1. 本質
ことばを書きとどめ、それを読み取るには、文字writingがなければならない。文字は、図形記号の一そろいで、読み書きliteracyの基準をつくる表記notationを築く成分である。字characterは、その構成単位。言語は、元来音声記号の時間的配列だが、それを文字で図形記号の空間的配列に置き換える。それが表記であり、言語の保存、移動、再生をデジタルな段階で可能にする。音声言語は、一次元の線なりに延び、来ては去っていく。そのたびに選び取られた記号が前後に連なる音列として現れる。二次元面に線なりの音列そのままに言語を写し出す文字列が表記をつくる。絵が物語を映しても、それは表記ではない。音声言語に対応する文字列が表記である。たとえば、漢数字は、「三万五千八百六十四」のように、個々の言語記号に忠実に向かい合い、音列に沿う文字列を展開する。しかし、アラビア(算用)数字は、音形に向かい合うとも、音列に沿うとも定まらず、したがって文字とはいえない。読み書きは言語活動であり、表記には言語、文字には音韻、文字列には音列が対応する。アラビア数字は、もっぱら数という意味内容を示し、かならずしも音列が対応しない。たとえば、フランス語でいう80quatre-vingts(カトル・ヴァン)(四つ二十)を「八十(八つ十)」としては困るが、80なら、言語を超えて通用する。その一方で、もっぱら音声を示す音声記号は、言語音を追いながら、かえって単位音のデジタルな弁別的性格を崩す。物理的・生理的な現実音にできる限り近づこうとして、記号にアナログ的な連続性を取り込むあまり、弁別(べんべつ)機能をあいまいにするからである。語であれ、音節であれ、音素であれ、音列の構成単位が文字にあてられる。文字は、構文上か形態上か語彙(ごい)上か、いずれかの別こそあれ、言語としての有意の異同に基づいて表記を書き分ける。言語単位をその異同のままに過不足なく忠実になぞって際だたせる。たとえば、現代日本語のハネ音の音価が、たとえ[m][n][][
][N]などと異なろうとも、文字では「ン」または‘n’としか書かない。その一方で、同音の[j
:]でいわれる3語が、「ゆう」または‘yuu’で「(髪を)結う」、「いう」または‘iu’が「(物を)言う」、さらに‘y
’で「(1日の)夕」とそれぞれ異なる語として書き分けられる。なお、句読(くとう)点は、文字を補って、現代の表記をまとめるたいせつな要素である。数字や音声記号とは異なり、言語の単位とその配列に忠実に従っている。文字の単位は字であるが、表記の単位は語から文、さらに句読点を加えて文章に及ぶ。
文字表記には、その目的によって幾通りかがある。
(1)正書法orthographyは、日常、公私の記述に用いられる制式である。現代日本語の場合は、これに、漢字仮名交じり、仮名専用、ローマ字書きの3種類があるが、漢字の字種と用法には揺れがある。
(2)音韻表記phonological notationは、語形の単位である音素phonemesに対応して記述される。これが正書法の理想像でもある。多くの正書法のうちでハングル(朝鮮文字)などは、これに近い。
(3)転写transcriptionは、外来語音を母語の表記法になじむように表記する方式で、本来便宜的処置である。明治初期「ローマ字会」が子音表記を英語にならった方式をとり、これがJ. C. Hepburn編著の「和英語林集成」の改訂版に採用された。いわゆるヘボン式ローマ字として普及したが、これは、英文むきの転写法にあたる。漢字音による転写は無原則で、諸国の固有名詞の例が多い。
(4)翻字transliterationは、原典の表記文字を別種の文字に置き換え相互交換を可能にする。1989年に国際標準化機構(ISO)が日本語の翻字法として定め、それに先だつ再度の内閣訓令もあり、音韻論的基礎も確かな、いわゆる訓令式ローマ字は、仮名書きからの翻字法である。この普及徹底がおぼつかない現状は、国際情勢および行政上の機構運用にかかわる課題である。なお、点字などもこれに類する。
(5)音標(正音表記)orthoepical notationには中国の'pinyin'または「注音字母」があって、もっぱら語音の標準的発音を示す。国家、国民をまとめる民族語の基盤を整えるのに役だっている。
(6)国際音声記号international phonetic signsは、まったく言語音声の記述研究のために用い、辞書では語音の注記などにも流用されるが、公共一般の言語表記には、かかわらない。文字は暦や秤(はかり)、通貨などとともに、記数法と並ぶ文明の手足であり、本来、多様な民族文化間で流通する文明の基準である。しかし、仮名やハングルは、珍しく孤立している。