1. 学校教育における習字から書写への変遷
「習字」から「書道」へ
「習字」の語は室町時代に初出する。以降、寺子屋教育時代を経て明治時代まで広く用いられ「てならい」と訓読みもされてきた。江戸時代の藩学や郷学では筆道、習書、書学、学書、手習などの別語も行われたが、当時は日常の文書が筆書によっていたので、どの用語の場合でも、教育の中心の位置を占めていた。毛筆による習字を通して書牘(しょとく)(手紙)、修身・道徳、文学、歴史、地理、実業、その他生活に必要とされる実学や教養を身につけ、あわせて書の素養の修得および精神修養も目ざすという、いわば総合教育の場であった。
1872年(明治5)の学制施行にあたって、それまでの寺子屋教育の歩みを受けて、初等教育、中等教育とも毛筆による学習は「習字」の呼称で筆頭教科として位置づけられた。しかし、年とともに、欧米の教育思潮の影響と、活字印刷および硬筆の普及に押されて総合教育的な性格を薄くし、教科的位置を後退させた。1900年(明治33)には小学校では国語科のなかに包括され、ライティングの訳語の「書キ方」の呼称で、国語科のなかで書字技法を中心に扱われるように移行した。中等教育でも翌1901年に「国語科習字」となった。
大正時代から昭和時代へと移るにつれて、毛筆が実用としての役割をしだいに小さくしていくその一方で、芸術的側面と毛筆による教育の果たす精神陶冶(とうや)的側面がクローズアップされるようになり、皇国主義思潮の台頭とも絡んで、1941年(昭和16)の国民学校令では、国語科から離れて「芸能科習字」として独立。43年には中等学校でも「芸能科書道」となって独立。「書道」の呼称が教科名として学校教育に初出することになった。
第二次世界大戦後
戦後、新発足した新制の高等学校では、そのまま「芸能科書道」となり(1960年からは「芸術科書道」)、現在に至っている。新制の中学校ではふたたび国語科の領域分野に位置づけられ、「習字」の呼称に復帰して硬筆を加えて行うようになった。一方、小学校では国語科のなかで毛筆が廃され、硬筆のみ「書き方」の呼称で行われるようになった。戦後の教育体制が整うようになってきた1951年(昭和26)の学習指導要領試案から、小学校に毛筆による学習が「習字」の呼称のもと、学校選択という形で第4学年以上の適宜の学年で行ってもよいこととなった。ついで、58年改訂の学習指導要領から小学校、中学校ともに硬筆・毛筆による学習を内容とする「書写」の呼称に統一されることとなった。このとき以降「習字」の呼称が学校教育から消えることになったのである。
1968年(昭和43)改訂の小学校学習指導要領の書写では、硬筆のほかに毛筆による学習が、第3学年以上の学年で年間20時間程度必修となった。ついで、77年改訂の小学校学習指導要領では、硬筆・毛筆による書写は「言語事項」に位置づけられた。89年(平成1)改訂の小学校学習指導要領では、その取扱いについて「毛筆を使用する書写の指導は、第3学年以上の各学年で行い、硬筆による書写の能力の基礎を養うよう指導し、文字を正しく整えて書くことができるようにすること。また、毛筆を使用する書写の指導に配当する授業時数は、各学年年間35単位時間程度とすること。なお、硬筆についても、毛筆との関連を図りながら、とくに取り上げて指導するよう配慮すること」と示された。中学校の学習指導要領においても、硬筆・毛筆による書写は「表現」領域から小学校同様「言語領域」に位置を移し、「授業時数については、第1学年は35単位時間程度、第2学年及び第3学年は各学年15~20単位時間とすること」と明示された。その後、98年(平成10)の改訂では、内容と時間数をやや縮減させて、現在に至っている。