューヨークのAbracadabra、ポートランドのEcstasy、サンフランシスコのHoney SoundsystemとHard French、東京のFancy Him、ベルリンのBerghain/Panorama Bar、そしてロンドンのVogue Fabricsなど、世界中のプロモーターやクラブをリストアップしてくれたが、この事からも解る通り、まだまだ語っていないセクシュアリティとダンスミュージックの密な関係のストーリーは、過去にも現在にもたくさんある。
例えば、トロントのダンスミュージック史に目を向け、チャーチストリートの初期のディスコや、90年代のウェアハウス・レイヴ、伝説的なナイトクラブIndustry、ポッパー(註:亜硝酸アミル)まみれで有名なBarn、色々なものまみれで有名なComfort Zoneや、その他の混沌とした深夜営業のクラブの軌跡を辿っていけば、この地でクィア・ムーヴメントがどのような成長をしてきたのかが解る。

そして、サンフランシスコのディスコとポスト・ディスコ時代の発展についても、もっと言及することはあるし、大物女性DJの割合が世界的に見ても高い街であることも、特筆すべき点だ(Rebekah Farrugiaの『Beyond The Dancefloor』を参照)。
もちろん、ベルリンのエレクトロニック・ミュージック・シーンにおいても言えることはたくさんある。ここには、ゲイ、レズビアン、トランスジェンダー、エスニック・クィア、ストレートなど、あらゆるタイプのシーンが重なる環境が出来上がっている——彼らが皆1つのクラブに集まることは少ないが。
更に、ダンスミュージック史における「黒人対白人」の構図に当て嵌まらない、他民族にフォーカスしたイベントが多数あることも忘れてはならない。各国の大都市で、南アジアや中東のクィアが集まるイベントが開催されており、例えば、Gayhane (ベルリン)、Jai Ho (シカゴ)、BesharamとRangeela (トロント)、Urban DesiとClub Kali (ロンドン)、SholayとColor Me Queer (ニューヨーク)などが挙げられる。そして、ニューオーリンズのBig FreediaやSissy Nobbyといったアーティスト達が牽引している、性別というものに囚われない若者たちの活気あふれる“ケツ振り”文化、“シッシー・バウンス”にもまだ触れていなかった。
一刻を争う現状 /
以上で述べた通り、(少なくとも、ディスコ以降の)ダンスミュージックの歴史における、性的少数者の貢献は多大なものであり、そういった事を踏まえると、クラブ・シーンに身を置く人々の中に、Promote Diversityなど、性の多様性を促進する活動を積極的に行っている者達が居るのは、ごく自然なことなのだ。だが驚くべきことに、こういった動きがあり、クィア・ナイトライフは未だ健在であるにも関わらず、エレクトロニック・ミュージックのメディアからこういった性に関する話題が減っているのも事実だ。さらに奇妙なのは、ストレートの中流階級の白人オーディエンスが、貧乏なクィアの黒人やラテン系の人々が30年前に作っていた“クラシック・ハウス・ミュージック”を、今“再発見”し、夢中になっている、という現状だ。だがおそらくこの彼らは、その当時の人達が現在どこで何をやっているのか、知る由もないだろう。もちろん、これはカルチャーが世界的な社会現象になってメインストリーム化したことに起因しているのは間違い無いが、それだけでなく、最近、性に関わる問題の社会情勢の悪化が顕著になってきており、不安が拭えないのも事実だ。
近年、世界各地での性的平等性と多様性の認知度を高めようとする努力が、報われていないどころか、むしろ退化していると思わずにいられない事例が発生している。その中でも最近世界的に注目を浴びているのが、ロシアだ。Promote Diversityが開催された背景には、「同性愛プロパガンダ禁止法」だけでなく、近年のロシアでの性的少数者への暴力行為の増加という側面もあった。こういった事件の加害者は、多くの場合、大した報いを受けずに終わっており、当局がある程度黙認しているのだと考えずにはいられない。

