2014/08/02(土曜) 18:03

パレスチナ人風刺画家の残したメッセージ

パレスチナ人風刺画家の残したメッセージ

皆様は、芸術や文学が人生の逆境においても情熱をもたらし、人間に希望を持たせることができる、ということをご存知でしょうか?多くの人々は、戦争状態や身柄を拘束された状態にある時は、平常時よりもさらに文学や芸術を必要とすると考えています。それは、文学や芸術により、抵抗の精神が強まり、人間が希望を持ち続けることができるからです。現在、ガザ地区はシオニスト政権イスラエルによる封鎖と空爆により、世界最大の刑務所と化しています。しかし、この地区に住むパレスチナ人は、決して理想を諦めることなく、残虐なシオニストの犯罪行為に抵抗しています。このような状況の下で、パレスチナ人の芸術家たちも、パレスチナ国民と同様に抵抗を続けており、作品を制作し、パレスチナ人の声を世界に届けるために貢献しているのです。

 

『ガザの書』と著者アーテフ・アブーセイフについて

最近、イランではカマ・プレス出版社により、短編小説集『ガザの書』が出版されました。その編者アーテフ・アブ-セイフは、ガザ・アズハル大学の教授であり、本来は政治学を専攻していたにもかかわらず、文学に多大な関心を持っています。このため、彼は、祖国を世界の人々に紹介すべく、ガザ地区に在住する作家たちの物語を編纂しました。『ガザの書』には、ヨルダン川西岸地域の3世代の作家による10の物語が収められており、そのうちの1つは、アブーセイフ氏自身が執筆したものです。彼は、これについて、次のように述べています。

「本書の作者のうち、5人は女性である。読者は、毎年イスラム教徒の断食月ラマザーン月の最後の金曜日・世界ゴッツの日が近づくにつれて、世界のトップニュースとして報じられる、パレスチナから聞こえてくる様々なメッセージを耳にするのである」

アブーセイフ氏は1973年、ある難民キャンプにて誕生しました。彼は、生まれたときから、刑務所に閉じ込められているように感じていたと言います。アブーセイフ氏は、物語の執筆とは、自分たちの存在の証や、権力を振るう人々に対し抵抗する人々の声を届ける運動である、と考えています。これらの物語はいずれも、文学的、芸術的な特徴を持っており、社会的な点からも重要性があります。これらの物語には、イスラエル軍の度重なる攻撃による、近年のガザの人々の生活様式の変化が見て取れます。

『ガザの書』は、西側諸国のメディアが報じるガザ地区のイメージとは異なり、怒りや恐怖感の中にありながらも、勝利への希望が存在する生活が描かれています。これらの物語のテーマは、美しい畑、オリーブやオレンジが植えられている果樹園などではなく、悲しみの中にも希望が存在する都市の物語です。しかし、これらの物語を読んでいくと、読者は最終的には息苦しさを感じることになります。

風刺画家ナージー・アルアリー略歴

最近、世界のトップニュースやニュース映像の多くは、イスラエルのガザ攻撃に関するものです。しかし、今から27年前も、世界ゴッツの日を迎える中、イギリス・ロンドンで、パレスチナ人の風刺画家ナージー・アルアリーが暗殺された、というニュースが報じられました。

ナージー・サリーム・ホセイン・アルアリーは1936年、パレスチナ・アルシャジャラ村に生まれました。彼は1948年、家族や地元の人々とともに、レバノンの町セイダーの東にあるアイノル・ヘルワ村の難民キャンプに移住しています。ナージー・アルアリーは、1960年から1961年にかけて友人たちとともに、手書きの政治紙『叫び』を発行していました。彼は、機械工学を専攻した後、1年間レバノンのデザイン学校で学びましたが、政治的な活動をしていたために訴追、逮捕されました。釈放後は、レバノンの町スールに赴き、同国のシーア派のアルジャアファリーヤ・スクールにて、教育活動に従事し、またレバノンのシーア派指導者イマーム・ムーサーサドル師に協力しています。

ナージー・アルアリーは、1963年から新聞記者、そしてデザイナーとして仕事を行っていました。彼のデザインはアラブ諸国をはじめ、世界各国における数十の展示会に展示されており、そのうちの彼のデザインの中から選ばれたものを収めた3冊の書籍が出版されました。彼のウェブサイトでは、彼の言葉が次のように述べられています。