ロシアのイベントにブッキングされたアーティスト——特に、Terre Thaemlitzのようにクィアであることを公言している人——にとって、これは悩ましい現状だ。「私はいつも、現地の人々が何らかの暴力や罰を受けてしまうのではないかと、不安になる。イベントに行ってギグをやって、ギャラを受け取って帰って、後になって、私がそこにいたせいで——あるいは私と関わりを持っただけで——何らかの被害を受けた人が居たなどと知らされたら、どうしていいか解らない」
しかしこういった現状にあるのは、何もロシアだけではない。ゲイ、レズビアン、バイセクシャル、トランスジェンダーや、何らかの形で性的に異端だと思われる人が危険な目にあってしまう可能性が、今世界各地で高まっている。例えば、Lerato Khatiはインタビュー中に、南アフリカでの組織的なレズビアン迫害に加え、パリ、ベルリン、ニューヨークで最近起きた、ホモフォビックな暴力事件について話していた。そして、Jennifer CardiniとRagnhild Nongrataは2人とも、フランスで同性結婚に関する論争が行われる中、国内の同性愛嫌悪が驚くほど増幅していると話していた。そしてインドでは、2009年に高等裁判所が同性愛行為を合法と判断したにも関わらず、去年の秋、インドの最高裁が植民地時代からの古い法律を復権し、同性愛を違法とした。
そういった事を踏まえると、今回インタビューを行ったDJ、プロデューサー、プロモーター達が、クラブカルチャーにおける性の多様性や寛大さが減少していると感じていると話していたのも、納得がいく。「クラブがどんどんとオープンさを失っていくのを見ると、悲しくなるわ」と、Khatiは言う。「私は、アーティストや有名人にもっと使命感を持ってほしいと思う。彼らには、サポーターやファンのためにも、多様性や寛容の精神を広めて、世界をより良い場所にする義務があると思う」
そして、 パフォーマンス、プロダクション、ディストリビューションといった様々な面で、エレクトロニック・ミュージックに貢献する女性が増えているにも関わらず、業界は未だに女性に対して厳しく、特にクィアの女性は肩身の狭い思いをしている。「女性のセクシュアリティは特に辛辣な意見の的になるわ」と、Cardiniは言う。「例えば、レズビアンやストレートな女性がプレイしている時のBoiler Roomのチャットを見てみれば解る」。これに対抗するため、Tama SumoがBoiler Roomに出演した際、プレイ中にたくさんの同性カップルがキスをし、同性愛嫌悪の問題提起を行った。Boiler Roomのスタッフは、以前からチャットルームのコメントのモニタリングを強化しようとしており、このキス抗議にはスタッフも賛同した。

偏見、不寛容、暴力、排除といったテーマの議論になると、ダンスミュージック・カルチャーではどうしても、音楽やパーティーの神秘を通じて人々の理解を獲得しようとする理想論に逃げてしまう傾向がある。たしかに、現実が辛ければ辛いほど、音楽の力さえあれば人々の心が1つになる、と信じることで安心や希望が得られるのは理解できる。しかし、そのせいで目の前で起こっている問題に盲目になってしまうことはあってはならないと、Thaemlitzが警告する。「夢と希望をベースに活動をしようとすると、不合理で抽象的な“愛こそが答え”などという戯言にしがみついてしまい、ダンスをすることや、音楽を作ることで世界を変えることができるなどという幻想を抱いてしまう。結果的に、自分たちの抱く願望に夢中になり、現実で起こる暴力や殺人に気づかなくなってしまう。今年だけで、いったい何人のトランスジェンダーの女性がニューヨークで暴行されたり、殺されたりしただろうか?そしてこういった事件に人種や貧困はどのように関連しているのだろうか?」
今回の特集は、ただダンスミュージックの歴史において、クィアの人々がどのような役割を果たしたか、そしてどのように今でも貢献しているのか、という側面を明確にする事だけが目的ではない。エレクトロニック・ダンスミュージックのメインストリーム化が加速し、同時に、世界が保守的な思想へと傾倒しつつある今、ダンスミュージックにおける性の多様性の促進は、今まで以上に急を要する。