「私は、シオニストとの間の問題を解決することには賛成だが、彼らと和解するつもりはない。私は、パレスチナの解放に賛成である。この場合、パレスチナはガザ地区とヨルダン川西岸地域には限定されない。ハトとオリーブの小枝は、平和の象徴として世界中に知られているが、パレスチナに関する我々の法的な権利については、誰も知らないのである。また、風刺画というものは、単なる表明ではなく、何かを奨励し、啓発し、また自分の望むところを表明するものである。風刺画家は、人々と政府の間の距離をなくすよう努力する使命を負っている。私の作品は決して、見る人を楽しませるだけで終わってしまってはならず、見る人を考えさせるようでなければならない。私がデザインにおいて決して譲れない一線とは、イスラエルへの屈服である」

アルアリーの作品とハンザラ少年について

ナージー・アルアリーの大部分の作品には、ハンザラという名前のパレスチナ人少年が出てきます。ハンザラは、全ての出来事を見守っており、ナージー・アルアリーはこの少年について次のように述べています。

「ハンザラは、私の署名であり、彼が事実以外のものを見たり語ったりしないことを約束している。私は、ハンザラを美少年には描かなかった。彼の頭は、ハリネズミのようにボサボサである。ハンザラは太っておらず、また嬉しそうでもなく、おとなしくもなく、また育ちのよい普通の少年とは、決して似ていない。彼は、難民キャンプの子どもたちと同様に裸足である。ハンザラは、両手を後ろで組んでおり、これはアメリカ式の解決法を決して受け入れないことの印かも知れない。彼は、10歳の少年として生まれ、今なお10歳のままである。私は、彼を全ての貧しい人々に捧げるとともに、この少年の名を、アラビア語で苦味のある植物の一種を意味するハンザラと名づけた。ハンザラは当初、1人のパレスチナ人少年に過ぎなかったが、現在私は、この少年が世界の全ての子どものものになっていると感じる。彼は、純朴な少年ではあるが、苦しんでいる。私が思うに、このために、人々はこの少年を目覚めの証として選ぶのではないだろうか」

アルアリーの作品に見る「人権の無視」

ナージー・アルアリーの風刺画において非常に注目されているテーマの1つに、社会における人権の無視が挙げられます。彼は、様々な字体や幾何学的なデザインで、法律を人権にとって明白なものとして描いており、人権を無視することによる惨事を示しているのです。彼の深い内容を持つ風刺画は、支配者がそうした災いを引き起こしておきながら、非難されることは受け入れないという問題、そして、圧制者は人権の無視を隠蔽するが、抑圧されている人々はそうした事実を追求している、というテーマを扱っています。ナージー・アルアリーのある作品では、主人公のハンザラ少年が新聞記者に、民主主義に関する今日の記事はとても面白かったが、明日は何について書くのかと問いかけています。これに対し、新聞記者は遺言書を書くと答えるのです。このことから、ナージー・アルアリーがテロや殺害、当時のメディアに対する圧力や、言論の自由の侵害という事実を知った上で、自国の解放と自由のために、彼が自分の出来る全ての事を行ったことが明らかになっています。

アルアリー氏、ロンドンで暗殺

1987年7月22日の午後、ナージー・アルアリーは出勤する途中に銃撃を受け、病院に搬送されましたが、その38日後に彼が殉教したというニュースが発表されました。彼の殉教後、クウェートの新聞アルワタンは、「樹木は立ったまま死に行く」という記事の中で、次のように報じています。

「我々は、ナージー・アルアリーの死を悲しむのではなく、現状を憂うべきである。ナージー・アルアリーは、あのような人生と死に方を自ら選んだのであり、それを主張していた。彼が暗殺されたのは、彼が完全な意味でのパレスチナ戦士だったとともに、祖国の全面的な解放について、決して妥協しなかったからである。また、彼の芸術が人々の中から生まれ、その作品が多くの人々の怒りを引き起こしたことも理由である。さらには、彼の作品にはパレスチナ人の血潮が流れており、また彼が自分の生活ではなく、表現の自由という権利を求めたことも指摘できる。だからこそ、彼は銃弾によって永久に沈黙させられたのである」

アルアリーの信念を象徴するハンザラ少年

ガザ地区の子どもたちがイスラエル軍により殺害されている現在、爆弾や拳銃でも殺すことの出来ないパレスチナ人の子どもがいます。その少年は、ナージー・アルアリーの生み出したハンザラ少年であり、ナージー・アルアリーは最も辛い、しかも後世にまで残る風刺画を生み出しました。現在、彼が殉教してから27年が経ちますが、未だにパレスチナ人の子どもたちは、シオニストに苦められています。しかし、その一方で、風刺画の中のハンザラ少年は今もってパレスチナの解放を信じており、その日が近いうちに訪れることを確信しているのです。

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